エレベーターのドアが閉まりかけた頃、ぱたぱたとどんくせえ足音がする。無視してこのまま閉めてやろうかと思ったが、その音にはいささか心当たりがあり、舌打ちをしながら「開」ボタンを押した。

「おっ、ありがと爆豪。さすが」
「おめえ、いい加減そのふざけたスリッパやめろや」
「スリッパぐらい自由に履かせてよ」
「足音うるせえし、見てたらイライラすんだよ」

 ええ〜、と間抜けな声を漏らしながら、部屋着のみょうじは足元を見やる。そこには、履物としての機能性もクソもない、むしろ邪魔にしかならなさそうな、ウサギかクマか分からねえ立体物が口を半開きにして俺を見ていた。いつも、こいつが歩くたびフワンフワンと揺れて、小馬鹿にされてるような気がする。

「ああそうだ、言い忘れてたけど、おはよう爆豪」
「……おう」
「早速お願いがあるんだけどさあ、歯磨き粉貸して」
「あ? てめえの使えや」
「部屋に忘れてきた」

 ち、と舌打ちをしたところでエレベーターが開く。まだ眠いと言わんばかりに目をこするみょうじには反省の色がない。洗面スペースに立てば、案の定隣に立ったみょうじは「爆豪〜」と物欲しげに声を出す。

「うるせえなクソが。ぜってえ使いすぎんなよ」
「ありがと、さすが爆豪」
「馬鹿にしてんのか」

 歯ブラシをくわえれば、しばらく無言になる。鏡越しに、まだゆったりと瞬きを続けるみょうじをふと見やると、その睫毛が擡げられ、ふいに目が合ってしまったのですぐに逸らした。
 朝の六時過ぎ。まだほとんど誰も起きて来ない時間帯に、俺とみょうじはよくここで並んで身支度をする。早起きの理由だが、俺は体づくりのため、みょうじはといえば元々朝型なのだと言い、部屋で予習するなどと優等生めいたことを抜かしていた。
 みょうじの部屋着には色気もクソもない。大きめのグレーのTシャツには皺がついていて、いかにも寝起きという感じだ。

「……いつ見ても腑抜けたカッコだな」
「あんま見ないでよ」
「は? 誰もお前なんざ見てねえよ。勘違いすんな」
「理不尽」

 目をじっとりと細めるみょうじを横目に、口の中をゆすぐ。
 白状すれば、俺はこの時間を嫌いではない。教室に入ればみょうじは寝ぐせひとつなく、スカートに皺ひとつつけず、爛々とした瞳で俺に「おはよう爆豪、さっきも会ったけど」と言うのだ。そこまで取り繕えるくせに、ひとたびオフになると弛んだ糸のように甘やかな声で俺を呼ぶところとか、ガキみてえに目を蕩けさせているところ、いくらなんでもツメが甘すぎるだろ。
 しかしそれは、他の奴は知らないみょうじの一面を知っている気がして、優越感のようなものに背筋を撫でられる心地がする。
 だからもう一度言うが、俺はこの時間を嫌いではなかった。

「爆豪、もう行くの? 今日もファイト!」

 洗面スペースを出ようとすると、みょうじは俺に白い手のひらを向ける。

「あ? なんのつもりだ?」
「ハイタッチですけど」
「……朝からくだらねえ」

 乾いた音は鳴らないが、俺はみょうじの白い手のひらに拳を軽く当てた。満足気な視線が煩わしくて、俺は今日もう何度目か分からない舌打ちをしたのだった。

「あ、今度さあ、私も一緒にランニング行っていい?」
「そのアホみてえなスリッパ脱ぐなら考えてやるわ」
「ええ〜」
「うるせえ」

 みょうじの間抜けな声は癖になる。ひとりでに片方だけ釣り上がる口角はクソだ。ぱちんと頬を叩く。
 ランニングシューズの紐を結べば、軽く準備運動をした。認めたくはないが、体が軽くなるような、微量の電気が体中に巡るような気分になるのだ。あいつと会えた朝は、調子がいい。



 土日の朝はあいつに会わないが、食堂に降りればその姿はあった。
 みょうじはいつもここで誰かと会話をしている。よく飽きねえもんだと思いながら横をスルーすれば、いつもと変わらない「おはよう爆豪」が飛んでくる。低く「おう」とだけ返事をすれば、会話は続いていく。

「あら、みょうじさんのお履き物、いつも可愛らしいのに、今朝は履いておられないのですね」
「ほんとだー、どしたの? あのうさちゃんスリッパ可愛いかったのに」
「えっ……まあ、気分かな」
「なになに、珍しく歯切れ悪いじゃん」

 黒目に問い詰められてみょうじは俯く。その一部始終を、離れたところで朝飯のコーンフレークと惣菜パンを食いながらなんとなく眺めていた。

「……いや、みんなすごいなあと思って。よく見てるんだね」

 苦笑するみょうじ。なんだその辛気臭い顔は。溌剌としたいつもの態度からは想像しがたい表情だった。どうでもいいあいつの様子に気を取られていれば、スプーンからコーンフレークが溢れて、ミルクに波紋を立てる。

「あ、轟、オハヨー!」

 黒目の一言で、談話スペースの奴らは一斉に、悠長な登場を決めた半分野郎に視線を集める。返事もそこそこに周囲にそろりと視線を這わせる半分野郎の顔は、どことなく草臥れていた。
 何かを認めるとその口を遠慮がちに開く。

