「旅行とか行きたいよね〜」

 それは幾度となくケイト先輩の唇から零れていた言葉だった。スマホに視線を落としながら、あるいは横髪を指先で弄びながら。だから私も、ほどよく年季を吸って古びた木目のテーブルの上にコーヒーを置いて、「そうですね」と生返事をする。
 いつもならこの後、ケイト先輩がいつか回りたい国やスポットを羅列して、次々に画像を見せてくるのがお決まりだ。オモチャ屋さんであれこれ欲しがる子どものようなその様子は、実を言うとけっこう好きだったりする。
 けれど今日に限っては、ケイト先輩の丸い瞳はスマホではなく、私に向いていた。テーブルについた肘からぐいとこちらに身を乗り出すと、ケイト先輩は弾むのを強いて抑えたような声色で、

「行こうよ、監督生ちゃん」

と言うのだった。

「行こうよって、旅行にですか?」
「そ、旅行! 言っとくけどオレが言ってるのって今みたいなお茶とかランチとかじゃないよ? 旅行だよ?」
「分かってますよ! だから聞き返してるんです」

 この二年間のケイト先輩のマジカメ投稿の大半には、私がタグ付けされていた。それぐらいお茶にもランチにも付き合っていたし、時には付き合ってもらっていた。エースやデュースに「お前はどうせケイト先輩と遊ぶ予定あるだろ」「オレらとケイト先輩どっちが大事なの」とネタにされることも日常茶飯事になっているぐらいだ。
 けれど、さすがに「旅行」となれば話は変わってくる。友人の中でも、特別に親しい人と行くものじゃなかっただろうか、旅行なんて。あらぬ勘違いをしないために「ケイト先輩」と名を呼べば、「ん〜?」と柔らかにまなじりが細められる。

「あの、ひとつ聞きたいんですけど」
「二人で、だよ」
「まだ何も聞いてないんですけど……」
「でもそう聞くつもりだったでしょ?」

 図星だった。当たり前のようにそう返されてしまえば、一周回って私のこの躊躇がバカらしいものなんじゃないかと思ってしまう。氷がほとんど溶けたコーヒーを眺めながらごにょごにょと口籠っていると、ケイト先輩が不安げな表情で私の視界に割り込んできた。

「え〜、監督生ちゃんはイヤ?」
「嫌とかじゃないです。ただ、私なんかと行っても楽しいのかなって」
「監督生ちゃんってば、またそういうこと言う〜。この子と行っても楽しくないかもって思いながら誘わないでしょ! それにオレ、卒業旅行のつもりで誘ってるよ。オレ的には監督生ちゃんとはこーやっていろんな話してきたし、それなりに仲良しだと思ってるからさ」

 君はどう思ってるか知らないけど〜、と意地悪になる語尾を珍しいと思った。

「私も先輩とは仲良し、だと思ってますよ……! でもいつもこういうこと言うと先輩が『ウケる』とか言って無慈悲に流すじゃないですか!」
「あはは、もー、それは照れ隠しじゃん。怒んないで、監督生ちゃん」

 ひとしきりからからと笑い声を立てたあと、ケイト先輩はすっと穏やかな笑みになる。

「――んじゃ決まりね。来月の26日と27日、外出届出すの忘れないでよ」
「ああ、わかりました。どこに行きましょうか」
「……実はもう決めてあんだよね、オレのプランでよければだけど」
「もちろんです。ケイト先輩のセンスなら、間違いないですし」

 私の言葉にケイト先輩は得意気に笑って、「ここなんだけどさ」とスマホの画面を私に向けてくれる。その画面の中には、透き通るような青の海が揺らめいていて、その真ん中にハートのような珊瑚礁がある。なんでも珊瑚がこのかたちに形成されたとかで、珊瑚の海ではもっとも有名な観光スポットに入るのだと――確かケイト先輩本人から教えてもらったのを覚えている。

「ここですか! 覚えてます。前にケイト先輩が教えてくれましたよね。すっごく綺麗でマジカメ映えするって」
「そーそー! ずっと行きたかったんだよね。監督生ちゃんも行きたいって言ってたのオレもずっと覚えてたから、ここにしようと思って」

 その目線がどこか試すような、私の瞳の奥を読んでいるような心地がして、心臓がざわめく。風が木々の間を駆け抜けていくような小さな騒音だったが、確かに私には心当たりがあった。
 ケイト先輩と交わした他愛もない言葉たちをひとつひとつ捲っていく。
 私はケイト先輩ほど多くの言葉を持ち合わせていないし、それを面白おかしく組み立てる能力も持ち合わせていないのだけど、ケイト先輩の前だと自然と思っていることを口にすることができてきた。それは紛れもなく、ケイト先輩の人懐っこさとトークスキルのおかげだった。ケイト先輩が私の言葉ひとつひとつを撫でるように大切にしてくれたから、私は彼と交わした他愛のない会話ひとつひとつを、今でも思い出せる。
 ――あれは、いつだったか。

『じゃあさ、監督生ちゃんはどう? ズバリ理想の告白のシチュエーション、聞かせてよ』
『なんですかそれ。別にないですよ、そんなの』
『ないとかあるぅ!? んじゃさ〜、今考えてみてよ。ここで告られたら落ちちゃうな〜って感じのトコ。で先輩に教えて!』

 照れ隠しに笑いながら、私はうーんと唸った。

『……あ、あれ。こないだケイト先輩が見せてくれた、珊瑚の海の――』

 あそこすっごく素敵でした、という自分の恍惚とした声が脳内で反響して、はっと我に返る。知らぬ間に胸の中で膨らんでいた期待を見ぬふりして、まさかねと自嘲気味に笑う。
 それでもケイト先輩は探るような視線をやめないまま、ペリドットのような瞳を少し揺らした。

「――オレはぜんぶ覚えてるよ? なまえちゃんとおしゃべりしたこと。どんな他愛ないことでも、全部ダイジだからね」

 楽しみにしてる、とようやく伏せられた睫毛にほっとするけれど、心臓のざわめきはさっきよりも一層強くなって、私の中を駆け巡っていた。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -