※女監督生/レオナの実家とファレナ捏造

「ごめんなさい。気持ちは嬉しいんですが、その……」
 ただの定型文を言っているんじゃなく、本当だった。
 ――途中までは。
 今では、誰かが自分を好いていると言ってくれることへの嬉しさよりも、苦痛が勝るようになってしまった。
「もしかして、この学園に好きなやついんの?」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど、学園生活送るだけで精一杯で、今は恋愛しようって気分になれなくて。その……ごめんなさい」
 目の前に立つスカラビア寮の先輩は、少し眉を寄せて頷いた。胸のあたりに得も言われぬ苦みがじんわりと広がる。
 かろうじて名前と印象を知っていただけのこの先輩とは、ホリデーの間、スカラビア寮にお世話になったときに何度か厨房で一緒に作業をしたことがあった。ジャミル先輩に指示されたスパイスがどれだか分からなくて、「すみません」と彼に尋ねた記憶がおぼろげにあるが、それだけだった。
 つまり「彼は私のこういうところを好いてれたのだろう」と、自分で納得できる材料はほとんどなかったのだ。
「わかった。そうだよな、監督生のこと考えられなくてごめん。でもそういう理由なら、まだ諦めなくてもいいよな。俺、気は長いほうだし」
「あ……でもいつかそういう気持ちになれるっていう自信もないので、これ以上困らせるわけには」
「……そこは、はいって言ってくれよ」
 自嘲的に笑う先輩が、ふいに私の肩を掴んで勢い任せに引き寄せてくる。近付く先輩の顔。小さい悲鳴が漏れる。
 反射的に肩を竦めて俯けば、甘美とはとても言えない口付けの感触が、おでこにもたらされた。
 キスされるところだった。かろうじて唇同士が触れることは避けられたものの、日本で生まれ育った私が突然親しくもない人にキスをされて狼狽しないわけがない。咄嗟に前髪を撫で付けてしまう。
「ごめん、無理矢理……」
「……いえ。大丈夫です。じゃあ、私は授業があるので」
「あ、うん……」
 ローファーの踵を反対方向に向ける。背中で感じる気まずい空気。広がる苦みが濃度を増していく。
 こんなことが、入学してからかれこれ七度目だ。元の世界にいた頃の自分に聞かせれば、またとないモテ期だろうがと飛び上がって、とっかえひっかえしてやれ、と大いに盛り上がるかもしれないが、あいにくそんな浮かれた気持ちは既に跡形もなく消え去っていた。
 なぜなら、私に告白なんかをしてくる人間はほとんど顔見知り程度の同級生や先輩だけで、しかもその大概からは「とりあえず女の子と付き合いたい」と、学園唯一の女子である手近な私を選んでいるだけに過ぎないのだと、目を見れば伝わってくるからだった。
 私のどこが好きなんですか、と問い詰めてみるのもいいかもしれない。そんな度胸はないけれど。
 きっと「あ、えーと、か、かわいいから……?」と安売りチラシほどの薄っぺらな答えしか返ってこないことは想像にたやすい。
「そりゃ選択肢がひとつだけだと、それ選ぶしかないもんな……」
 最終的には、この身も蓋もない結論に至ったのだ。
 私の独り言を聞いているのなんて周囲に覆い茂った瑞々しい葉っぱたちだけだと思って大きなため息まで吐いたところに、低い笑い声がかすかに聞こえた。
 はっと声のした方を振り返れば、ゆらりと豊かな毛並みの尻尾が葉の隙間から見えた。
「これまた、随分と悩ましげだな。モテる女は大変だ」
「レオナさん! 聞いてたんですか」
 口元にゆるゆると意地の悪そうな笑みを携えて、レオナさんは佇んでいた。
「俺の昼寝場所で女を口説ほうが悪い」
「……お昼寝の邪魔してすみません」
「暇つぶしにはなったから許してやる。けど、お前も大概だな。もうちょっとキッパリ振ってやれよ」
「えぇ……!? これ以上いろいろ言うと気まずくなるじゃないですか」
「どうせ興味もねえ男なんだろ。そのほうがよっぽどそいつのためだぜ」
「いやですよ、恨みを買うなんて」
「ハッ、思い上がったもんだな。……まあ、興味もねえ男ばっかりから言い寄られるお前の気持ちも察してやるがな。この間のポムフィオーレ寮生とか、ああ……ハーツラビュルの三年もいたな」
 くく、と喉を鳴らすレオナさんの言葉に思わずあんぐりと口を開けてしまう。
「なんで知って……」
「こっちが聞きてえよ。植物園で想いを告げるのがトレンドなんじゃねえの」
「……そういえば、あの人たちもここでしたね」
 苦々しい記憶に他ならない。メインストリートや食堂ですれ違うたびに気まずい思いをしなければならない人が増えた瞬間なのだから。
「で、今までに何人斬ったんだ?」
「斬ったなんて言い方やめてくださいよ」
「笑い話にしてやれよ。湿っぽくされるほうが気分悪いだろ」
「……七人くらいです」
「ふうん。まだ一年も経ってねえのに、上々じゃねえか?」
「揶揄わないでください! こっちは本当に悩んでるんですから」
「なんで。求められてんだから、喜んだっていいはずだろ」
「……本当に心から好かれてたら、そりゃ嬉しいに決まってますよ。でも、みんなまともに会話もしたことない人ばかりなんです。私がどんなガサツな女かも知らないような。『付き合ってくれ』の前に『好きだ』も言われないし……女の子だからとりあえず寄ってみてるだけなんです」
 レオナさんは腕組みをして、私の話を聞いていた。眠そうに半分伏せられた瞳は退屈そうだけれど、尻尾だけがゆらゆらと規則的に揺れている。
 私の言葉が続かないと分かると、呆れたようなため息半分に、片方の口角を引き上げる。
「……ワガママな女だな」
「……ワガママでしょうか。人としての魅力なんてないに等しいですけど、本当の自分を知ってもらって、その上で好きになってもらえるのが一番の幸せじゃないでしょうか」
「その本当のお前って、要するになんなんだ? 俺に見せてんのはそうなのか?」
 試すような口調でレオナさんに尋ねられて、ごくりと生唾を飲む。
