「なんだ、こんな時間に。主も腹が減ったか。ちょうど良かった、何か作ってくれ」

 薄暗い厨の入り口で突っ立っている私を横目に、彼はどっかりと椅子に腰かけた。それが最初だった。まだ、寝ずの番も付けられないほどに刀剣の数が少なかった頃。私が深夜に厨に行くと、たまにいる、お腹を空かせた彼。

「あのさ、私が来なかったら、卵とみりんだけで何を作るつもりだったの」
「分からんが、何かしら食えるものにはなるだろう。ならないか?」
「ならないと思うよ」
「そうか」

 ほがらかに笑う彼は、座ったまま脚まで組んで、手伝おうともしなかった。けれど、私がいそいそと鍋を火にかけたり包丁を使っている様子を、彼はいつも机からじっと見ていて、どのタイミングからだったか、私の隣に立つようになった。

「器はこれか?」
「それでいいよ、二つね」
「それはもう使わないのか」
「え? 菜箸? 使わないかな」
「分かった」

 卵を溶くのに使った菜箸を、彼が流しで洗っている。不似合いというか、新鮮というか、とにかく、見たことのない姿を惜しげもなく次々に晒してゆく彼から、目が離せないのだった。

「なんだ。あんまり見るな。余計に腹が減る」
「はいはい、ごめんって」

 彼の、喉元でくつくつと笑うのが心地良かった。じんわりと汗の滲むような熱帯夜も、足音すら雪に吸われてしまいそうな寒い夜も、温かい夜食を食べ、彼からぽつり漏れる笑い声を聞けば、ぐっすりと幸せに眠れた。

「最初はな、お前は、何だってこんな時間にいつも腹が減るんだろうかと、そう思っていたんだ。丑三つ時に行っても、厨に立っているから」
「食い意地が張ってるって言いたいの」
「いや。仲間が増えた今になって分かった。日頃から、本来の仕事以上にお前は働くからな。世話を焼くのが好きなのか知らないが、ずっと走り回っているお前を見て、そりゃあ、腹も減るだろうと思った」
「ふうん。私が最も世話を焼いてるのは、あなただと思うけどね」
「……そうか。光栄だな」
「褒めていないけどね」

 私が食べ終わるのを、彼はいつも待っていてくれた。その間に彼は、庭に植えている花が芽吹いた話をしたり、あまりに雨が続きすぎることを憂いたりした。食べている最中の私が、相槌をするだけで済む、他愛もない内容。彼がどういう意図で会話の種を選んでくれているのかは、知らない。

「美味かった、今日も。おやすみ、また明日な」

 最初にここで会った日から、彼は欠かさずそう言ってくれる。そのせいで、眠る前には嫌でも、彼のことを考えてしまうのだ。



「ありゃ、そう言えば、着る服がなくなってしまったね」

 庭を区切る洗濯物のカーテンの前で、髭切は突っ立っていた。最近やって来たその背中は、未だに見慣れない。「どうしたの」と声をかけると、真ん丸の瞳がこちらを振り向く。

「ああ、君か。服を全部、洗濯しちゃったんだよね。さっき干したばっかりで、まだびしょ濡れらしいんだ。あはは、だって、服をこの籠に入れろって言われたら、そりゃあ全部入れちゃうよね」

 悠長に笑っている彼を見ると、なるほど確かに、寝装束のままだった。朝はまだまだ冷え込むというのに、見ているこっちが凍えそうだ。

「……本丸の案内係、誰だっけ」
「誰だったかなぁ、ほら、こんな眼鏡の」
「……明石?」
「うーん? そんな名前だった気もするよ」
「……後で怒っておくから、とりあえず服を探そう。風邪引いちゃうから。こっち」

 廊下を歩く私の後ろを、髭切は「人の体って面倒だよねぇ」なんて文句を零しながら着いてくる。せっかく来てくれたばっかりなのに、そんな感想を抱かれては、拾ってきた身としては申し訳が立たない。取り急ぎ、私は自分の羽織を脱いで、彼の肩に掛けてやった。

「ごめんね、来客用の着物があったはずだから、それ持ってくるまで、とりあえずそれ着ておいて」
「おやおや……これじゃあ、君が寒いじゃないか」
「私は身軽なほうがいいの。その代わり、初陣には万全の体調で行ってもらうからね」
「……うーん、君がそう言うなら、ありがたく受け取っておくのが筋かな。優しい子なんだねぇ、君は。いい子、いい子」
「ええ、あの……」

 幼子にするように、髭切は私の頭をよしよしと撫でた。まだ会って間もない彼に、恥ずかしいから止めろとか、私は仮にも主だとか、そんなことを強く言うのは気が引けて。それでも恥ずかしいので適当に頷いておいたら、曲がり角の向こうから、誰かの噴き出す声が聞こえた。

「う、鶯丸」
「随分と、可愛がられているみたいじゃないか」
「……笑ったな?」
「主の話かい? 可愛いよねぇ。びっくりしたよ、こんな若い子がそうだって聞かされたときは」
「ああ、そうだろうな。こんな若いのがな」

 いまいちテンポを噛んでくれない髭切に、調子が狂わされてばかりだ。鶯丸は鶯丸で、おかしそうに私を見てゆるゆると嫌な笑みを浮かべている。いたたまれなくなって、髭切の腕を掴むと、行くよ、と足早に歩き出した。

「わあ、君って結構、力が強いんだね」
「そう? 力仕事が多いからね」
「へえ」

 興味があるのか、ないのか分からない返事をする刀だ。上手く打ち解けられればいいけれど、という懸念は今まで出会った刀たちのときと比べても、数段強く胸に残った。何より、なんとなく彼は常にふよふよとしていて、無意識に気が揉まれてしまうのだ。



「ねえ髭切、お善哉食べる? 食べたことないでしょ」
「やあ、君か。今日は寒いし、あったかいのがいいね」
「分かった!」

 餅を二つ落とし込んだそれは、甘い匂いを散らかしながら、彼の部屋まで渡った。「持ってきてもらっちゃって、悪いね」と、彼は炬燵の中で首を傾げる。ここでの快適な過ごし方を知り始めた髭切の顔は、蕩けきっていた。

「兄者……また、なんでもかんでも主に……君も、かくまで兄者を甘やかさないでいいのだぞ。兄者の面倒なら、俺もちゃんと見る」
「ござ丸は食べないのかい? せっかく熱いのを持ってきてくれたのに、冷えてしまうよ」
「……兄者」

 何食わぬ顔で餅を食んでいる髭切と、顔面蒼白の膝丸を交互に見る。髭切が来る前から、兄者とは仲がいい、と散々聞かされていたけれど、しばらく様子を見たうえで、「そうは見えない」という結論に至った。小声で「いつもこうなの?」と膝丸に問えば、蚊の鳴くような声で肯定の返事がなされる。

「……とにかく、君は働き過ぎだ。世話を焼いて回るのはいいが、兄者にかかりきりだと大変だぞ。この本丸はもはや大所帯だ、兄者だけではないのだからな。無論、君の手が回らないところがあれば、我々も手を貸すから、いつでも申し付けてくれればよいのだが」

 諦めたような表情で餡子を混ぜる膝丸を見ても、いまいちぴんと来なかった。お椀から視線を上げると、丸い瞳と視線が絡む。当の本人は唇に笑みを携えたまま、「いいんじゃないかな」なんて暢気に言った。舌の上でざらつく小豆の皮の甘さが、なかなか消えない。



 丑三つ時、目を覚ますともう寝付けなかった。というのも、夕方に餅を二つも入れた善哉を食べてしまったせいで、せっかくの夕餉をしっかりと食べられなかった。燭台切に呆れられながら、ごちそうさまをしたのだが、案の定この時間に、空腹は満を持して襲ってくるのだった。
 厨までに、いくつか灯りの付いた部屋を通り過ぎる。がやがやと賑やかな声たちは、私に気付かない。ここも人が増えたな、なんてことを、こんなことで実感する。やっと辿り着いた厨房は、うすら明るかった。

「鶯丸?」

 疑いもなくそう呼びかけたけれど、実際にそこにいたのは別人だった。

「ありゃ、見つかっちゃった」
「髭切。どうしたの」
「うーん、お腹空いちゃったんだよね。お餅でお腹いっぱいになっちゃって、夜はあんまりたくさん食べられなかったし」
「……ああ、同じだ」

 髭切は、少年のように無邪気な笑い声を立てた。彼に「ちょっと待ってて」と声を掛けると、私は冷蔵庫を物色する。鍋を火にかけ、残りの白米を温め、卵と葱を取り出す。

「あはは、随分と慣れた手付きだねぇ。もしかして、常習犯かな」
「……黙っててよね。燭台切や歌仙に叱られそうだから」
「へえ、どうしようかな」
「約束しないのなら、夜食はあげません」
「君も、意地悪だなぁ。うそうそ、二人だけの内緒にしておくよ」

 二人だけの内緒。その言葉を聞いて、卵を割る手が止まった。ぴしりとひび割れた卵を見て、そういえば長らくここに来ていなかったことを自覚する。鶯丸に初めて卵を割らせたとき、思いのほか綺麗に割れた卵を、ちょっと得意気に見せてきたっけな。最近も彼は、ここに来ているのだろうか。
 思い立ったままに顔を上げて入り口を見やると、まさか。ちょうどそこに来たであろう鶯丸と視線がかち合った。

「おやおや、君もお腹が空いたのかい。早速、秘密が大きくなっちゃったね」

 髭切は、座ったまま彼に手招きをする。私の視線は、鶯丸と通ったままだ。何か言いたげな彼の表情のせいで、私は何も言えなくなる。ようやく鶯丸が口を開いたけれど、その声には微量の棘が含まれていた。

「なるほど、秘密か。二人だけの。それはそれは……邪魔をしたな。見なかったことにしておこうか」
「鶯丸、なんで、待って」

 食べていきなよ、という私の声は、もはや彼には届いていなかった。背中すらも見えない。温まった鍋のぱちぱちという音が、より寂しさを助長する。握り締めた卵の中身が、びしゃりとまな板の上に落ちた。

「……ありゃりゃ」

 暢気な髭切の笑い声が、今はなぜか、安堵をくれた。困ったように微笑む表情が、いつもより何倍も頼りがいのあるものに見えて、思わず涙目になる。熱い目頭を隠す余裕もない私を、彼は見透かしていて、肩をひとつ叩いてくれた。

「こう見えても君のこと、よく見てるんだ。僕と打ち解けようって頑張ってくれてたのは知ってるよ。君を必要としてるのが僕だけじゃないこともね。まぁ、君が構ってくれないのは嫌だから、ずっと黙ってたんだけどねぇ。あはは」
「あなたっていう人は……」
「ごめんごめん。でも、他人に嫉妬とか、良くないよね。鬼になっちゃう前に、行ってあげたら」

 白い瞼が私を促すように、伏せられる。ゆっくりと頷くと、鬼歯を見せて髭切は笑った。背中に「またね」という重圧のある声が振りかかる。今度、何かお礼の品でも渡さなければ、きっと許してくれるまい。
 鶯丸がどこにいるのかは、彼の主人である私がよくよく知っていた。今夜の番に、彼の名を当てたからだ。
 この寒いのに、縁側に座っている彼の背中にかける言葉が見つからなくて、私は代わりに、半纏を持ってきた。足音を忍んでふわりとその肩にかけると、振り向いた唇の隙間から、靄になった吐息が漏れる。

「ねえ、鶯丸。ごめんね」

 彼からの返事はないけれど、羽織をかけたまま、まだ彼の肩に残る私の手のひらを、一回り大きな手のひらが包んだ。鶯丸の手は、指先からすっかり冷え出していた。

「……怒ってなんか、ないさ。ひとつもな。らしくないことをした。俺なんかでも一丁前に、お前が惜しくなるんだ」
「惜しまなくとも、ここにいるよ。あなたとの時間は、ずっと大切だよ。私をここまで支えてくれて、ありがとう」
「……ああ」

 頬と鼻の先がほんのりと上気している。満足そうに私の髪を混ぜるように撫でると、鶯丸はくつくつと低く、私の好きな笑い方をした。鶯丸が、存分に優しい掠れた声で「おやすみ」を言うせいで、私の額に独占欲を忍ばせた口付けを落とすせいで、眠る前の頭はまた、彼でいっぱいになってしまうのだ。
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