ある夜、一人の女を助けた。
 俺が鬼を斬ったあと、彼女はかろうじて保っていた正気をぶつりと手放した。一本の芯をにわかに引き抜いたかのように、その髪の先から爪先までが力を失くす。
 絡繰り手のいなくなった傀儡のようだ。
 名も知らない女ではあったが、その身には確かに鬼殺隊服を纏っていた。右の肩元の部分は、よく見れば血でべっとりと濡れている。

「おい、目を覚ませ。眠るな。お前はまだ、起きられる」

 意識を失っていることは分かっていたが、まだ彼女は「こちら」にいる。
 しかし、呼びかけても一向に動かない瞼にわずかに焦燥し、ここへ来る前に通り過ぎた古く小さい屋敷まで、その女を運ぶ。
 恐らくまだ若輩の隊士だ、この状態では呼吸も使えまい。手近な布で肩元を強く縛るが、きちんとした治療が必要だろう。
 白い顔を覗き込めば、作り物のように安らかな表情。思わず、この人間がどのように笑うのか、その瞼の下の瞳に何を映すのか。そんなくだらないことにふと思いを馳せた。
 それと同時に一度か二度、長い睫毛が蠢いて、彼女の眼が開く。

「目が覚めたか。俺は鬼殺隊の冨岡だ。夜が明けたらここを発つぞ」
「……して」
「……何だ?」
「殺して! 殺せ! 殺せ! 殺してぇ!」

 女は急に声を荒げ、俺に掴み掛かる。咄嗟にその両腕を捕らえるが、女のものとは思えない力だ。意思とは関係なく筋肉が硬直し、瞳が充血しているのが分かる。
 ――紛れもなく、血鬼術。
 殺せと血眼で繰り返す彼女の日輪刀は部屋の脇。瞬きもせず見開かれたその瞳が必死に刃物を探しているのが視線で読み取れる。次の瞬間、俺の腰元にぶら下がる刀の柄へその力は及ぶ。

「落ち着け。お前は鬼じゃない。死ぬ必要はない」
「ああ……殺して! 殺してよ!」
「お前は人間だ。目を覚ませ」

 ふうふうと吐き出される荒い息。まるで獣のような姿は見るに堪えない。
 それに、彼女の身体能力以上に出力されたこの力が、彼女の負担にならないわけがない。
 たとえ若輩の女隊士であろうと、背に腹は変えられぬ。ある種の決意を俺は静かに結び、唸り声を上げる彼女の額に思い切り頭突き、両の手首を背中側に返せば、床に組み伏せ、馬乗りになった。
 容赦なく床に擦り付けられる、白い頬。思わず自分自身の所業を見て、目を覆いたくなる。

「すまない」

 彼女にそう呟くと、羽織を脱ぎ、その口元に噛ませた。籠った呻き声を聞きながら、窓の外に視線を移した。朧に青白んだ月が射し込んでいる。
 手荒な真似をして、すまない。もう一度、俺の下で蠢く彼女に呟く。恐らく、届いてはいないが。


 夜が明けるまでの数時間、俺は名も知らぬ隊士に馬乗りになったまま過ごした。
 一睡もしていない体が欠伸で眠気を訴えるが、噛み殺す。かなり大人しくはなったが、時折思い出したように俺を跳ね除けようとする女の手首を抑えていれば、手も痺れてきた。

「あら、冨岡さん。それは?」

 やおら屋敷の中に光が射し込み、どこか責めるような胡蝶の声がする。烏へ言伝を頼んでおいたが、さすがの胡蝶でも到着までに時間がかかったようだ。

「これがそうだ」
「ちゃんと説明してください」
「血鬼術にかかっている。その鬼は斬ったが、何故かまだ完全に解けていない」
「恐らくですが、筋力にも作用しているようですね。冨岡さん一人でやっと抑えられるほどだなんて、相当でしょう」

 胡蝶はゆったりとこちらに歩み寄ると、もの言わぬ獣のように唸る女を見て、丸い瞳をさらに丸くする。

「あら、見知った子ですね。可哀そうに」
「知り合いか」
「ええ、何度か屋敷に泊めています。彼女の面子のために言っておきますが、普段は至って冷静で明るい子ですよ」
「……早く解いてやれ」
「そうですね。冨岡さん、その子の両肩を抑えておいてもらえます?」
「肩は駄目だ」
「何故です?」
「右肩の傷が塞がっていない」
「……でしたら、暴れられては注射を打つのは怖いですね」
「どうすればいい」

 胡蝶はわずかにその眉間に皺を寄せる。何やら思案している様子の胡蝶をしばらく見てみるが、回答はなかなか返ってこない。
 そうしている間にも、ぎりりと女の二本の手首が捩れる。俺が手を離しても、きっと彼女の手首には手枷のようにしばらく跡が残るだろう。
 俺はともかく、恐らく彼女の体の限界には限りなく迫っている。右肩の傷からまた出血しないうちに、可能な限り早く、彼女を元に戻さなくては。

