スマホをなぞりながら鼻をすんと鳴らすと、さっきからずっと背後に立っていた彼女が、オレにボックスティッシュを渡してくれた。
「ありがと、監督生ちゃん」
カレッジ時代からのそのニックネームはすっかり唇に馴染んでいたから、ついぞ今日まで変えようと思ったことはなかった。
「花粉症、つらそうですね」
「まあ、毎年のことだしね〜」
一枚引き抜いては鼻に押し当てて、またずびずびと鼻を鳴らしてみる。テーブルのうえに置いたスマホはぜんぜん興味のないネットニュースだった。オレが、読みもしないのにその上を一生懸命に親指でなぞっているバカだってことは、たぶん監督生ちゃんは知らないだろう。
丸めたティッシュペーパーをゴミ箱に放り投げる。白球は、うつくしい軌跡を描いて正確にそこに吸い込まれる。手慣れたものだった。彼女とここに住み始めてから二年間、ずっと腕を磨いていたのだから。
「ケイト先輩、すごい」とか「ケイト先輩、惜しい」とか、表情をころころと変えてみせる彼女はもういなかった。いや、いなくなったのではなく、変わったというほうが正しい。音もなく姿を消した白球の代わりに、
「監督生ちゃん、忘れ物はない?」
と尋ねると、監督生ちゃんは「はい」と小さく答えた。
「でも、ひとつだけ」
やわらかな声と同時に足音がいくつかして、ふんわりと首元に腕を絡められる。
嗅ぎ慣れた彼女のかおりが、詰まった鼻腔をも掠めた。
「……大丈夫ですか。ケイト先輩」
わからないふりをしようとすぐに決めた。頬のすぐとなりで、眠る我が子に囁くように紡がれたその言葉の真意を。
「ダイジョーブなんだけど、外に出ると余計ヒドくなっちゃいそうだから、お見送りに出るのはやめとくね」
「わかりました」
くたびれた毛糸の結び目をほどくように、その腕は離れていった。去年キミにもらったブランドのマフラーよりもあったかかったよ、なんて気丈な言葉を吐き出せなかったのは、目からも鼻からも透明な水があふれて止まらないからだ。
こんな格好わるい顔なんて見せられないから早く行ってよ、と新しいティッシュペーパーを引きずり出すと、床に置いたバッグを持ち上げる音がして。
「ケイト先輩、お元気で」
ざりざりとスニーカーの底を擦る音と、とんと踵を入れ込む音。ドアが開いて、そして閉じたら、しんとした沈黙が、ここにはオレだけだってことを丁寧に教えてくれる。
引き抜くたびに姿勢を変える白い薄い紙で、何度も何度も鼻を拭って、やっと漏らすことができた嗚咽ごと、ごみ箱に放り投げた。
(お題ったーより「泣きたくなるのは間違いだ」でSS)