 レオナさんにはいろいろあってさんざんお世話になった。私室にまで置いてもらった。あの時はもちろん緊張したけれど、レオナさんが私のことなんて気にも留めていないことが分かると、なんだか安心してしまって、ぐうすかと寝てしまった。
 翌朝「独創的な寝顔だな」と暴言を吐かれてしまったことは考えないようにしているけれど。
「レオナさんに見せてるのは、ありのままの私ですよ。取り繕ってなんかいません」
「なら、お前に惚れたって言ったのが俺だったら、お前は嬉しいわけだな」
「えっ」
 いつもの揶揄なら捌けたはずなのに、レオナさんがずいっと距離を詰めてくるので、素っ頓狂な声を上げてしまう。さっきのスカラビア寮生にされたことを思い出して、反射的に目を瞑ってしまった。
 しかし、いつまで経っても何も起こらない。数秒ののちに薄らと目を開けると、今にも吹き出しそうに眉を下げたレオナさんの顔がそこにあった。
「……何を期待してんだよ。キスでもすると思ったのか」
「ち、違います! 思わずさっきのこと思い出しちゃって!」
「さっき?」
「スカラビアの人の……あれ、見てなかったんですか」
「声が聞こえただけだ。……なんだ、されたのか?」
「未遂です。持ち前の反射神経で、かろうじて避けました」
 笑い話にしろと言われたばかりなので、明るく決めようとファインティングポーズを取ってみるが、レオナさんはにこりともしてくれない。
 それどころか、少し神妙な面持ちでレオナさんはゆっくりと息を吐いた。
「……思ったより苦労してるみたいだな」
「……だから、言ってるじゃないですか。話聞いてました?」
 私もゆっくりと拳を下ろす。そのさまをレオナさんはじっとりとやる気のない瞳で見つめたまま動かなかったけれど、やがてひとつ瞬きをしてから「なあ」と呼びかけてきた。
「男避けの方法、教えてやろうか」
「避けられるんですか?」
「とりあえず一部はな」
「あ、友達まで減るのは嫌ですよ」
「相変わらずワガママばっかだな。興味があるなら、こっち来い」
 意味深な笑みを含んだレオナさんは何かを企んでいるように見えなくもないけれど、こう見えて一応女性には優しい人だ。取って食われたりはしないだろうと、おずおずと歩み寄ってみれば、揺らめいていたレオナさんの尻尾がくるりと私の背中側に回った。
 そしてそのあとすぐ、逞しやかな両腕の中に閉じ込められた。
「え゛っ!? レオナさん!?」
「なんだ。じっとしてろよ」
 胸板に顔がぎゅうと押し付けられると、レオナさんの低い声が頭蓋骨にまで甘やかに響く。なにがなんだか分からなくなる。
 抱擁にしては、窮屈すぎる。いやよくホールドミータイトって言うけど、呼吸すらままならないこの力の強さには、ムードもへったくれもない。
 それほどまでに強く抱え込まれた挙句、レオナさんの手のひらが私の髪を何度も梳いたり、レオナさんが頬を擦り寄るように私の髪に寄せるので、あまりの驚きにとうとう言葉すら失ってしまった。
 時間にして三十秒ほどだっただろうか。しばらく放心したままでいると、ようやくレオナさんの身体が離れる。
「どうだ?」
「……どうだ、じゃありません。急になんですか……? びっくりしてなにも考えられませんでした」
「お前が男避けしてくれっつったんだろ。もうちょっと長くやったほうが良いが、お前が息してねえみたいだからやめてやったんだ。せいぜい効果を楽しみにしてな。じゃあな」
 ひらりと手を振って、レオナさんは消えていく。気ままな背中に、私は何も言えない。
 まだ身体中に残る彼の熱に、手を当てずとも感じられる鼓動がじんわりと私を蝕んでいた。



 授業に遅刻しそうだったのを思い出して、走って教室に向かった。午前中の授業にはまともに出ないレオナさんのペースに、すっかり巻き込まれてしまった。
 呼び出し場所に行く前に、グリムには「先に教室に行っといて」と伝えておいたので心配はないはずだけれど、自分が間に合わなければ元も子もないと、なんとか息を切らしながら本鈴前の教室に滑り込んだ。
「はあ、はあ……おは、おはよう、ジャック」
「おはよう。寝坊か? ギリギリだぞ」
 いつもはエースとデュースと教室の奥のあたりの席に座ることが多いのだけれど、あいにくそこまでは辿り着けそうになかったので、優等生のジャックが座っている最前列の席にお邪魔する。
 奥にいるエースたちと目が合えば「やれやれ」という表情で小さく手を振ってくれるので、へらりと笑って返事しておいた。
「ちょっと用事で遅れちゃってさ……ジャック、今日、何ページからだっけ」
「36ページだ。予習は済んでるだろうな」
「も、もちろん……で、でも分かんなかったらこっそり教えて……」
「ったく」
 ジャックが視線を逸らして、ため息を吐く。
 同時にトレイン先生が教室へ入ってきて、窓から風が流れ込む。その拍子に閉じてしまった教科書を慌ててはらはらと捲り直していると、ぐるりとジャックの視線が舞い戻ってきた。
「え? なに?」
「いや、お前……」
 どこか険しい顔付きに、私も目を見開いてしまう。ジャックはしばらく思案したあと、どこか気まずそうとも照れているとも取れる表情を晒して、「……気付いてねえなら、やっぱなんでもねえ」と顔を逸らしてしまった。
 それ以降、ジャックは口数を減らしてしまった。授業が終わっても雑談には申し訳程度しか乗ってくれずに行ってしまい、私は抑えきれないショックをエースたちにぶつけた。
「どうしよう。なんかジャックが急に冷たい……」
「監督生が遅刻しそうだったからじゃね? あいつ不真面目なこと嫌いじゃん」
「朝来てすぐは普通だったよ。ちゃんとページ数教えてくれたもん」
「え〜? じゃあ分かんねえよ。オオカミだし気まぐれなんじゃないの」
 エースは面倒くさそうに投げやりな答えを寄越した。
 そうかもしれないと思う他ない。よりによってジャックみたいな正義感に溢れた人に嫌われたとしたら、たぶん三日は引き摺ってしまう。
「ん? レオナがいるんだゾ?」
 教室を出たところでグリムが鼻を鳴らすので、三人してきょろきょろと見渡すが、その艶やかな黒髪は見当たらない。
「グリム、この授業、一年しか取ってないぞ。いくらキングスカラー先輩が留年してるとは言え、ここにはいないんじゃないか」
「そ、そんなはずないんだゾ! 俺様の鼻には寸分の狂いもないんだゾ!」
 グリムが私の肩から、エースとデュースに必死に訴えかける。耳もとで大声を出されちゃたまらない。「うるさいよ」とグリムの口を人差し指で抑えれば、むぐぐとグリムが唸る。
「……ぷはっ、そうか。子分、オマエなんだゾ!」
「え? なにが?」
「オマエからレオナの匂いがするんだゾ!」
 え、と声を零してしまった。咎めたにも関わらず最高のボリュームを誇るグリムの声は廊下に響き、周囲の生徒の視線も集めてしまった。
 しんとしてしまった廊下の上、エースとデュースがじっとりと湿った視線を私へ寄越して、「へえ〜」と声を揃える。
「待ってよ、なに、その顔」
「……お前、レオナ先輩とソウイウ関係だったんだ。なぁんか生々し〜」
「僕たちの鼻は誤魔化せても、グリムやジャックの鼻は無理だったみたいだな。まあ何しろ、良かったじゃないか。応援するぞ!」
 デュースが力強く拳を差し出してくれる。
 その間も、不特定多数からの好奇の視線が絡み付いて離れない。
「いくらラブラブだからって、遅刻はすんなよな」
 エースが嫌味っぽく私に言う。
「いや、違うって!」
 舞台役者のような大袈裟なモーションまで付けて必死に否定の言葉を並べ立てるも、エースとデュースはけらけらと笑ったまま歩みも止めてくれない。ジャックのばつが悪そうな顔の裏にも同じ気付きがあったのだろうと思うと、あまりの羞恥に顔を覆いたくなった。
 レオナさんが施してくれたあの「男避け」は、私を揶揄うだけの行為のように思っていたけれど、とんだ思い違いだったらしい。
 エースとデュースを追い掛ける途中も、すれ違うサバナクロー寮生がぎょっとして私を見ることに気付いてしまった。
 確かにレオナさんが私に付けた匂いは、一部に絶大な「男避け」としての効果を発揮した。軽はずみな好意を断ることで、これ以上人間関係を拗らせたくないという私の願いとは、かなり別のところへ着地してしまうことになったけれど。



 翌日、昼休みに植物園に来てみれば、案の定その片隅に寝っ転がっている人影を見つけた。緑の芝生に黒い髪が広がっているのを認めて、私は「レオナさん!」と駆け寄った。
 呑気に片目だけを擡げて「あ?」と生返事をするレオナさんの隣に、私はへたり込むようにして座った。
「どうした、わざわざ昼寝の邪魔しに来たのか。いい度胸だな」
「いや。『アレ』! 思ってたのと、違うんですけど……!」
 私の顔が羞恥で赤くなっていることも承知の上だろう、レオナさんは珍しく、口を開けて高らかに笑い声を上げた。この反応を見るに、やっぱり私を揶揄う意味合いがほとんどだったのだろう。
 ぴくぴくと眉間が強張る。こちとら、あのあとも例の件でエースとデュース、そしてグリムに揶揄われっぱなしだというのに。
「レオナさんのアレのおかげでサバナクローの人は目を合わせてくれなくなりました」
「良かったじゃねえか」
「確かに、確かに効果はあるんですけど! 同時にジャックという友も失いました」
「ぷっ、くく……!」
「なに笑ってんですか」
「あいつらしいな。オオカミは特に、他の男のもんに手出すのはご法度だからな。まあ、数日放っておけば元に戻るだろ」
「わかってるんですか? 勘違いされてるのはなにも私だけじゃなくて、レオナさんもでしょう?」
「それがなんだ」
「嫌じゃないんですか? みんなに私とお付き合いしてると思われてるかもしれないんですよ?」
「別に。俺の生活に支障はねえしな。お前は望み通り虎の威を借りれたんだから、小せえこと気にすんな」
「え? だ、誰がキツネですか。しかもレオナさん虎じゃないし」
「くく……お前、相変わらずトンチキだな」
 はあ、と笑いを鎮めるように息を吐き、レオナさんは気怠そうに体を起こした。野性的なあくびをひとつしたあとに、「今何時だ」と私に尋ねる。ちょうど昼休みが始まったところだと告げると、またその半身を芝生に預けてしまった。
「なら、お前も寝てけよ」
「お腹空いたし、ごはんまだなんです」
「……まあ確かに、腹は減ったな。お前、なんか食いモン持ってるか」
「持ってないです」
「……ハア。面倒くせえが、食いに行くか、メシ」
 この上なく面倒くさそうに、レオナさんはゆらりと起き上がる。寝たり、起きたり、寝たり、今度はお腹が空いたり、気ままな人だなと思う。
 「ホラ」と私を催促しながら、制服についた皺も気にしないで食堂のほうへ歩き出すレオナさんを慌てて追いかける。
「ちょっと、そのまま校舎入るつもりですか」
 その背中についた葉っぱの欠片たちを払っていると、私たちを見て、すれ違う生徒が「あの二人」「やっぱり」と漏らしたのが聞こえた。
 はっとしてレオナさんから離れると、呆れたような翡翠色の瞳が私を振り返って言った。
「なに悪あがきしてんだ。もう遅えだろ」
 レオナさんにとっては、私とちょっとした噂になることなんて、取り留めもないことのようだった。喩えるなら、ジャケットのボタンがひとつ取れてしまったときのような温度の声色だった。また付け直せばいい、どうでもいいこと。
 「そうですね」と返事をする自分の声が弛んでいる。
 ふとあの言葉を――『お前に惚れたって言ったのが俺だったら、お前は嬉しいわけだな』というレオナさんの言葉を――思い出す。
 あの時はレオナさんに揶揄われて、深くその言葉について考える隙も、返事をする隙もなかったけれど、本当にもし、そうだったとしたら。レオナさんが私のことを好きだって言ってくれたとしたら。
 彼の低い声や、射止めるように鋭い瞳を思い浮かべるだけで、頬がじんわり熱くなる。たぶん私は満面の笑みで頷けるのだと、そう確信してしまった。
「……おい。どこ見てんだよ。鳥みてぇに一点見つめてボーッとして。メシがまずくなるだろうが」
「あ、ごめんなさい! 考え事してました」
 レオナさんのことを考えていたら、本人の一喝で現実に引き戻される。
