夏の終わり、深海みたいな夜だった。私は飲み会の終わりにアイスを買って、轟くんの家に向かう。ぎい、と固いドアを開けると、冷気とともにほんのりと畳の香りがして、ほっとした。
 轟くんは、畳に力なく横たわっていた。

「ただいま」
「おかえり。外暑かっただろ」
「うん。アイス買ってきちゃった。食べる?」

 私がレジ袋を差し出すと、轟くんはゆったりと起き上がる。さらりとした髪には寝癖が付いていて、寝ていたのだと分かる。

「明日食う。歯磨いた」
「わかった。冷蔵庫に入れとくね」

 轟くんは微笑みながらに頷いて、私の頭に手のひらを置く。私に触れるとき、彼はいつもたおやかだ。
 シャワーを浴びて居間に戻ると、彼は電気も付けずにテレビを観ていた。麻のような手触りのブランケットから顔だけを出してただ瞬きをしている、そのさまが動物のようで愛おしくて、私は足早に彼の側へ向かった。

「もう寝る?」
「お前が来たら、寝ようと思ってた。けど、もう少しテレビ点けててもいいか?」
「いいよ。轟くんのほうが早く寝たら、消すね」

 ああ、と掠れた声で彼は頷いて、私を布団に引き込んだ。

「今度時間ができたら、海に行かないか」
「いいよ。泳ぐの?」
「泳がなくてもいい。夏だし、海が見たい。お前と」

 轟くんらしい、飾り気のない言葉だった。
 衣擦れの音とともに、轟くんは私の方へ寝返りを打つ。私とは近すぎず、遠すぎない距離で眠るのがいっとう心地良いらしい。轟くんがテレビを観ながら眠りに就きたいと言う夜なんて、今まで訪れたことがなかった。
 きっと、彼にだって寂しい夜はあるのだろう。私は、もう二度と開かないんじゃないかと思うくらいに丁寧に伏せられた瞼に口付けをして、その柔らかな髪を撫でた。

 ――その夏、そしてその次の夏も、私は轟くんと海に行くことはなかった。

 翌朝目覚めると、ざらついた音が鼓膜の奥に張り付いていた。テレビがまだ点いていた。ざざという音はテレビの砂嵐の音で、閉まっているカーテンの僅かな隙間からは、うんざりするような赫赫とした光が差し込んでいた。
 隣には、轟くんはいない。出かけたのかと彼の手掛かりを視線で探してみても、何もなかった。
 いつも使っているバッグも、昨日テーブルに置いてあったコップも、何もなかった。全てが整然としていて、彼の存在があったことにすら懐疑的になるほどだ。
 とてつもない不安に駆られてかけた電話は、非通知だった。
 ざざ、と音が鳴っている。テレビからか私の鼓膜の奥からか。遠のいていく。もう分からないけれど、小波の音ではないことだけは、確かだった。





 まるで蛇に雁字搦めにされたような閉塞感と、不快な寝汗で目を覚ました。

「爆豪、苦しい」

 ずっしりと重たい腕と腕を、自分の首から外す。本当に蛇のように巻き付いていたそれは、本人が眠っているせいで微塵も力が入っておらず、驚くほど重い。当たり前だ、この手で何人もの人を救っている。
 規則正しい呼吸音が低く唸り、不機嫌な「なんだよ」が私を責めた。

「ごめん。すごく汗かいちゃって」
「お前、もう起きんのかよ」
「もうって、意外とこんな時間だよ」

 爆豪は開いているのか開いていないのか分からない目で、私の横の目覚まし時計を覗き込む。十一時十五分、と針と針を読み上げると、また獣のように爆豪は唸る。

「クソ、オフだからって寝過ぎちまった」
「ごめん、起こせなくて」
「お前にはハナから期待してねえよ」

 爆豪は立ち上がるついでに私の頭に大きな手のひらを乗せると、すでに寝癖がついている髪を、さらに乱暴にかき混ぜてからリビングへ行く。フローリングに降り立った裸足の指が、地面を掴むように曲がった。
 しばらく経って彼はこっちに戻ってくると、たっぷりとした液体が踊るペットボトルを私に渡した。

「飲んどけ。すげえ汗かいてっから」
「ごめん……シャワー浴びてくる」
「悪い夢でも見たんかよ」

 彼の問いに、すぐに夢が思い出せず、口ごもる。夢を思い出そうとするとすぐに、脳裏であの音が鳴った。ざらつくノイズ。
 きっと私は、轟くんの夢を見た。ぎこちなく波打つ私の唇を見て、爆豪は何かを察したように大きな声を出す。

「いやいい、言うな! ぜってえ言うなよ。言ったら許さねえ」
「……なによ」
「……はよ風呂行ってこい。冷房つけとく」

 爆豪は私の尻を、ペットボトルでポンと叩いた。爆豪はいつも私に触れるとき、無骨だ。至るところまでが、轟くんとは違う。
 何年経っても私の意識には彼が住んでいて、誰と何をしていても無意識に顔を出すのだ。
 ――いい加減に私を解放して、手を離して、思い出させないで。轟焦凍が失踪したと世間が騒ぎ始めたとき、薄暗い部屋に私を迎えに来たのは爆豪だった。
 纏わり付くような汗を流して、バスタオルで髪を拭くと、爆豪の家の香りがした。もう嗅ぎ慣れたはずのその香り。でもこれに包まれていれば、どこにも行かなくていいような気がして、不思議と安心した。
 リビングに戻ると、爆豪はちょうど、肘で冷蔵庫の扉を閉めるところだった。私に気付くと、

「クッソあちいけど、お前食欲あんのか」

 と聞いてくれたが、すでに彼の手には菜箸が握られ、迷いなく動いていた。

「シャワー浴びたらすっきりした。食べる。ありがとう」
「おう、もうできるからその辺に座っとけ」

 爆豪は料理もうまかった。ごとんと遠慮なく置かれた器には、艶々とした冷やし中華が盛られていて、にわかに食欲が沸いてきた。
 麺をすすり、おいしいと言うと、当たり前だろと言う身も蓋もない返事が返ってくる。
 爆豪は瞬く間に最後の一口を嚥下すると、箸を置いて切り出した。

「海、行くぞ」
「え? どうして、いきなり。泳ぐの?」
「別に泳がなくてもいい。せっかくお前とまとまった時間取れたんだから、なんもしねえのは、ねえだろ」

 夏だしな、と付け足して、爆豪は着替えを始めてしまった。この人は目紛しく、私の景色を変えてしまう。どれを取っても轟くんとは違うのに、こんな時だけ、同じようなことを言うんだ。

「お前、もしかして海嫌いか」

 爆豪のTシャツの裾は、潮風ではたはたと揺らめいていた。私は首を横に振ると、爆豪の隣にそっと立つ。爆豪は物怖じひとつせず、コンクリートの下にいきなり広がる青い海の上へ、両足をぶらりと垂らしていた。

「……来る前に言え。黙ってられんのが一番嫌いだ」
「嫌いじゃないよ、海」

 珍しく彼は黙ったまま、私の目をじいと見入った。海辺の風は強くて、爆豪の額をたまに露わにした。なあ、と爆豪はやけに神妙に口を開く。

「……俺ンとこ住めよ。お前の準備さえできんなら、俺はいつからでもいい」

 彼の家は、二人で住むには十分すぎる広さだった。キッチンも広いし、ベッドなんて私と過ごし始めた時に、すぐ大きいのに買い替えていた。日射しもいい部屋で、獣みたいな呻き声を上げる爆豪を起こすのもなんだかんだ嫌いではなかった。
 遊ぶみたいに不規則に立つ波を眺めるしばらくの間、爆豪は急かしも、退がりもしなかった。

「……いいの?」

 私がそう言うと、爆豪は唇を山なりに結んだまま。風に掻き乱される私の横髪を雑に後ろへ掻き上げると、当たり前だろうが、とやはり身も蓋もない返事をくれた。

 爆豪の家の寝室には、テレビがない。元々そんなにテレビを観ない彼は、眠りに就く前には私を腕の中にしまい込み、明日やりたいことを少しだけ話してくれる。
 何々を食いてえ、時折私はそれに応えて、彼の帰りを待った。

「お前、ずっとそうしてろ」

 爆豪の帰りを玄関で迎える度に、爆豪はそう言った。少し尖る無愛想な唇は、彼なりの愛おしさの表現だと知った。

 夏の終わり、深海みたいな夜だった。
 あまりに暑くて引き戻される意識。恐る恐る目を開けると、逞しい爆豪の腕も、珍しく寝苦しそうに解けていた。
 私は水が飲みたくて、フローリングに足を付ける。ひんやりとして心地よかった。リビングを通って冷蔵庫を開けると、そのうすら暗くて青白い光が、私をぼうっとさせ、さらに昔を想起させた。
 私が買ってきたアイスを、轟くんは食べていなかった。冷蔵庫を開けて、私が入れたままの格好で鎮座しているそれを見て、初めて轟くんがいなくなったことを実感して涙が出たのを覚えている。
 思い出しているだけなのに、私の頬にも同じように涙が流れていた。
 ふいに、ひた、とフローリングを歩く音がする。

「……どこ行く」
「爆豪。ごめん、起こしちゃって。すぐ戻るから」
「こっち来い」

 私が歩み寄ると、爆豪は乱暴に私の腕を絡め取る。逃さまいと言うように全身で私を閉じ込めると、痛いほどに抱き締めた。それなのに、首元に埋められる吐息が切実で、その襟足はどこか少年じみていた。
 恐らく彼は、少し泣いていた。

「どこにも行くな」
「行かないよ。ごめんね」

 ずっと不安にさせて。そう付け足して僅かに震える背中に手を添える。

「謝んな。それでもいいって言ったのは、俺だ」
 
 ――いい加減に私を解放して。手を離して。思い出させないで。畳の匂いがする薄暗い部屋で、蹲る私を拾い上げた爆豪から聞いた以来、二回目の言葉だった。
 爆豪の家の寝室には、テレビがない。ざざ、とざらつくようなノイズが鼓膜の音に張り付いている。たぶんもうそれは、テレビのノイズの音ではない。
 爆豪の指先を触ると、一本一本絡め取られる。濡れた彼の頬に親指の腹で触ると、少し、海の香りがした。
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