「おいコラ! なに人が稼いだ金クソみてえなことに使っとんだ!」

 鼓膜を割るような怒号がドアを突き破って雪崩れ込んでくる。しかし、こんなのはいつものことだ。マグカップの中のコーヒーに息を吹きかけてから「ええ?」と緩慢な返事をする。

「どれのこと?」
「どれって他にもあんのかよクソが! 俺はこれのこと言っとんだ! 誰がこんなことしろっつったァ!」

 爆豪が私に突きつけてくるスマホの中には、彼本人の顔があった。鋭い眼光、この世の全てが鬱陶しいとでも言いそうな慳貪な表情、我ながら彼らしく撮れていると思う。大手の用品メーカーが彼のスポンサーにというので、東京の中心地に爆豪勝己のサイネージ広告を手配したのは、確か二か月ほど前だったか。

「こんなうさんくせぇもんに俺使うんじゃねえ! てかこんなもんいつ撮った!」
「この間事務所で仮眠するから起こせって言ったとき。起きた瞬間のめちゃくちゃ機嫌悪いときの顔」
「ハァ? 人の寝起きの顔公衆に晒すなボケ! あとどうせ撮るならプロ使えや!」
「そこも怒るの? こういうのはブランディングとスポンサーさんとの関係構築の一環だよ。これでも大抵の仕事は断ってるんだから。爆豪のイメージを崩さないようにアウトドアテイストの用品メーカーの依頼しか受け付けてないし」
「くだらねえことより他のことに金使えって言っとんだ! クソみてえな経営しやがって」
「残念だけどこの費用も含めて、年初の計画は爆豪の承認済です」

 デスクの引き出しから、おもむろに紙を引き抜き、その右下にある「爆豪」という印を指さす。相当苛立ちながら押したであろうそれは、朱がダイナミックに滲んでいて、公的書類としては最悪の出来だった。
 爆豪は乱暴に私からそれを引き抜いたかと思えば、その大きい手のひらでぐしゃぐしゃに丸め潰してしまった。こんなこともあろうかと、原本は別の場所にしまってあるのだけれど。
 ちょっと、と一応咎める私の声を聞こうともせず、爆豪はそのままゴミ箱へ歩いていく。

「事務所の経営とブランディングは、私に任せるって言ってくれたのは爆豪じゃん」

 この言葉は魔法の言葉だった。この言葉を唱えれば、爆豪はそれ以上何も言わない。今日だって彼は、手のひらの中の書類をゴミ箱に投じるのをすんでのところでやめた。舌打ちをしてやかましい足音を立てながらデスクに戻ってくると、原型を留めていない書類を私のデスクに戻す。かさり、と虚しい音がする。

「……クソが」

 頭を掻きながら部屋を出ていく彼の機嫌は、恐らく微塵も治っていない。そもそも、機嫌のいい爆豪なんて見たことがない。
ばたん、と閉まったドアを見つめがら、ゆっくりとしわくちゃの紙を開いていく。原本はしまってあるからもう必要もないのに、爆豪のたまに律儀なところが少しだけ、少しだけだけど愛おしくて、私は再び引き出しに仕舞い込んだ。



「そういえば見たよ! かっちゃんの街頭広告! すっごく大きくて格好いいね! みょうじさんが手配したんでしょ?」
「そうなの! 今日もその件でこってりしっぽり怒られてさ」
「……かっちゃん、そういうの嫌いそうだもんね……お疲れ様」

 高校時代、ヒーロー科と合同の授業で一緒になったことで仲の良くなった緑谷は、今もこんな要件で電話をしてくれたりする。私がヒーロー科落ちの経営科だからといって、馬鹿にしたりすることなく対等に接してくれたし、経営科の私が、良い成果物を上げられるよういつでも協力してくれた、本当に心優しい友人だった。
 だから、その耳に馴染んでいくような声が鼓膜に染みて、ついついと愚痴や弱音が口を突いて出てしまうのだ。

「……でも、つらいね。爆豪のためだって思ってやってることも伝わってないみたいで、怒られてばっかりで……もちろん、私にはまだまだ足りないことがあるんだけど、たまに思うんだ。爆豪にとって、私って必要かな」

 あくまで自虐のつもりだった。笑いを含んで言ったつもりなのに、言葉尻が切実でずっしりと重かった。
 けれど、バケツの中の汚くてやさぐれた水で浸した雑巾のような私の言葉を、緑谷は当たり前のように救い上げるのだ。

「そんなことないよ! かっちゃんが君を指名したのは事務所にとって、かっちゃんにとって君が必要で、信頼できるって思ったからだよ! みょうじさんが雄英経営科でトップクラスの成績だったのも、唯ならぬ努力の賜物じゃないか」

 君は頑張ってるんだ、という屈託のない緑谷の声がして、思わず泣きそうになる。ありがとう、と言うと冷静になってしどろもどろになる緑谷は、やっぱりいいやつだ。緑谷はこう見えても忙しすぎるから、今度緑谷の拠点の近くで美味しいものでも食べようね、と約束をした。
 じんわりと残る緑谷の親切の余韻に浸りながらバイバイを切り出そうとしたとき、何者かの視線を感じたのだ。ひた、と足を止める。視線の正体である黒いスーツのーーその頭部まで黒い布で覆われたーーその男は、私の目の前に歩み寄ると、やおら跪いた。

「だ、誰ですか」

 日頃、一応俺の事務所の関係者なんだから用心しろと爆豪に言われている私は申し訳程度に身構える。いつもは話半分に聞いているのに、こんな時に限って彼の教えを思い出すなんて皮肉だ。
 一瞬の間ののち、私の警戒も虚しく、ひどく軽快で人当たりのいい声色で、男は話し始めた。

「私、エッジショット事務所の者ですが、初めましてみょうじさん。このような形で申し訳ございません。弊社の経営にお力添え頂きたく、コンタクトを取らせて頂きました」

 突然のことに言葉に詰まっていると、男はスマートに名刺を差し出す。まるで手品のような手付きだった。

「端的に申し上げますと、ヘッドハンティングになります」
「ヘッドハンティング?」

 私が聞き返すと同時に、肩あたりまで下ろしていたスマホから同じ文字列が聞こえてくる。男は私の、通話中になったスマホを見やりはっとすると、再び跪いた。

「お取り込み中に声をかけてしまい申し訳ございません。あなたが誰の元へお勤めかは存じております。ただ、もしご興味やキャリアアップをお考えなのであれば、ぜひエッジショット事務所への転職をご検討ください。よいお返事お待ちしております」

 男はそう言い残すと、もうすっかり墨が落ちた薄暗い道の向こうへ消えていく。

「み、緑谷、今の聞いてた?」
「う、うん、エッジショット事務所って……それにヘッドハンティングだなんてすごいよ!」

 緑谷の声は、電話口でさえ興奮しているのが分かった。

「設立直後とは言え、“あの”かっちゃんの事務所で働いてたから注目されたのは勿論だけど、君の頑張りが評価されたんだよ。やっぱりみょうじさんはすごいや」
「いや、本当にそんなことないと思うけど、でも……」
「……この話、受けるの?」

 緑谷はその質問をするのに、いくらか躊躇していた。まだ自分の頭すらも追い付いていないのに、私は迷っていることに気が付いた。
 爆豪の顔が、頭を散らつく。口が悪くて、愛想もなくて、ひどく子供で。だけど、べらぼうに強かった。
 高校の時、緑谷と組んで合同授業をしているとき、元はヒーロー科を志していたことを話すと、隣の席の爆豪もそれを聞いていて、嘲笑していた。あの表情が今でも脳裏に焼き付いていて、さらには喉のあたりを急激に焦がしていく。私がトップクラスの成績を取ったのも、彼に私を認めさせるためだった。

「お前、どうせ行くトコねえんだろ。俺んトコで働け。ヒーローになれねえお前が培ってきたモン見せてみろ」

 だから、高校を卒業するとき彼が私にそう言ったのを見て、本当は大声を上げそうなほど達成感に満たされた。それまでの毎日も、それからの毎日も、私は私を、彼に認めさせるために生きている。

「……緑谷、私は」

 私の返事を待っていた緑谷に、掠れる声で切り出した。



 爆豪にはヘッドハンティングの件は伏せておいた。二つ返事で行けよと言われても何だか嫌だし、今すぐ断れと怒られるのも億劫だった。だから、エッジショット事務所の男から渡された名刺はデスクの中に入れたままだ。
 今日もとりあえずのところ爆豪の事務所で、オファーの確認などのルーチンワークをこなしながらソファに腰掛けていた。
間もなくドアが開いて、ああお出ましかと目線だけを彼に送って初めて違和感に気付く。