 まったく、と呆れるレオナさんが怖いのでヘラヘラと笑みで誤魔化して、私はレオナさんの差し向かいの席で、ビーフシチューにスプーンを鎮めた。
 さっきからチラチラと痛いほどの視線を背中に受けていることには気付いているが、レオナさんが何もなかったかのようにスペアリブを頬張るので、私も言及しないことにした。
「……食いづれえのか。見られてると」
 意外にも、しばらくののち、それに言及したのはレオナさんのほうだった。
「あー、ちょっとだけ……」
「ふうん。俺とどうこう言われるのがそんなに嫌か。どっちがマシなんだよ、昨日までと今」
「今です。嫌とかじゃなくて、ただ、噂されることなんて慣れてないから緊張するし、レオナさんに申し訳なくて」
 虎の威を借りる狐だなんてレオナさんが言っていたけど、本当にそれに近しいことだと思う。レオナさんを利用しているみたいになっているのも申し訳ないし、レオナさんまで変な噂に巻き込んでいることも申し訳なかった。
「今のほうがいいってんなら、黙って甘受してろよ。来年俺が卒業するまでの効き目しかねえだろうけどな」
 レオナさんは目を伏せた。
 「卒業」という単語が思いもよらないところから降ってきて、唖然としてしまう。レオナさんもこの学園からいなくなってしまうのか、と当たり前のことをまるで初めて知ったように、胸がずきりと軋んだ。
 そしてそれが私にとって、この上なく寂しいことだということも知ってしまった。
「……もう一回、留年するのはどうですか?」
「……冗談も大概にしとけよ」
「あはは、すみません」
 レオナさんの小さい舌打ちが聞こえる。
 一年後には、今は目の前にいる人に簡単に会えなくなってしまうと思ったら、一気に食欲が萎んだ。
「なんだ急に、辛気臭え顔して」
「いやあ、ちょっと寂しいなって思って。レオナさんもいなくなるんですね。当たり前だけど」
 くだらねえことを、と鼻で笑われるかと思ったけれど、その口元はもの言いたげに一瞬だけ揺蕩う。
「……お前、春休みは何するんだ」
「春休みですか? ホリデーと同じく、ここにいるつもりですけど」
 予想の斜め上の質問に目を丸くする。
 流氷が溶けてからでないと帰省できないと言っていたリーチ先輩たちは当然だろうが、ホリデーにも、そして春休みにも帰省をする生徒は少なくないと聞いた。
 デュースやエースは分からないけれど、しぶしぶ家に帰っていたレオナさんやケイト先輩なんかは、学校に残るのだろうか。
「ああ、ホリデーは大変だったみてえだな。気の毒なことで」
「あんなのはこりごりですね。レオナさんも春休みは残るんですか?」
「さすがに春休みは帰らねえ……でいられるなら良かったんだがな。兄貴がよりによって嫁さんの名前で帰ってこいっていう手紙なんざ寄越しやがった。ったく、性が悪い」
「なるほど。帰らざるを得ないって感じですね」
「だからお前も来いよ」
「あはい……え?」
 あまりに自然に紡がれた提案。だから、の意味が分からずに狼狽える。レオナさんは至って真面目な顔で、いつもの揶揄い半分の笑みは鳴りを潜めていた。
「私が、夕焼けの草原にですか?」
「そうだな。もっと詳しく言えば、俺ん家にだ」
「それはまた……えっ、なんで?」
「なんでって、特に行くとこねえんだろ。なんなら、お前んトコの毛玉も特別に連れて来ていいぞ」
 王族であるレオナさんの家にお邪魔するだなんて、友達の実家にお邪魔をするのとはわけが違う。
 なんだってこんな突拍子もない提案をレオナさんはしているのか。ただ気まぐれで誘っているのではなく、何か考えがあるに違いないと踏んで、私は黙ったままそのグリーンの瞳の奥を探った。
 レオナさんは何度か瞬きをしたあと、根負けしたのか、ハアと息を吐く。
「……やっぱお前、面倒くせえ」
「なにかあるんですね」
「……大したことじゃねえよ。俺はここを卒業したら結婚相手を探すことになってる。件の兄貴の手紙だと、『帰ってこい』って言ってる上に、『もうそろそろ見合いを始めたらどうだ』っつうせっかちな内容だったから、一人で帰省なんてしたら、知らねえ女と見合いさせられるに決まってるだろ」
 参った、というふうにレオナさんは額を押さえた。
 耳慣れないからか、幸い現実味を帯びてくれない「結婚」「見合い」という言葉。唇だけで「結婚ですか」と繰り返すと、レオナさんは低く頷いた。
「レオナさんは、結婚が嫌なんですか?」
「いいや。そのものが嫌ってわけじゃない。ウチの一族は……特に俺は、しようと思えば恋愛結婚もできねぇわけじゃないしな。そのへんだけは兄貴よりも楽だ。……けど、気が早すぎるだろ。よく知りもしないやつと将来を共にできるかいきなり考えろって言われたって、無理がある。お前の言葉を借りるなら……『本当の俺』か? それを知ってもらわねえと、取り繕ったまま、好きも愛してるもねえだろ。なあ?」
 苦々しそうにその言葉を吐いたあと、レオナさんは少しだけ皮肉気味に笑った。
 私とレオナさんの話ではスケールが違いすぎるけれど、レオナさんの言うことには心の底から同意することができた。
 でも、少しだけ意外だと思う。どこか厭世的で冷めたところのあるレオナさんの唇から紡がれるには、一連の台詞がやけに情熱的だったから、どきどきしてしまった。
「友達を連れて行って、とりあえずはお見合いを先延ばしにしたいってことですね」
「……ふん。まあ、お前がそう思うならそうなんだろ」
「わかりました。友人代表として、お力添えしましょう」
「ハッ、恩着せがましいな」
 レオナさんは呆れたように笑って息を吐く。なんだかんだ言って、私はレオナさんの笑っている顔が好きだ。
 いつか誰かと結ばれてしまうレオナさんのことを手に入れたいなんて浅はかなことは、はなから思っていない。それを実感させられたのには少し胸が痛んだけれど、私が協力することで少しでもレオナさんと、いつか出会うだろう『本当に愛する人』が結ばれる可能性が上がるのなら、たやすいことだった。



