――あれ、お前の恋人じゃないか?
 見覚えのある背中を見つけて、ちょうど隣にいる彼女にそう教えてやろうとしただけだったのだ。本当だ。
 けれど監督生は、俺の知らない名を呼ぶために吸い込んだ息を、そのまま呑み下してしまった。遠い背中に駆け寄ろうともせずに、なぜか俺を見上げて苦々しい笑みを浮かべた監督生を見て、その関係がほつれかけていることを悟った。



「監督生? 入るぞ」

 小さく、それでいて下品な悲鳴を上げるオンボロ寮の床を踏んだことは、数えるほどしかない。
 タルト用のフルーツの買い出しを手伝う、と胸を叩いていた彼女が、待ち合わせ場所である鏡舎に一向に現れないので来てみれば、そこにはたしかに監督生の気配があった。
 なにかの欠片をき集めるような音。ノックをして扉を開けると、むわりと、瞬く間に鼻腔を侵してゆく香り。熱帯夜に熟れすぎた果実を閉じ込めておいたかのようなそれに、思わず噎せ返る。

「……監督生? どうしたんだ、一体」

 色とりどりの破片が、饐えた床に散らばっている。無防備にもそこに白い膝をついた監督生が、やおら顔を上げる。まなじりには涙が、表情には不服が滲んでいた。

「……とりあえず、立ってくれ。危ないだろ」
「すみません、トレイ先輩」
「落ち着いたら答えてくれ。これは一体、どうしたんだ」

 差し伸べた手を素直に取ってくれるだけ、ありがたい。手の甲で目元を拭った監督生は、ぽつりぽつりと発露し始めた。

「……あの人と喧嘩をしたんです。それで、かっとなったみたいで」

 とにもかくにも、これはあの恋人という男の仕業で、この異臭の正体が割れた香水の瓶だということはわかった。

「お前が香水を集めてるなんて知らなかったよ。怪我はないか?」

 彼女が頷くのを確認して、マジカルペンで宙に流線を描く。もはや粒のようになってしまった欠片をひとところに集めるのはたやすいが、年季の入った床に染み込んでしまった香水そのものを集めるのは、もう無理だろう。

「風魔法で温めて揮発させてみるが、しばらくにおいが取れないかもな。どこか行くあてはあるか? こんな砂糖漬けのような部屋じゃ、とても眠れないだろ」

 肩をすくめてみると、監督生はうつむいた。それが答えだった。「もうあいつのところへは行けない」という、俺にとっては都合のいい答え。
 顎に手を添えて、しおれた花のように垂れた頭を、そっとこちらに向かせてやる。鼻先を親指をつんと払うと、今まで心のなかで唱えることすら憚られていた願いを、口にする。

「お前が嫌じゃなければ、俺のところに来るといいよ。この鼻が曲がったら、少なくとも俺は困る」



 トレーの上からのぼり立つ湯気。こぼさないようにバランスを取りながら静かに自室のドアを開けると、ベッドのうえで、彼女が目を擦るのが見えた。

「おはよう。気分はどうだ」
「おはようございます。トレイ先輩。……あ、ベッドがふかふかでぐっすり眠ってしまいました。譲ってもらって、すみません」
「構わないぞ。顔を洗ったら、スープで温まるといい。熱くしすぎたけど、お前が戻ってくるころにはいい具合に冷めてると思うよ」

 監督生はひどく恐縮していた。まあ無理もないと思ったが、丸みのあるスプーンですくったスープを一口、二口と嚥下するたびに、その顔付きもほっと和らいでくる。
 おいしいです、と目を細める監督生によかったよ、と笑みを返すと、薄ら雲が月を隠すようなゆったりとした速度で、監督生の表情は歪んでいった。やがてぽろりと一粒涙をこぼすと、堪えきれないというようにはあ、と吐息をつく。

「……どうしたんだ、監督生」

 スプーンを乳白色に沈めると、監督生は自嘲気味に笑った。

「なんだか、トレイ先輩といると、心まであたたかくなってしまって。あの人と別れたばかりなのにこんなことを言うのは最低だってわかっているんですけど、いま私、すごく幸せだって思いました。それで――」

 泣いてしまいました、と申し訳なさそうに白い歯を見せる彼女のことを、今すぐに腕のなかに閉じ込めてしまいたくなる。
 今にも溢れそうないろいろの感情を奥歯で噛み殺して、眉を下げた。

「監督生。それは、こっちの台詞だよ」

(お題ったーより「幸せなのは僕のほう」でSS)
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