上鳴の手の甲の温度だけは知っていた。
 演習終わりに手をだらだらと振れながら隣を歩いたとき、テーブルの上のマグカップに同時に手を伸ばしたとき、「見てコレ」としょうもない動画をスマホで見せられたとき。
 手が当たるたびに上鳴は大袈裟に「あっ」と発しては、私に向かって両手を合わせるのだった。

「ごめん! でも俺はときめいた!」
「うるさいな。いい加減それ持ちネタにするのやめなよ。もう誰も笑わないし」
「ちぇ、冷てえなあ。俺らもう二年半も仲良くやってんだし、もうちょっと優しくしてくれてもよくね?」
「二年半も仲良くしてる時点で、自分が愛されてるの分かりなよ」
「……珍しく素直じゃん! 俺のみょうじはそうでなきゃ!」

 上鳴は満足げに目を細める。何を言っているんだか、上鳴も私も。
 時計の針は二十一時を指していて、健全な高校生である私たちは、そろそろ各自の部屋に戻らなければという頃合いだった。夜更かしがバレようものなら、先生に何をされるか分からない。
 私が時計を気にしているのを上鳴も察知して、もうこんな時間かよ〜、と間抜けな声で項垂れる。
 上鳴の部屋は、同じ三階だ。なんとなく同時にソファから立ち上がれば、部屋の隅で何やらカードゲームに興じている切島と瀬呂と峰田に「おやすみ」を言う。
 切島はつり目をまん丸にして、感心したように私たちに言った。

「お前ら、ほんと仲良いよな。こないだもこの光景見たぞ。デジャブだ」
「え、そうだっけ?」
「トボけてんじゃねーぞ上鳴! 抜け駆けしやがって! デキてんだろ……デキてんだろ……? いい加減白状しろよオイラ怒らねえから!」
「え? 付き合ってねーよ、みょうじ彼氏いるし」

 上鳴の白いTシャツがしわくちゃになるぐらいにその胸ぐらを強く掴む峰田を、上鳴はしれっとした顔で床に下ろす。切島と瀬呂はというと、「えっ」と素っ頓狂な声をあげた。

「みょうじ、付き合ってるやついんの?」
「……え、まあ、うーん」
「マジか。そういや聞いたことある気はするけど、ガセネタかと思ってたわ」
「……ていうか、もうみんな知ってると思ってたよ。一年の頃からバレる子にはバレてたし」

 真っ先にその情報を掴んだのは、他の誰でもなく上鳴だった。傑物学園高校に私の彼氏がいる、という情報をどの筋から入手したのかは吐かないものの、彼はある日突然、その事実を私の前にひらつかせたのだった。

「なあなあ、みょうじって傑物に彼氏いるってマジ?」
「……なんで知ってんの? 誰かに言ったっけ?」
「うわーやっぱマジだったのかよ! 早まって口説かなくてよかった! 危うく二秒で振られるどころか、彼氏様に滅多打ちにされるとこだった!」

 まだ大した会話をしたことがないというのに、距離感のハードルを飛ばずに猛スピードで潜り抜けてくるような上鳴のバカらしさは、少し心地よかった。
 なんだこいつ、と強張らせていた眉間の力が抜ける。ぷっと吹き出すと、上鳴もへらへらと笑った。

「まあ、別れたら真っ先に俺に教えてよ。みょうじってちょっと気強いけどなんとなく寂しがりっぽいし、彼氏いなかったら俺が真っ先に口説きに行ってやっからさ」

 白い歯を見せる上鳴はまっすぐにバカであった。どっちから連絡するだとか、会いたいって自分ばっか言うのはいやだとか、そういうつまらない駆け引きとは対極にあるように見えて、やっぱり心地よかった。

「じゃあ、それまでずっと友達でいてよ」
「いいぜ」

 バカみたいな彼の冗談に私もバカになって笑みを含んで返せば、その「友達」という言葉は、私と上鳴の間に明確に形づくられて鎮座してしまったのだ。

「そういやお前、いつ別れんの?」
「え? なに?」

 エレベーターが五階から降りてくるのを待っている間、ジャージの裾をもう片方の足の先で弄びながら彼は切り出した。
 私が黙っていれば、上鳴は確かめるように私に視線を寄越す。セットをしていないからか、学校で見るより少しさらさらと自由な前髪が、琥珀のような瞳にかかっていた。
 なぜだか、言葉が詰まってしまう。

「さっきの」
「……ああ、彼氏?」
「そ……で、どう? そろそろ別れそ? 俺の出番ありそ? 台本はもうバッチリ頭に入ってっけど?」

 唇を尖らせる上鳴の声は弾んでいたから、反対に私の思考は曇る。
 いつからか、上鳴の冗談を笑い飛ばせなくなっていた。きっと今この瞬間の私を楽しませるためだけに彼が投げたその軽やかな言葉たちを、思わず掴んで、離したくなくなってしまいそうなのだ。

「はは、まだだよ」

 いつもよりは力なかったかもしれないけれど、私は笑えた。

「ちぇ、ほんと飽きねーの。まあ、俺はいいんだけどさ。みょうじが幸せなら。それが一番だしな!」

 彼の手のひらが私の頭をひとつだけ撫でたところで、エレベーターは私たちに扉を開けてくれる。
 どうして、目的地は三階なんだろう。せめて部屋が五階だったら、もう少し一緒にいられるのに。一秒すらも惜しかった。
 もし私がその白いTシャツの裾を掴んだら、もう少しこっそり話そうよって言ったら、眉を下げて笑うのだろう。優しい上鳴なら、きっとそうする。
 それが分かっているから、できないのだ。

「……んじゃ、おやすみ。彼氏にもおやすみのメールしてやれよ。また明日な、みょうじ」
「……うん、おやすみ、上鳴」

 上鳴の手の甲の温度だけは知っていた。
 今夜は、触れられた髪すらも熱い気がする。
 部屋に戻って、布団にくるまる。スマホの充電は残り19パーセントだ。充電コードに繋いで、そのまま部屋の電気を消す。
 上鳴がことあるごとに言う「彼氏」なんて男は、とっくの二ヶ月前に、私の隣からはいなくなったのだ。





 あれから数年が経っても、上鳴の手の甲の温度だけは知っていた。
 慣れないヒールでよろければ、「ちょい、大丈夫か?」と反射的に差し出される手。高校の頃ジュースを飲むのに使っていたマグカップは、気泡がふつふつと浮いたグラスに変わって、飲んだってテンションは変わらない上鳴の頬も、ほんのりと上気させていた。

「で〜、お前は最近どうよ。俺は人生最大で最悪の事実に気付いちゃったとこ」
「なに? まあ言ってみてよ」
「あのさ〜……あ、てかその前にこれ食っていい? これさっき頼んだやつ?」
「食べていいよ。そう、ピンチョス」

 明らかに重そうなガラス製の皿に乗ってテーブルの上にやってきたスピードメニューを、上鳴はひょいと口の中に入れる。しばらく無言で咀嚼した挙句、マイペースに「あのさ〜」と切り出した。

「俺ってやっぱ、モテねーんだわ」

 やけに凛とした瞳で上鳴は言う。

「……それずっと言ってるじゃん。なにが人生最大で最悪の事実だよ」
「んんいやマジで! 正直、正式に単独で活動始めたら俺のこと見てくれる可愛い女の子も現れるかと思ってたんだけどさ、やっぱ完成されたイケメンには負けるわ。ショートくんのメアド知ってる? とか聞いてくんの。俺に興味なし。ほんと嫌んなっちゃうよなぁ」
「またまた。めっちゃ合コン行ってんでしょ?」
「え〜? 行ってねーよ、合コンなんて」
「切島から聞いたよ」
「えっ! え……?」

 ちょっといじってやろう、程度の心算で言っただけなのに、上鳴は感電したみたいに硬直して動かなくなる。しばしの沈黙に、戸惑う私が引き気味の「え?」を落とせば、上鳴は呻きながら空を仰いだあとに、ビールを飲み干した。
 ごとん、とグラスを置く音がテーブルに響く。

「クソ〜、なんで言うんだよアイツ……」
「そんな隠すことでもなくない? 上鳴が合コン行きまくってても驚かないよ」
「そうじゃねーよ、がっかりしねえ?」
「なんで?」
「……なんで、って……」

 どこか私を責めるような瞳を、上鳴はした。
 彼が喉に詰まらせているらしい言葉がなんなのかは知らないが、困っていることだけは事実だ。
 私も私で、心のどこかで嘘であったらいいと思っていたことを肯定されたショックを、ビールに混ぜて飲み干してしまう。
 ごとん、とグラスを置く音が、再びテーブルに響く。

「なあ、みょうじ」
「……なに」

 上鳴はなんでの続きを言わずに、躊躇いがちな視線で私をまっすぐに射抜く。

「……そろそろマジで、俺の出番ねーの?」
「……久しぶりに聞いたわ、それ」
「さすがにしつけーかなと思って」
「そんなこと言うなんて、意外」
「意外ってなんだよ。もし俺のこれが冗談なら、みょうじも笑って流せると思うけど、もう自信ねーんだよな」

 なんの、と問おうとするけれど、息を吸っただけで言葉が出てこない。
 黙っている私と上鳴に、店員は臆せず近づいて来て、おかわりはいかがですか、と聞く。お願いしますと言ったのは私で、新しいグラスはすぐに来た。
 水滴がたわわに実ったそれから視線を上げて、私と上鳴はまた睨むように見つめ合う。

「……なあみょうじ、今から俺、めちゃくちゃサイテーなこと言ってもいい?」
「……いいよ。今更嫌いにならないから」
「……あー。早く、別れれば?」

 どことなく自虐的な笑みは少し痛々しく、彼が切実にその言葉を紡いでいるということが分かってしまう。

「……彼氏と?」
「それ以外にねーよ。まだ続いてんだろ。別れる気全然なかったもんな。そんなこと、知ってたのに」

 吹っ切れたように上鳴は笑った。

「他の女の子見てみても全然ダメなワケ。卑怯だけど、俺はお前と友達で良かったなんて思ったことねーよ」
「……そんなこと、今言うの」
「俺のこと迷ってる、なら、チャンスくれよ。卑怯なことしてるのは分かってる。それでも俺は、みょうじが欲しい」

 あの時掴めなかった白いTシャツの代わりに、私はテーブルの上で所在なく絡んでは解けていた、彼の指を救う。はっと顔を上げた上鳴の瞳に、ばちりと電流を流したように何かが灯った。

 上鳴の部屋は相変わらず小物やポスターに溢れていて、女の子が来てもしばらくは話すネタに困らなさそうだ。
 なんて、一言も喋らずに考えていた。
 やんわりと掴まれた肩から、するりと上鳴の手が降りてきて、背中を引き寄せられる。おでこに落とされたキスを皮切りに視線を絡めれば、暗闇の中でも彼の瞳に焦燥が滲んでいるのが分かる。
 そして、初めてキスをした。
 上鳴の指先が、私の横髪をそっと掻き上げる。今まで触れたこともなかった部分を、大切に大切に、壊していくような手付きだ。
 加速しない肌のやり取りはもどかしい。

「上、鳴……」

 やめたい気持ちと、やめたくない気持ちが鬩ぎ合って、その名前を呼んでしまう。
 うん、とだけ短く返事をした彼は、私の手首を攫って、そのままベッドに押し付ける。接近する顔は、歪んでいた。急くようにあちこちに落とされる口付けが甘くて、たまらない気持ちになる。
 やがて私の首元に埋められた唇は、やるせない吐息をひとつ。

「……あ、クソ。何やってんだ、俺。こんなことして」
「上鳴」
「……ん?」
「私、上鳴と友達でいるの、やめたい」
「……え、なんで。いや……なんでじゃねーよな」

 泣きそうな瞳が私へ向けられた。
 恐らくこのまま先へ進めば、私と上鳴の間に何年も鎮座していたものは跡形もなく消え去ってしまうのだろう。
 けれど、それは私にとっては嬉しくて、彼にとってもそうであればいいと思った。

「彼氏なんか……いないよ。ずっと前から」
「ん……え、え……?」

 動揺したようにゆっくりと前髪を掻き上げながら、上鳴は視線を泳がせる。

「……ただの友達としか思われてないんだって知るのが怖くて、ずっと言い出せなかったんだ。ごめん」
「なんで。すぐ教えてって言ってたじゃん」

 上鳴はただただ目をまん丸にして、私を問い詰める。

「ごめん。でも……ずっと、こうなりたいって思ってたよ。彼氏いないなら、く、口説いてくれるんでしょ」

 羞恥に耐えながら冗談めかしてみれば、私の肩を掴む上鳴の手に力が籠るのが分かる。波打つ唇は固く結ばれていた。

「……なんか言いなよ。責任取って、口説いてよ」
「……ヤベ。お前、やべーよ、それ……」

 のぼせたように赤くなる上鳴は、私の体に情けなく上半身を預けたあと、そのまま包んでくれる。
 上鳴の手の甲の温度だけは知っていた。
 けれど、その髪が意外と繊細な感触であることとか、首の後ろの骨が少し出っ張っていることとか、熱の篭った瞳とうらはらに、指先はひどく優しく私に触れることを、私は今夜、知るのだった。
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