 そうは言ったものの、レオナさんの実家に着いた私は、ものの三秒でここに来たことを後悔していた。
 「本当にここがお家ですか?」と何度聞いたか分からない。「いい加減にしろ」と怒られるまで聞き続けても信じられない光景だった。
 テラコッタを基調としたバリエーション豊かな建物が並ぶ市街地には、ところどころに活気溢れるマーケットが並んでいて、美味しいものが売っていそうだ、なんて浮かれていた数十分前の自分とグリムを殴りたい。
 街から少し外れて喧噪がふっと止めば、鏡面のように凪いだ水面が、味わい深いイエローの屋根をした宮殿にずっと続いている光景が現れた。
 てっきり日本で言う寺や城のような歴史的建造物かと思って思わず「綺麗」と漏らせば、レオナさんが「そりゃどうも」とつまらなさそうに返事をしたので、口ごもってしまったのだ。
「きょろきょろすんな。いつも通りにしてろって言っただろ」
「む、無理言わないでください。こんな……こんな……」
「……続きが浮かんでねえのにしゃべるなよ」
 呆れる私を横目にレオナさんはずんずんと進んでゆく。すれ違う若い女性や壮年の男性は恐らく使用人なのだろう、「レオナ様、お帰りなさいませ」と口々に頭を下げ、私の荷物をも恭しく持って行ってしまった。
 レオナさんの後を必死に付いて行けば、宮殿の入り口に両手を広げて待っている人影があった。
「やあ、レオナ。よく帰って来てくれたね」
「……帰ってこねえと、どうせ後からごちゃごちゃ言うだろうが」
「そんなことない。お前も忙しいって分かってるさ。けど、チェカも会いたがってたから」
「ホリデーで会ったばっかりだ」
「だからだよ。いなくなってすぐが一番寂しいっていうだろ」
 そう笑いながら、その男の人はこちらに視線を送る。
 レオナさんとよく似た風体、艶やかな髪。けれど、その髪色はさっき見た街とよく似た、生気に満ち溢れたテラコッタだった。そこから覗く目元も、レオナさんに比べると鋭さが抜けていて、剛健な雰囲気を感じる。
 この人がレオナさんのお兄さんなのだと、聞かなくてもわかった。
「初めまして。レオナの兄のファレナだ」
「は、初めまして」
「実は、君のことをレオナから聞いたのはつい昨夜なんだ。手の込んだおもてなしはできないけど、許して頂けるかな」
「とんでもありません。お気遣いなく。あの……レオナさんにはいつも学友としてお世話になっています。諸事情あって遠い故郷から来たもので、一目夕焼けの草原を見たいと思っておりまして。突然押しかけてしまって、申し訳ありません」
「そんなに遠くから来てくれたのかい。たしかに、見たことのない綺麗な色の目だ。あと、押しかけるだなんて言わないでくれ。レオナの友達なんていつでも歓迎だよ。まあ人を連れてくるなんて、これが初めてだけど」
「……はあ、うるせえ」
「ああレオナ、どうせならホリデーに呼んでくれればよかったのに」
「はあ? あんなのに呼んだら、引くだろ」
「そうだろうか。ホリデーのほうがいろんな人や物を見てもらえるし、パーティーもあるからいいんじゃないかと思ったけどな。まあ何より、遠路はるばるよく来てくれたよ。身内だけで悪いけど、夜は一緒に食事をしよう。とりあえず、それまでゆっくり部屋で休むといい」
 ファレナさんの声で、使用人がどこからともなくやって来ては「こちらです」と案内をしてくれる。
 大きな窓は開放的に開いていて、ずっと続く水面と遠くに広がる生き生きとした街を、どこからでも見渡せるようになっていた。
 ――美しい国だ、と思う。これがレオナさんの生きて来た場所なのだと地平線に想いを馳せて感傷的になっていれば、「早く来い」というロマンの欠片もない怒声を浴びせられた。
 規格外の広さのせいで、家の中だというのにそれなりに歩いて、やっと壮年の使用人は立ち止まる。
「こちらがレオナ様の部屋です」
「……爺、わざわざ言わなくてもわかる」
「いえレオナ様、私はご学友様にご説明を。お荷物は中に入れてあります」
「はあ? こいつのを俺の部屋にか?」
「おや。こちらの部屋にお泊りになるのではございませんでしたか?」
「違えよ。『学友』だっつってんだろ」
 レオナさんの物言いは苛烈だったけれど、使用人の男性は楽しそうに笑い声を立てたのでほっとする。きっと幼い頃からレオナさんの近くにいた方なのだろう、やれやれと首を振るレオナさんの様子からも、気心の知れた関係性が伝わってきた。
「おい、とりあえず荷物ばらすだろ。俺の部屋で一旦休め。夜は隣か、どっか近くの部屋を使え」
「わかりました。ありがとうございます」
 使用人は飲み物を用意すると言って下がっていった。
 入れ、というぶっきらぼうな声に促されてその中に入ってみれば、シンプルだけれど、たっぷりとしたイエローのカーテンや、繊細な切り絵のような窓が、荘厳の二文字を突き付けてくる。
 開け放たれたそれの向こうにはプールが見えた。水面が日に照り付けられて、ぎらぎらと乱反射していた。
「プールまで。気持ちよさそう……」
「入りたいなら好きに声をかけろ。俺と兄貴の部屋にしか入口がないからな」
「プールなんて入ったらさすがにリゾート気分になっちゃいますよ」
「は、もうなってるだろ」
 レオナさんは笑いながら、私に何やら布のようなものを放り投げる。襟元に見覚えのある柄があしらわれた麻布。
 広げれてみると、ゆったりと涼しそうなワンピースだった。
「窮屈で余計緊張するだろ、んなもん着てると」
 顎で私の着ている制服を示すのがわかった。
 どこまでも至れり尽くせりだ、と居た堪れなくなりながらお礼を言うと、おもむろにレオナさんが制服のベストとワイシャツを脱ぎ去った。
「えーっ! なんでアナウンスなしで脱ぐんですか!?」
「自室で好きなように過ごして何が悪い」
「いや……確かに。じゃあ私、別の部屋に行ってますので!」
「お前もここで着替えていいぞ」
「冗談じゃないです!」
 くつくつとおかしそうに笑うレオナさんを無視して、私は廊下に立っていた使用人の女性に声をかけ、隣の部屋を使わせてもらうことにした。
 グリムは「長旅で疲れた」と我が物顔でベッドにうずくまり、テーブルの上に運ばれてきたフルーツやピンチョスを美味しそうに頬張り始めた。
「はぁ〜、オマエに付いて来て正解だったんだぞ。レオナんち、高級リゾートホテルみたいなんだゾ。じゃあ、俺様はゆっくりリゾート気分を楽しむから、夕飯の準備ができたら起こしてくれよな」
「もう。迷惑は絶対かけないでよね。むしろ学校より大人しくしててよ」
 念押しして、レオナさんに用意してもらった服に着替える。
 階段を昇ってベランダに出てみれば、ちょうど隣の部屋のベランダに、レオナさんの姿もあった。
 久しぶりの実家だ、面倒臭いとは言いつつも、自室まで来てしまえばほっと息を吐けるものなんじゃないだろうか。
 艶やかな黒髪が風に撫でられるのを見ていると、ふとレオナさんと目が合った。
 その指先がくいくい、と私を呼ぶように動くので、私は頷いて、再びレオナさんの部屋に戻った。
「……で、あれからどうだったんだ。減ったか?」
 プールサイドのチェアに座れと言われるままに腰掛ければ、同じように隣に腰掛けたレオナさんは唐突にそんな話を振ってきた。
「告白のことですよね。あれ以来はありません。何度か『レオナ寮長と付き合っているのは本当か』って聞かれたくらいで」
「……へえ。なんて答えたんだ」
「『違います』」
「はあ?」
「……って答えたら意味がないと思って、でも『そうです』って嘘吐いたらそれはそれでレオナさんに怒られると思って、『どうですかねえ』って言いました」
「……お前はまたハッキリしねえことばっか言いやがって」
「じゃあ、どっちのほうがマシだって言うんですか」
「んなもん、肯定一択だろ。言っただろ、だからって俺にはなんの支障もねえって」
「肯定ですか。はあ……」
 ――まただ。私とどうこう噂されることを、レオナさんは軽視しすぎているような気がする。
 大して興味がないからなのだろうけれど、それに気付いてしまうと悲しいと分かっているので、私はレオナさんがひどくバカなのだと思うことにした。
「……煮え切らねえ返事だな。口でキッパリ言えねえなら、言う前に分からせりゃいいだけの話だ」
 すぐに結論を言わないのは、レオナさんの癖だと思う。回りくどいクイズを出すみたいにして話すのが、どこか少年らしいなんて言ったら、たぶん怒るのだろうけれど。
「どうやってですか」
「……簡単だ。婚約指輪でも付けてりゃいい」
 『簡単だ』のあとに、ぜんぜん簡単じゃない結論を持って来られるのも初めてじゃない気がする。
 にわかには実現できないその方法でまた私を揶揄っているのかと顰めっ面をしてみると、レオナさんが吐息だけで笑って、背もたれに預けていた体を起こす。
「手出せよ、薬指」
 ひたひたと裸足が私の前までやって来て、そう言う。慌てて体を起こすと、ふわりと風が横髪を吹き上げる。
 レオナさんが静かに差し出す大きな右の手のひらに、戸惑いに戸惑って右手を乗せると、「あ?」と唸るような声がする。
「……なんで右なんだよ」
「だって、左手の薬指って一応結婚指輪嵌める指じゃないですか。いくら茶番でも、そのときまで取っておきたいに決まってるじゃないですか」
「……っ。あっそ。そうかよ」
 拗ねたようにレオナさんはそう言って、それでも私の右手を恭しく包むと、その薬指にひんやりとした金属をあてがった。少しずつ心を蝕むようにその指輪は降りていき、ぴったりと私の指の付け根におさまった。
 高貴な存在感を放つ指輪は、その中心にエメラルドのような石を携えている。沈みかけた夕日がそれを照らして、一つの石の中に無数の星屑を作ったようだった。
「ふん、誂えたみてえにぴったりだな」
「……すっごく綺麗ですね。ありがとうございます、こんな素敵なもの付けさせてくれて」
「気に入ったなら、お前のものにしていい」
「こんな上等なもの、身分不相応ですよ」
「ならお前のほうが指輪に合わせろ」
「辛辣……」
 くく、と笑うレオナさんの頬に、熟れたオレンジのような橙が差す。
 この国はその名の通り、夕焼けに染まった姿がひどく綺麗だ。
 そしてレオナさんにも、燃えるようなこの色がすごく似合っている。
「……綺麗です。レオナさんもこの国も」
「……そうか」
 レオナさんは静かに俯いてから、少し前の台詞を繰り返した。
「……気に入ったなら、俺もお前のもんになったっていい」
 そこに、いつもの悪気のある笑みが含まれていないことに何より驚いて、短く息を呑んだ。
「この国を気に入ったんなら、お前のふるさとにしたっていいんだ。そうすれば、俺が一緒に帰ってやることもできるし、俺がお前の帰る場所にもなってやれる」
 いつか私に揶揄い半分でしたみたいに、レオナさんは私を抱き寄せて、頬を私の額に摺り寄せた。
 けれどあの時とは違う、泣きたくなるような優しい強さで包まれる。心臓はうるさいのに、それ以上に込み上げてくる何かがあった。
 ――今、レオナさんにすごく優しくされている。ひどく温かいものに触れている。それがなんなのか、どうしてなのか分からない。受け取っていいものなのかも分からない。
 ただ困惑して瞬きを繰り返す私を見下ろす、レオナさんのエメラルドグリーンの瞳と視線が絡んだ。夕焼けのように温度を孕んでいるように見えて、勘違いしそうになる。
 何か言わなければと唇を震わせる私のことを、レオナさんが少し笑った気がして。
 艶やかな黒髪が垂れてきたと思ったら、レオナさんの顔がもう見えないぐらいに近付いた。
「おじたーん! おじたんおじたんおじたーん! 帰って来たんでしょ? どうして僕の部屋に最初に来てくれなかったの!?」
 唇が触れるか触れないかのところで、切り裂くような明朗な声がして、思わず私たちは距離を取った。ものの一瞬だったが至高の技だった。
「……チェカ。ノックしろってパパに教わっただろ」
「わあ!? おねーたんもいる!」
「話を聞け」
「チェカくん! おねーたんのこと覚えててくれたんだね。久しぶりだね! 元気だった?」
