彼女と接するたびに、煙のような何かが形を帯びていくのにはうすうす勘付いていたが、見ないようにしていた。先生、先生、と呼ぶ声も。
 俺も触れないから、お前も触れるな。言外にそう示していたはずなのだが、建付けの悪い建物が軋むように、徐々にひずみが出てくる。
 いつの間にか無視できないほどに肥大化したそれを、いっそ壊してやったほうが彼女のためになるのではないか、と思ったのだ。

「……お前、本気で言ってるんだな」

 みょうじは俯いたままこっくりと頷く。

「……私、本気です。本気で先生が、好きなんです」

 今まで実態のなかった何かに、彼女が血を通わせた。たちまち魂が宿る。意識が遠のき、頭を抱えたくなる。
 みょうじは「いい生徒」だった。
 優れた個性と前向きな性分はクラスにも好影響を与え、一部の生徒には競争心をも植え付けた。どこぞの男子たちのように確執も生まない。さもすると、最も手のかからない生徒ではないかと思っていた。

「……生徒に慕われるのは教育者としてこの上ないことだが、お前は勘違いしてるだけだ。俺はお前の、ただの先生だぞ」

 我ながら陳腐な台詞だが、恐らくこれが最も効果的なのだ。
 動揺の欠片もそこに滲んではいけない。色のまばらを埋めるように、声から躊躇を消し去った。

「……先生の気持ちは、わかりました。困らせてすみません。でも、聞いてくれて、ありがとう」

 頼むから顔を上げてくれるなという祈りも空しく、今にも泣き出しそうな歪んだ瞳が俺を捕らえた。最悪だ。
 もともと、その言葉が俺に受け入れられるなんて微塵も思っていなかったらしく、用意していた言葉をただただなぞるようにみょうじはそう告げて、背を向ける。
 走り去る後ろ姿をしばらく眺めれば、自然とため息が漏れた。

「……勘弁、してくれ」

 俺だって、心中穏やかじゃない。お前を傷付けたいわけでもない。それでも、これ以外に方法がない。
 果たして、これ以上の選択があったのだろうか。あったとしてもう遅いというのに、みょうじにかけられたかもしれない他の数多の言葉を生み出しては、やっぱりゴミ箱に捨ててゆく。
 悶々としながら部屋に戻る途中、ふと人の気配を感じて足を止めた。薄暗い廊下に見知った人影が落ちている。

「爆豪」
「……あ?」
「こんな時間に何してる」
「別に。トレーニングの帰りだ」

 何食わぬ顔で姿を現した爆豪は、物怖じしない視線を俺に向ける。
 よりによって、こいつがいたとは。先ほどまでのみょうじとのやり取りを想起して、最悪の事態を案じた。

「爆豪、お前いつからいた」
「今通りかかっただけだ」
「……そうか」
「なんか聞かれちゃまずい話でもしてたんかよ」

 ぼそりと呟くように発せられた返答に、確信する。思わず眉間が強張る。爆豪は俺の出方を無言で伺った挙句、しびれを切らして目を瞑った。

「チッ、別に興味もねえ。誰にも言わねーよ」

 去っていく背中。頭痛がしてきそうだ。せめて、お前じゃない誰かならよかったのに。



 良く言えばなんでもそつなくこなすが、悪く言えば突出したところがなく、飄々としているようにも見える。そんなみょうじに対し、爆豪が苛立ちか、あるいは嗜虐心のようなものを日々募らせているのは知っていた。
 翌朝、教室へ入れば、ぽっかりとひとつ空いた席が目立つ。

「おはよう……出席を取るが、見た感じみょうじ以外は全員いるな。みょうじはどうした」
「先生も何も聞いてないんですか?」
「……聞いてないが」
「えー? 無断欠席ー? なまえちゃんが?」

 芦戸は目を丸くした。

「みょうじと同じ階の部屋のやつら、寮で見てないのか」
「昨日の夜から見てないんだよね〜」
「先生、私も。もしかしたら風邪でも引いて寝込んどるんやないかな」

 不安げな芦戸と麗日に頷いて、四階の面子を思い出す。障子、切島も横に首を振って、爆豪にふと視線を移せば、気怠そうに頬杖をついたまま赤い瞳が、こちらへ流れてくる。
 どこか俺を責め立てるような温度を孕んでいるように見えるのは、気のせいだといいが。

「爆豪も、見てないか」
「……知らねえ」

 我ながら白々しい質問だ。生唾を嚥下する。
 無断欠席なんてしそうにない生徒が無断欠席した理由。思い当たる節は、あった。むしろありすぎる。

「……わかった。何かあっては遅いから、この後様子を見に行く。悪いが、誰か女子一人、付き添ってくれるか」
「私、行きます」

 ホームルームを終えると、手を挙げた麗日を連れて教室を出る。背中に刺さるあいつの視線には気付いていた。卑怯だとでも言いたいのだろう。
 その、ひしひしと伝わる爆豪の視線の苛烈さは、けっして真っすぐではないものの、みょうじへの感情の強さを感じさせるに十分だった。
 爆豪のみょうじへの日々の接し方は、なんというか、拗れている。こんがらがった感情を解く術も知らずに、あるいはこんがらがっていることにすら気付いていないように見えた。
 授業中にも少し目を離せば、みょうじの胸ぐらを引っ掴んで詰め寄ったり、何かにつけてマウントを取る始末。
 ひどく若く危ういその素行は、実は少しだけ、羨ましかった。痛々しいほどに、感情を感情のままぶつけることなんて、俺には死んでもできやしないのだ。



「なまえちゃん、大丈夫? 具合でも悪い?」

 麗日の声に部屋を開けたみょうじは、その背後にいる俺を見て表情を曇らせる。まるでいたいけな動物を罠にでもかけたような居た堪れない気分だ。

「相澤先生」
「……連絡ぐらいしろ。心配するだろ」
「……ごめんなさい」
「体調は大丈夫なのか」
「大丈夫です、ちょっと具合が悪かっただけなので。連絡もなしに、ごめんなさい」
「……わかったならいい。もし午後からでも来れるならいつでも来い。まあ、無理はしなくていいが」

 力なく「はい」という返事が聞こえる。
 やっぱり麗日を付き添わせるのは間違いだったか。
 しかし、俺一人で訪れていたとして、果たして顔を見せてくれただろうか。

「……ああ、そうだ。学校に来れそうなら一度、俺の職員部屋に寄れ。渡すものがあるから」

 それでもそう言ったのは、みょうじとちゃんと話すべきだと思ったからだ。このままじゃ良くないと、漠然とした思いだけに任せて。
 だが、みょうじが気を落としている原因そのものである俺に、一体どれだけ効果的なフォローができると言うのか。
 ああ、これが上鳴や峰田だったなら、うつつを抜かすなと一蹴していただろう。
 その場限りの熱に浮かされたのではなく、みょうじの目は切実だった。だからこそ、今のあいつが大事にしたいものを、俺も尊重はしたい。
 たとえそれが俺自身への、泡沫のような想いでも。



「さっきからなんだ、爆豪」
「あ?」
「視線がうるさい。背中が焼けるだろ」

 演習帰りにちりちりと焦がすような視線を感じれば、その主は見るまでもなくわかる。
 ポケットに手を突っ込んでなにか言いたげに唇をしならせては、引き結んでいる。クレバーなくせに、ひどくわかりやすい。

「オイ、なんでまだアイツが来ねえ」
「……みょうじのことなら、体調を崩しているそうだ」
「っは、うさんくせえ。どうせ仮病だろ」

 どうもやりづらい。生徒同士の恋愛沙汰ならてめえらで勝手に解決しろ、で済むというのに。この状況下で俺が下手に刀を振るえば、みょうじをも傷付けることになってしまう。

「……くだらねえことでウジウジしやがって。舐めてんじゃねえよ、クソが。あー、あいつの顔思い出しただけで腹立つ」
「……爆豪、お前の気持ちもわからなくないが」
「ア?」
「みょうじのこと、あんまり困らせてやるなよ」

 そう言ったとたん、ふっと爆豪は歩みを止める。振り向けば数歩後ろに残された爆豪が、ぎりと奥歯を噛んで俺を見ていた。

「……なに嗜めとんだ、アンタが。アンタに一番言われたかねーわ」

 押し殺した声。それでも、そこには胸焼けするようなフラストレーションが滲んでいる。
 びゅうと風が吹いて、横髪を乱していく。目の前の、剥き出しの感情を隠そうともしない少年の額があらわになって、ああなんて自由なんだ、と思った。
 こればかりは、爆豪の言う通りだ。
 俺がなにを言ったって、みょうじもこいつも、すこしも救われない。

「……そうだな」

 俺の姿は爆豪の目に、何かを諦めたように映っただろう。そして、さぞその神経を逆撫でたのだろう。
 なんの荒々しさも責任もない四文字は、風に吹かれてはひとたまりもない。
 でもたぶん、それでよかった。



 昼休みが終わる頃に、職員部屋をノックしたのはみょうじだった。
 やっと目が合うものの、すこし赤らんだ皮膚に気付いてしまう。

「……先生」
「ああ。よく来てくれたな」
「すみません、私。もう大丈夫ですから。もともと、先生とどうこうなりたかったわけじゃありません。でも……どうしても抑えきれなくなって、先生が気付かないふりを続けてくれてるのもわかって、つらくて」

 いっそ壊してほしかったんです、とみょうじは言った。
 続きの文字はにわかに見つからないが、俺は確かにその言葉に救われた。自分のしたことにこんなにも自信が持てなかったことはあっただろうか。
 ひどく安堵したと同時に、目の前の泣きそうな生徒が俺は惜しいのだと、まるで痛みのような事実を知る。

「俺はこれ以上なにも言えないし、言うべきじゃないが……ありがとな、みょうじ。お前が幸せになるといいと思ってる」

 自分が紡いだ言葉ではないかのように、頭のもっと上のほうで、それは響いた。
 みょうじが眉を下げてあいまいに微笑むのと同時に、ドアが乱暴な音を立てて開いた。
 どこかで、こいつがみょうじを拐いに来ればいいと思っていた。赤い瞳がぎらぎらと燃えている。

「オイ、ちょっとこっち来いや、ブス」

 ここにあるべきじゃない彼女のことを、力尽くで振り向かせてやれる爆豪が、まったく別の生き物に見える。
 雁字搦めになった感情のなかでも、たしかに爆豪はみょうじを尊重していた。やつは俺よりもきっと、うまくみょうじを大事にしてやれる気がする。
 爪が食い込みそうなほどの力で手を引かれ、あっという間に目の前から消えてなくなる彼女の質量を、追いかけたりなんかしない。

「……あんまり、困らせてやるなよ」

 なんの荒々しさも責任もない呟きは、ひとりでに漏れる。それは窓から流れ込む風に吹かれても、諦め悪く唇にぶら下がっていた。この死に損ないの感情が。

2020/4/28 お題箱より(相澤と爆豪の三角関係)
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