「あれ? 爆豪、なんで私服?」
「今日はオフ。オファーもねえ。てか知ってんだろ」

 ガツン、と陶器がぶつかるような音がして、思わず肩を揺らす。ぴた、とテーブルに茶色い液体が跳ねたのを認めて、私は目を丸くした。

「……なにこれ」
「見て分かんねえのか、コーヒーだろうが」
「爆豪が飲むの? 珍しいね」
「わざわざおめーの前に置いとんだろうが! 飲めよ! 要らねえならそう言えや! 自分で飲んだるわ」
「えっ?」
「ハァ?」

 爆豪は私の向かいのソファにどっかりと腰掛けた。ソファから落ちるんじゃないかというほど仰反りながら、爆豪はこちらを睨んでいた。

「……なんだよ。言いたいことあんなら言え」
「熱あんの?」
「ねーわ」

 熱がないならないで良かったが、あったほうが彼の奇行に説明はつく。爆豪が人にコーヒーを淹れるなんて行為は、そうでないと不自然すぎる。
 私はやっとのことでお礼を言い、マグカップを持ち上げる。甘すぎないけれど、少し熱かった。
 コーヒーを飲み、それをテーブルに置く私をじ、と重たい目付きで追いかけて、爆豪はふいに切り出すのだった。

「……そんなんじゃねえ、お前に話があって来た」
「話って? なんでわざわざ休みの日に」
「来月から……いや今月から昇給だ」
「え? 私のお給料の話?」
「だからオメーはなんでいちいち主語言わなきゃ理解しねえんだよポンコツが」
「だって、爆豪が変なんだもん!」

 急にコーヒー淹れてくれるとか、急に給料を上げるだとかは、私のことを少なからず信頼してくれてるとは言え、今までさんざんスクラップ扱いして来た男の所業ではないからだ。
 爆豪は私の「変」という言葉を飲み下し、でもやっぱり少し眉間の皺を深くした。赤い二つの瞳が、珍しく真摯に私を捉えた。

「……給料なら倍にでも三倍にもしてやる、不本意だがな。他に何がいるっつうんだよ」

 投げやりな語尾が、ぽろりと落ちる。
 今日は爆豪が爆豪らしくないことばかり言う。そりゃお給料があるに越したことはないけど、既に彼からは結構な額を貰っていた。その分の働きを返せているかも自信がないのに。ましてや、彼のことを放っておいて転職だなんて考えられない。
 そこまで考えて、はっとする。

「……爆豪、私のことなんか聞いたの?」

 ぴくりと彼の視線だけがこちらに反応したと思えば、すぐに目を逸らす。

「……恨むなら、あのクソデクのタレコミを恨むんだな」

 そう言って爆豪は、ポケットからさらに見覚えのある黒い名刺を取り出す。雑に放り投げられたそれは、手裏剣のように回転しながらテーブルに降り立った。
 なんだ、もうバレてるんじゃないか。
 黙っている私を見て、爆豪はやおら立ち上がる。

「残念だが俺から丁重に断っといたわ、話進めてるんなら悪いことしたな」
「絶対悪いと思ってないのに言わないで」
「……給料出すっつってんだろ。他に不満があんなら言え」
「爆豪、私がお給料だけで職場決めてると思ってんの?」
「ア? 違えのかよ」
「全然違うよ。私は爆豪がいるからここにいるだけ。もし爆豪が私を必要としてくれてるなら、無給でも無休でも、ここで爆豪を支えたいんだよ」

 彼は目を見開く。もう一度肯定するように深く頷くと、赤い視線は泳ぐように逃げてしまう。頭を掻き、しばらく逡巡したのち、爆豪は確かに紡いだ。

「……行くな。俺んトコ以外、どこにも」

 ずっとその言葉が聞きたかったんだと教えてあげると、爆豪はばつが悪そうに唇をぐにゃと歪める。そんな不器用なところが少しだけ、少しだけだけど愛おしくて、私は抑えきれず笑った。
 ふいに彼が歩んだと思えば、思いの外距離を詰められる。声を発する間もなく、シャツのリボンタイを引っ掴まれてそのまま引き寄せられる。熱を持った唇が、私のそれを奪った。殴られるみたいなキスだった。
 たぶん一瞬のことなのに、気絶していたみたいに時間感覚がなくなって、唇が離れたあと、爆豪の顔を見てやっと状況を理解した。

「……なに噛んどんだクソが」

 言葉の強さとは裏腹に、掠れてどことなく自信のない声だった。じゃあな、と出て行く爆豪に返事ができない。ドアが大袈裟な音を立てて閉まったあと、空虚に向かってうん、と頷くのだった。
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