「胡蝶、それを飲ませられれば何でもいいのか」
「ええ、いいですけど」
「薬を貸してくれ」

 まだ全てを理解していない胡蝶は神経質そうに顔を歪める。その指先から薬を奪えば、俺はそれを全て口に含む。口内に広がる得も言われぬ苦み。つんと鼻腔を刺すような匂い。目尻に生理的な涙が滲んだまま、俺は彼女の身体を仰向けに返す。

「ちょっと、冨岡さん……?」

 片方の手で髪を掴み、左右に暴れる頭部を固定する。そして、乾いた唇に口内から直接液体を流し込んだ。





 ある夜、私は死を覚悟した。
 八人ほどいた仲間の隊士は鬼との交戦中に血鬼術にかかり、あろうことか皆自分の首を自分で落としてしまった。どんどんと動かなくなる仲間。正気を失った仲間たちからは断末魔の叫びすら響かない。
 先刻斬られた右肩の出血と痛みで、意識が朦朧とする。
 その中で、私は「彼」を見た気がした。

「目が覚めたか」

 ぼんやりと重いものを押し上げるように、意識の底から浮かび上がる。網膜を焦がすような何かは、日の光であった。
 呼吸をすれば、体中のあちこちが軋むように痛い。呻き声を上げれば、男の声がした。

「右肩に切り傷、加えて血鬼術により体中にかなりの負荷が掛かっていた。あまり動くな」

 淡々と事務連絡のように私に向かって言葉をかけるのは、冨岡さんだった。

「と、冨岡さん?」
「そうだ」
「どうしてここに」

 てっきり冨岡さんの姿が見えたのは、死ぬ間際の走馬灯か何かだと思っていた。むろん、私は彼に片想いをしていたからだ。恐らく彼にとって私は名も知られていない有象無象の隊士であるはずなのに、どうして目の前に彼の姿が在るのか。
 馬鹿な私は、真っ先にそれが知りたかった。

「お前がまた暴れ出すと危険だから、監視していた」

 はっとして記憶を辿り、目を覆いたくなるような仲間の所業を思い出す。きっと私も皆と同じ道を辿るところだったのだ。
 だんだんと鮮明になる五感が、手首が紐のようなもので拘束されていることを教えてくれた。

「……大丈夫、です。もう」
「……そうか」

 冨岡さんは静かに頷くと、立ち上がり私の手首の紐を切ってくれた。薄らと赤く、痣のような跡がある。

「それは、少し手荒な真似をした。すまない」
「いえ、そんなこと。助けてくれて、ありがとうございます」

 私の言葉を確かに聞いてはいるが、冨岡さんはいつもの温度のなさそうな目で、無表情にこちらを見下ろすだけだった。
 居た堪れなくなって俯いたとき、冨岡さんの声が降ってくる。

「俺が行くまで、よく一人で耐えた」

 それは、張り詰めていたものをがらがらと崩すには十分すぎる言葉だった。簡潔な彼のその言葉以上に、今の私に生の実感を与えてくれるものはなかった。
 堪えていた嗚咽が、ふう、と漏れる。頬を大粒の涙が伝い、よく糊のきいたシーツへ落ちた。

「気の毒だが、大切な者を失くしているのは皆同じだ。残された者が、より強く生きていかねばならない。できるな」
「……はい」

 彼の言葉は突き放すようでありながら、本当は強く背中を押してくれた。涙を手のひらで拭いている間に、冨岡さんは再び椅子に座り直していた。
 まじまじと、私の崩れ切った顔を見て、冨岡さんは言う。

「俺はお前のことを知らないが、きっと笑んだ顔の方がお前には似合う。――一お前を抑え付けている一晩の間、お前の顔ぐらいしか見るものがなかったから、ずっと考えていた」

 あまりの羞恥と悔恨で体が熱くなる。

「本当に、申し訳ありませんでした……」
「俺にはもう謝るな。言うなら礼を、薬を手配した胡蝶に言っておけ」

 ちょうどがらりと音を立てて引き戸が開き、胡蝶さんがやって来た。

「あら、なまえの目が覚めたみたいですね。その様子なら、薬が効いたみたいで良かったです」
「胡蝶さん。ありがとうございます。本当にご迷惑をおかけしました」
「もし薬が効かなければ、永遠に冨岡さんの馬乗りから逃げられなくなるところでしたね」
「……あ、私、そんなに暴れて。すみません、何と申し上げればいいか」
「ふふ、まあ薬を投与するのは少し大変でしたけど。ねえ、冨岡さん」
「胡蝶」

 やや威圧的な冨岡さんの声が、胡蝶さんを咎める。何かが引っかかる空気感。まさか本人に言えないような暴れ方をしたのではないだろうか。
 肩をすくめていると、冨岡さんはため息を吐いた。どこか力なくその瞳は泳いでいた。

「……心配せずとも、今度俺から言う。お前、名は」
「みょうじなまえです」
「分かった。お前が治った頃に訪ねる。養生しておけ」

 彼はそう言い残し、堂々たる背中を私に見せた。ああ、やはり私は、彼みたいになりたい。決して絶望なんてしない。言葉も忘れ恍惚としていた私の中にはもう、一つの希望が息づいている。
 ふふと笑い声を漏らす胡蝶さんに「何ですか」と問えば、「何でもありません」という柔らかな返事が私をくすぐった。
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