※主人公=女監督生。卒業後設定。

「ハァ〜? オレはお前の足じゃありまっせ〜ん」

 休日になまえから電話がかかってくるのは、それなりに珍しいことだった。どんぐらいかと言えば宝くじで五千円が当たるぐらい。
 スマホを耳と肩のあいだに挟んで「え〜ケチ〜」という監督生の声を聴きながら、アニキと共用の魔導車に水を降らせた。先週の雨でいっぱい泥が跳ねたのだ。

『エース、今なにしてるの?』
「車洗ってる。アニキとじゃんけんして負けた」
『なら、ちょうどいいじゃん。連れて行ってよ!』

 我ながら間違った選択肢を選んでしまった、と思った。
 なまえがわざわざ電話をかけてオレにかましているワガママは、簡単に言うと「車で送ってけ」という内容だった。
 最近なまえは、ゴーストカメラではなく、風景を撮影する用のカメラに凝っていて、撮り甲斐のあるスポットに出かけるのが趣味らしい。オレにとってはゴーストカメラも風景用カメラも、写真映えする景色すらどうでもいいけど、確かになまえがマジカメにアップする写真のクオリティは増しているように思う。卒業してからもコメント欄常連であるケイト先輩も、それは褒めてたっけ。

『エースも暇でしょ? いいじゃん、行こうよ。絶対きれいだから』
「うげ〜。ひまわり畑だっけ? 花とかマジでキョーミないって。暑いしさ。他のやつ誘えば? ケイト先輩は? デュースは?」
『ケイト先輩はサークル忙しそうだから誘いづらいし、デュースはバイクじゃん。一回乗ったんだけど常識外れのスピード出したい人だから、私にはまだ早かった』
「も〜、ゼータク言うなよ。まあわかるけどね。オレもあんときばっかりは死ぬかと思った」

 ため息を吐きながらも、魔導車をやや雑に流し終えて、すこし泥が移ってしまった自分の足元も洗い流した。冷たくて気持ちいい。
 濡れたビーチサンダルが、足との間できゅっと音を立てる。

「……ま、暇なのは事実だし、アニキが車使わないって言ったら付き合ってあげる。その代わりアイス奢ってよ」
『そんなのでいいの!?』

 電話の向こうで歓声が上がる。両手を突き上げて喜ぶ姿が目に浮かんで、自然と自分の頬も綻んだ。
 玄関のドアが開いた音がしたと思えば、ゆったりとした足音が近付いてくる。

「はは、エース、何笑ってんの。カノジョ?」
「あーアニキ、ちょうどいーや。今日車使っていい? あとカノジョじゃない」
「いいよ。オレ今日は友達のに乗ってく予定だから」
「わかった。じゃあ一日借りるわ」

 ようやく歓声を引っ込めたらしい監督生に「12時半に迎えに行く」と告げれば、より一層高らかに声が上がる。「うるせーよ」と返事をして電話を切ると、足早に支度を始めた。



 なまえを拾って、近くのコンビニに寄ったところで、ようやく冷房が効いてきた。
 オレの分と自分の分のドリンクを買ってくると降りた監督生は、5分ほどで助手席に戻ってきた。

「エース、お待たせ」
「うん。なまえって食べ物とか飲み物選ぶのホント時間かかるよね〜」
「ごめん。他にも新商品とかいろいろあってさ、いっぱい買っちゃった。アイスは溶けるから着いてからね。はいドリンク。あとこれさ、カレッジのときエースがめっちゃハマってたマンガ、特装版になってたから買っちゃった」
「いらねーって言おうと思ったけど、めっちゃ懐かしー。デュースに貸したら8巻だけなくなったんだよなー」
「あのとき、めちゃくちゃ焦って探してたよ」
「はは、知ってる。結局見つかんなかったけどね」

 笑いながらダッシュボードにコミックを置いて、エンジンをかけた。
 すでにこの車の勝手を知っている監督生はスマホにコードを指して、音楽を流し始めた。
 ちょうどいいテンポで進んでゆくメロディは、なまえの好きな曲で、オレの好きな曲でもあった。いつそんな話をしたかはもう覚えていないけど、そういえば監督生を初めて車に乗せた免許取りたてのころから、必ずこの曲を聴いていた。

「お前、この曲どんだけ好きなの」
「え。好きだけど、エースも好きだからかけてた」
「そーなの。オレも好きだけど、それ以上にお前がめちゃくちゃ好きなのかと思ってた。毎回これだから」
「二人ともそれなりだったってオチかあ。……でも、もうこれが落ち着くや」
「そーだね」

 かすかに口ずさむと、なまえのオクターブ高い声がきれいにハモっていた。なんだか心地よくて、フルコーラス歌いきってしまった。
 曲が消えてエアコンの音が主張しはじめた頃合いで、監督生がぼんやりとした声で切り出す。

「そういやさあ、前会ったとき彼氏できたって言ったっけ」
「言ってた。アレでしょ、デートんときヒール履いてなかったら『なんでヒール履いてないの』って怒られたってやつ」
「……フフ、モノマネはさまないでよ。似てるけど」
「でしょ? そのエピソード超めちゃくちゃで、オレ一周回って好き」
「あはは……別れたからさあ、エースに笑ってもらえると吹っ切れる。友達は友達で、『あり得ない』『つらかったね』って言ってくれるけどね」
「……ふーん、そうなんだ。まー分かんないけど、よかったんじゃないの。お前気強いし、合わなかったかもね」
「そうかも」

 ちょっとだけ自嘲気味に笑うなまえは、スカートのやわらかそうな生地を指先でもてあそんでいた。

「――覚えてないかもしれないけど、付き合う前にもエースはそう言ってた。私もっとエースの言うこと聞けばよかったのかな。エースって私のこと、ほとんどぜんぶ知ってるでしょ」

 「うん」と、ひとつだけ低く頷いて、ハンドルを手の中で滑らせる。ホルダーに置いていたブラックコーヒーを一口飲むと、すでに温くなり始めていた。
 なまえもひとつだけ勘違いをしている。オレが「やめとけば?」「お前とは合わないと思うよ」と言ったのは、なにもヒール履け男のときだけじゃない。お前の口から名前の出る男、全員に言ってた。
 ――うわ、まだ名前全員分言える。我ながら気持ち悪い。
 つまりそれぐらいに毎回、どこか呪うみたいな執着心とともに、「やめとけば?」という言葉を吐いていた。

「……お前が失敗するとこだけは何回も見てきたしね。そろそろホントにオレの言うこと聞いてよ」
「え〜じゃあ、アドバイスするとしたらなに?」
「次はオレにするとかさ」

 なまえのかけていた音楽が鳴りやむ。ふっと空気の流れが止まったので、一瞬で手のひらに汗が滲む。

「……オレはホン――」
「エース、やめてよもう。仮にも独り身になったばっかの女友達からかうのは趣味悪いよ!」

 からからになった喉で言い掛けていた「本気だけど」という文字が、干からびて地面に落ちた。
 かれこれ何年も、オレとコイツはこうなのだ。



 車を降りると、なまえはガキみたいに飛び出していった。
 雲ひとつない青空を「めったにない」と喜んで窓の外を眺めていたけれど、偶然飛行機雲が出たとくれば、それはもう今すぐ撮らないといけない条件になったそうだ。
 陽炎が立ち上るコンクリートの向こうに、監督生が言っていたとおりの鮮やかなひまわりが続いている。
 ――くだらないと思っていたけど、言われてみれば、まあまあきれいだと思った。

「なまえー、帽子忘れてるよ。お前のちっちゃい脳味噌溶けても知んないよー」
「持ってきて、エース!」
「はあ〜?」

 もともと持って行ってやろうと思っていたものの、うだるような暑さに唸ってしまう。十数メートル先のコンビニを見つけると、アイスを買いにだらだらと歩いて行った。
 ひょこひょこと浮いたり沈んだりする頭を見つけてアイスを差し出すと、ありがとうと屈託のない笑みを向けられる。もともとお前が買う約束だったでしょ、なんて恨み事をぶつけるには気温が高すぎたし、その笑顔が眩しすぎた。
 ナイロン袋を外すとすでにどろりと形を崩し始めていたアイスを、慌てて頬張っている途中で、ぱしゃりとシャッターの音が鳴る。

「ん、オレ撮った? 今」
「うん。エース撮った。けっこういい写真だったと思うよ……ほら!」
「……ふーん。写真は詳しくないけど、そんなに楽しいの?」
「楽しいよ。思い出に残るし、見返すといろんなこと思い出せるし」
「まーね。じゃあ、思い出したくないことは?」
「……写真を消せばいいんだよ」
「今までそうしてきたの? 付き合ってダメだったやつとか」

 なまえが怯んでいる理由はわかる。オレがこの趣味に対して、こんなに突っ込んでくるとは思っていなかったのだろう。
 すこしばつが悪そうに俯くと、誤魔化すように監督生は笑う。

「まあね。けっこう面倒なんだよね、消すの」

 オレは答えないで、しゃくりとアイスの最後の一口を棒から外すと、棒をくわえたまま空いた手でなまえのカメラを取り上げた。
 なまえがやっていたのを真似て、ファインダーを覗き込む。四隅の枠のなかに、目を丸くした監督生がいた。
 なまえ自身も、この小さい四角のなかに、閉じ込めたい思い出や人がいたのだろうか。オレとじゃない思い出と、オレじゃない誰か。
 同じものを見ると、急激に悲しくなる。オレがここに焼き付けたいのも、オレがオレのものにしたいのも、ずっとお前だけだったから。

「オレにすれば?」

 また同じ言葉を紡ぐけれど、蝉の声はふっと鳴りやんだりしない。シャッフル再生ほど空気は読んでくれない。
 なまえがふにゃりと、笑みになりそこなった笑みで「え?」と首を傾げる。

「……お前、そろそろオレと付き合えば。言っとくけど冗談じゃないよ。オレ、お前とだったらキョーミないとこ行っても楽しいし、お前が知らない思い出ばっか作ってくのがヤダ。オレ以外のやつとどっか行っちゃうのもヤダ。……今更って思うかもしんないけど、オレはずっと思ってたよ。お前はちゃんと聞かなかったけど」

 Tシャツにじんわりと汗が滲んで、背中に張り付く。
 けれど、今回ばかりははぐらかさないで、引き下がらないで言い切れる気がした。この小さい四角に、今だけなまえを閉じ込めているような感覚になっていた。

「……オレ、ずっとお前が好き。思い出とかそーゆーの、オレと作ってくんじゃダメ?」

 見開かれたなまえの瞳。暑さのせいか、それだけじゃないのか、紅潮した頬。
 願わくばこれが二人の最初の思い出になることを願って、シャッターを切った。
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