「うん! おねーたんと遊んだのおもしろかったもん! 飛行機してくれるやつ! でも、どうして!? 今日はふたりで帰って来てくれたの? おじたんとおねーたん、仲良しってこと?」
「仲良し? うーん、そうだね。チェカくんたちが暮らしてるところが見たくて、遊びに来させてもらったんだ」
 扉からぱたぱたと走って来たチェカくんは、私とレオナさんの片足ずつにがっしりと飛び付いて、その間からえへへと笑って見せる。はあと項垂れるレオナさんの顔には、一気に疲れが滲んだようだった。
「……見てください、半分レオナさんで、もう半分は私の足です。つまりレオナさんと同等ですよ」
「……知るか。なにに喜んでんだよ」
「おねーたんも泊まってくんでしょ? 明日も遊べるでしょ?」
「そうだよ。たくさん遊ぼうね」
「やったー!」
 私の答えにレオナさんが「正気か?」という視線を送ってきたのには気付いたけれど、正直レオナさんの数倍は子どもの相手が好きだし、得意だと思う。レオナさんと比べること自体が間違っていると言ってしまえば、そこでおしまいだけれど。
 そうしているうちに入口から、今度は溌剌とした女性の声がした。
「ごめんね、チェカが走って行っちゃって。レオナが帰ってくるって言ったらまだかまだかってうるさいから、さっきまで黙ってたの」
「……義姉さん。チェカならここで手錠みてえになってる。どうにかしてくれ」
「え? まあ、あはは」
 レオナさんが「義姉さん」と呼んだその女性は、はっきりとした端正な顔立ちに、切り揃えられたショートヘアが美しい人だった。柔らかと言うよりも凛とした明るさが印象的で、思わず憧れてしまうような女性だった。
「あなたがレオナのカレッジでのお友達よね。聞いてるわ。すごく遠いところからいらっしゃったんでしょ」
「はい、図々しくお世話になって……すみません」
「全然! ファレナも、レオナの友達なんて初めてだって言って喜んでたわ。レオナ、昔から遊びのお相手に来てくれた子にも『そりが合わない』とかなんとか言って、追い返したりぼこぼこにしたりしてたらしいから」
「……はあ。義姉さん、勘弁してくれ」
「ええ〜? いいじゃない、ちょっとぐらい」
 頭の上がらないレオナさんを見るのは新鮮で、思わず口角が緩んでしまう。
「……さて、そろそろ夕食の準備が出来る頃合いだから、行きましょ」
 お義姉さんがぱんと、軽やかに手を叩く。



 夕食の席は緊張したけれど、いつもの調子を貫くレオナさんを見ているといくらか安心した。
 ただレオナさんはどうやら、お義姉さんには強く出られないようだ。ファレナさんが勧めたお酒をレオナさんが飲むのを渋ると、お義姉さんが不満げな顔をして、それを見たレオナさんは「……わかったよ」と半ばやけになって杯をあおる場面をもう何度か目にしている。
 ごくりと喉を鳴らしてお酒を飲むレオナさんの姿なんて、学園では見られない。年齢的にはお酒が飲めるのだということも今まで忘れていたくらいだ。
「あなたはまだ飲めないのよね」
「……はい、すみません」
「やだ、謝らないでよ。いつか一緒に飲めるのを楽しみにしてるわ。再来年のホリデー? あ、もう少し先かしら。どちらにせよもうちょっとの我慢ね」
 まるでこれからもここに来ることが前提かのようなお義姉さんの言葉に、曖昧に笑みを返すしかできなかった。
 一年後、カレッジを卒業したレオナさんは結ばれるべき人と結ばれるのだから、全くの部外者である私がここに来ることはもうないだろう。
 その時、本当の家族になる人とここに座っているレオナさんを想像すると、一滴もお酒なんて飲んでいないのに胸が熱くなってきてしまった。
 レオナさんがちらりと私を見る。口数が減ってしまっていただろうかと心配になる。
 けれどすぐに逸らされたしまったその視線は、ファレナさんのほうを見据えた。
「なあ兄貴、件の結婚相手の話だが。あれ、卒業するまで保留にできるだろ。カレッジにいる間に決めりゃ、俺の意見も通るって話だったはずだ」
「ああ、そうだな」
 ファレナさんが柔らかに微笑む。
「……なら文句はねえよな。卒業するまでにカタをつけるつもりだ。口出ししてくれるな。せいぜい楽しみにしといてくれ」
 奥さんにしたい人を決めるのに、えらく物騒な言い方だ。
 それでもファレナさんは分かっていると言うようにどこか満足そうに深く頷いて、お義姉さんは「……レオナ、かっこいいじゃない」とレオナさんを小突いていた。
 そのお義姉さんの拳には、さっき私がレオナさんに付けてもらったものと、よく似た指輪が光っていた。



 楽しい晩餐ではあったけれど、部屋に戻ってから、レオナさんの言葉が何度も頭の中で回っていた。
 すっかり寝息を立てて本音入りしてしまったグリムを横目に、夜風を浴びようとベランダに出る。まだ水分の残った髪は、風に吹かれてすぐに乾いた。
 ふとレオナさんの部屋のほうを見てみたけれど、そこに人影はない。何を期待しているのかと首をぶんぶんと振り、ふかふかのベッドに潜りこむ。
 瞼の裏に思い出されるのは、夕暮れの中のレオナさんのせりふだった。
 『……気に入ったなら、俺もお前のもんになったっていい』
 『この国を気に入ったんなら、お前のふるさとにしたっていいんだ。そうすれば、俺が一緒に帰ってやることもできるし、俺がお前の帰る場所にもなってやれる』
 ――まるで、レオナさんに想われているみたいだった。
 心からそう告げられているような錯覚が、あの時私を雁字搦めにしていた。それほど、レオナさんの言葉も腕も優しかった。
 すぐに終わってしまう夕暮れにあてられて、もしあのままチェカくんが来なかったら、キスまでしてしまいそうになった。
 急に羞恥心に襲われて、ベッドに飛び込み枕に顔を埋める。
 きっとレオナさんも夕焼けにあてられたのだ。レオナさんの優しさを、好意を履き違えてはいけない。
 とっぷりと闇に浸かった夜空は、見たことがない数の星が瞬いていて、なんだか泣きそうになった。
「……おねーたん、おねーたん。起きてる?」
 かすかにドアの向こうでチェカくんの声がして、私は履き物に爪先を通し、慌ててドアを開けに向かう。
 廊下から漏れ出る光の下にはチェカくんと、その奥には大あくびをするレオナさんが立っていた。いつも編んである髪が解かれて、どこか色っぽかった。
「どうしたんですか、夜に。チェカくん、眠くないの?」
「……ほら、チェカ。自分でお願いしろ」
 レオナさんに背中を押されてチェカくんが私の前へやって来る。
 しゃがんで目線を合わせれば、くりくりとした丸い瞳が不安げに私を見つめる。
「……あのね、チェカ、おじたんとおねーたんと一緒に寝たいの。三人で同じおふとんで。だから、おねーたんもおじたんのお部屋に来て、一緒に寝よ?」
「え?」
「だめ……?」
 俯くチェカくんに咄嗟に「全然駄目じゃないよ!」と言いそうになる。
 視線だけでレオナさんの表情を窺ってみれば、既にさんざん説得を重ねたのだろう、お手上げだというふうに、戦う気力すらない様子で首を傾げていた。



「あはは、おねーたんのお話、おもしろーい」
「……お前、もっとマシな作り話できねえのかよ。なんだよ、ジュースが出る風呂の話って。そんなトンチキな話、聞いたこともねえ」
「なんで。夢があるじゃないですか。チェカくんもこんなに喜んでるし!」
 私は結局、レオナさんと、チェカくんを挟むようにしてベッドに入った。それでもゆったりと余るスペース。真ん中のチェカくんの純粋さがなければ緊張で壊れていたかもしれないけれど、幸いにもチェカくんの「なんか楽しいお話して」攻撃で、それどころではなくなってしまった。
 子どもならではの無茶ぶりと、レオナさんの嘲笑に耐えながら三本ほどフィクションの「楽しいお話」をしたところで、チェカくんの相槌がやっと緩慢になってきた。
「……ほら、チェカ。眠いんだろ、もう寝ろ。今日は楽しかったな」
 レオナさんの手が、ブランケットをチェカくんの喉元まで引き上げる。前髪をくしゃりと混ぜる手のひらが優しかった。
「うん……でも、もっと聞きたいよ、お話」
「明日聞きゃいい」
「……やだ、今日がいいの」
 チェカくんが私の手を掴む。涙で潤んだ瞳は、おそらく眠気からだろう。
 体温の高い小さな手が、私の右手を確かめるように握って、その薬指の金属に触れる。
「……あ、おねーたんの指輪。きれい。ママとおなじやつだ」
「この指輪? やっぱりそうなんだね。さっき似てるなって思ったの」
「うん! パパがくれたんだって。だからママ、すごくだいじにしてる。いちばん好きな人にあげる、だいじな指輪なんだって。僕の分もあるんだよ。おとなになったら、いちばん好きな人にあげていいんだって。僕は、だれにあげるのかなあ」
 半分夢を見ているのだろうか、目一杯に広げられた小さな手のひらが、何かを掴もうと宙で開いては閉じる。
 レオナさんが「私のものにしていい」と言った指輪を、チェカくんは「だいじ」だと言った。「いちばん好きな人にあげるもの」だとも。
 急速に上がっていく体温を確かめようと、レオナさんのほうを見れば、その目元は絶望するみたく手のひらに覆われていた。
「……チェカ、もう寝ろ。怒るぞ」
「……んん、おじたん、おじたんは指輪、おねーたんにあげたの? おねーたんがおじたんとケッコンしてくれたら僕も嬉しいな、えへへ」
「……ああそうだな。お願いしとけ」
「おねーたん、おじたんと仲良ししてて、ね」
 むにゃむにゃとその声は形を失くしていって、やがて規則正しい寝息になった。
 しんとした部屋にチェカくんの寝息と、風に遊ばれるプールの水面がかすかに音を立てるのだけが聞こえる。
 あくびを何度も噛み殺していたレオナさんは、さっきから一度もあくびをしない。だから私も、話し始めるきっかけを失っていた。
「……はあ、なんでこうなんだ」
 レオナさんがため息を吐いたことで、沈黙は破られる。
「レオナさん、さっきのって……」
「チェカの寝言だ。……って言ったらお前は悲しんでくれるのか? あいにく、全部本当だ。……俺はお前が好きだし、一生傍に置くならそれはお前しかいないと思ってる」
 するりと、ベッドを揺らさずにレオナさんは器用に布団から出る。裸足のまま開けた窓の前まで歩んだレオナさんは、後ろ髪を気まずそうに掻いていた。
 やおら私を振り返った彼の髪が月の朧な光を浴びて、絹のようにまばらに散った。
「……で、どうだ。俺に惚れてるって言われた気分は。お前は俺にありのままを見せてるんだろ。……俺だって、そうだ。卒業まで一年かけて、お前のこと仕留めるつもりだったのに。ご存知の通り、このざまだ」
 夕暮れの中の、あのレオナさんの姿が、レオナさんの理想だったとしたら。
 だとしたら、随分とかけ離れた夜だ。
 拗ねた子どものように波打つ唇が、今度は本当に私に好きだと言ってくれた。名前しか知らない誰かに求められたときの苦々しさも、後ろめたさもここにはない。ただ重たい幸福がずっしりと降りてくるだけだった。
「……レオナさん、嬉しいです。すっごく嬉しいです」
 チェカくんを起こさないようにボリュームを抑えていれば「聞こえねえ」という意地悪な返事が返ってくる。
 私もそっと布団を抜け出して、窓辺にいるレオナさんの横に並び立った。火照る顔を夜風が冷ましてくれるけれど、とても追いつかない。
「もしかして、酔っぱらってませんよね? 結構お酒飲んでたし、酔っぱらって言ってるだけだったら悲しいですけど……」
「……はあ? あの程度じゃ酔わねえよ。冗談も大概にしろ」
「そうですかね」
「なんなら、酔い醒ましてから、もう一回言ってやってもいい。不公平だから、お前にも頭冷やしてもらうがな」
 にやりと緩む口角は、なにか企んでいるときのそれだ。
 差し出された手のほうへ、手を伸ばす。
 予想はついていたけれど、ぐいと引かれた瞬間に体が宙に浮いて、凪いだ水面に全身で飛び込んだ。飛沫が上がって、視界がコバルトブルーに染まる。
 酸素を送り合うように口付けたその隙間から、不器用な私たちの恋煩いが漏れ出て、泡沫に消えていった。

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