「あ、みょうじ……」
「おはよ、轟。じゃ、私はちょっと部屋に戻るね。読みたいマンガあるから」
「……ああ、わかった」

 何か言いたげだった半分野郎の手のひらはみょうじを捕まえきれず、宙で力なく彷徨う。ダセエ、スルーされてやがる。
 置き去りにされた半分野郎は半分野郎で大した用事もなかったらしく、そのまま食堂に残り、俺の斜め前の椅子を引いて腰掛けた。

「……はあ。おはよう、爆豪」
「……声掛けないわけにはいかねえ絶妙なトコに座んのやめろや」
「悪い。ここ電子レンジ近いんだ」
「知るか」

 いつも以上に、その動きはぬるりとしていて掴みどころに欠けていて、無性にイライラする。ヨレヨレで皺の付いたグレーのTシャツも、いつも以上に半分野郎を無頓着に見せていた。
 納豆と白飯と味噌汁を前に並べると、半分野郎は「はあ」と憂鬱の靄を吐く。
 さっきからこの男は、あからさまにデッケエため息ばっか吹っ掛けて来やがる。
 むろん、はらわたから湧き上がってくるような苛立ちは、我慢せずに吐き出すタチだ。

「なんなんだよさっきから! 人が飯食ってる前でため息ばっか、うっせえな! 飯が不味くなんだろうが」

 半分野郎はきょとんとして俺を見ると、悪意がないまま俺に言う。

「……ため息吐いてたのか、俺。ごめんな、気付かなくて。気を付ける」

 やけに物分かりのいい様子にゾワゾワと背筋が寒くなる。こんなとこいられるか。そそくさと残りのコーンフレークをミルクごと飲み干して、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
 じゃあな、と捨て台詞のように吐いて部屋に戻れば、しんとした休日の午前がやって来た。
 休日にクラスのやつらが何をやってるかなんて知らねえし興味もねえが、パタパタと間抜けな足音が聞こえないのは、ちょっと物足りなくもある。
 このところ授業は座学が多く、有り余る体力は昼寝も満足にさせてくれない。ふとみょうじの言葉を思い立って、暇なら走りに行くか、と誘ってみてもいい気になった。
 いや、なんで俺が。一人の方が確実にペースは守れるだろ、けどあいつは別に足手纏いになるような奴じゃねえし。
 悶々としている自分のことは、幽体離脱したみたいに急に自覚してしまう。
 なんであいつのことで俺がこんなに悩まなきゃならない。別に深い意味なんかねえだろ、演習の延長だ。
 ベッドから飛び起きれば、Tシャツを着替えてランニングシューズの紐を指先に引っ掛ける。
 あいつの部屋は同じ四階。通りがけに声掛けたって何も変じゃねえ。
 部屋を出て吹き抜けの向こうの部屋を目指していた俺の足は、はたと止まる。

「……なあ、みょうじ」

 あいつの部屋の前で躊躇いがちに小さくそう呼ぶ半分野郎の後ろ姿が見えて、思わず柱に隠れる。
 なんで五階のあいつがわざわざみょうじの部屋にいんだ。決して褒められた所業じゃないと知りつつも、詮索心が俺の足をここに縫い付け、耳を欹てる。
 半分野郎が周囲をちらと見回すのが分かる。その不安げな視線が堂々たる訪問ではないと知らしめていた。

「……昨日はごめん。お前のこと悲しませるつもりじゃなかった。いや、怒ってる、か? ちゃんと話したいから、入れてくれないか。皆、まだ下にいるみてえだから……大丈夫だ」

 ぼんやりと聞こえるセリフは、限りなく親密そうな色を孕んでいた。こんなに切実なあいつの声は聞いたことがない。眉間の辺りが徐々に強張っているのを感じながら、俺はまだ立ち去れないでいた。

「……これ、俺んとこ置いて行ったろ。履かねえと足、冷やすぞ」

 半分野郎が両手で抱えるそれは、みょうじがいつも履いてるアホみてえなスリッパだ。ウサギかクマかも分からねえ間抜けなツラは、返事のない扉を口を半開きにしたまま見つめていた。
 この瞬間に、全てが繋がった。俺はゆっくりと息を吐く。静かに、静かに。
 あいつのどんくせえ足音も、低血圧のくせにやけに朝が早いのも、ヨレヨレのでけえTシャツも、全部あの男の、半分野郎のものだったらしい。
 そして、がちゃん、と鍵が落ちる音がする。
 扉の隙間から見えるみょうじの顔は歪んでいて、半分野郎よりも、もっと下の何もないところで視線を迷わせる。

「……なんで、あんな意地悪なこと言ったの。私が好きなのは焦凍くんだけなのに」
「……悪い。お前の気持ちなんかちっとも考えずに、俺が勝手に不安になっただけだ。確かめたくて、口を突いて言っちまった。お前のその言葉だけで、十分なのにな」

 見たことない女と男が、そこにいた。
 半分野郎の手からスリッパがはらりと落ちて、代わりにその手の中にみょうじを閉じ込める。俺はシューズの紐を握り締める。
 毛程も羨望なんかしていない。落胆もしていない。熱に浮かされて、まるでこの世に二人だけみたいな顔したあいつらが、アホみてえに見えた、それだけだ。ただ、それだけだ。あークソ寒い。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -