「なあ、爆豪。お前に言うのも変だと思うんだけど、俺、あいつがいないと駄目なんだ。ごめん」

 それはなんの「ごめん」だ?
 てっきり俺を揶揄いたくて言ってるのかと思いきや、半分野郎はいたって歪みのない目で俺を見ていた。
 正直、無視して家に帰りたかったが、半分野郎は俺の返事をいまかいまかと待っているかのように、真ん前に佇立して動かない。半分野郎のブーツと俺のブーツが、向かい合う。俺はわざと爪先の向きを変えた。
 学生時代からこいつの独特すぎるペースにはほとほと呆れていたが、ついに俺の口からは深い深いため息と、クソでかい舌打ちが漏れる。

「……お前、頭おかしいんか」

 半分野郎はわずかに唇を開く。

「そうかもな」

 弱々しく、どこか自虐的に、やつは瞬きをした。
 参ってるふりをしたって無駄だ。俺はなんにも悪くない。
 人の女の名前を挙げておいて、極め付けには「いないと駄目になっちまう」なんてことを仮にも恋人である男に言うだなんて頓珍漢にも程がある。
 高校生の頃だったらブチ切れてストレートのひとつでも喰らわせていたかもしれないが、ここまで来るともはや怒りすら湧いてこなかった。

「じゃあ、俺は帰る。爆豪も気を付けて帰れよ」

 カチン。小石を脳天に向かって投げられているような、これでもかと小馬鹿にされている心地。
 何事もなかったかのように背を向ける半分野郎を呼び止めることもなく、俺は喉と胸のあたりがカッとなるような不快感を消すかのごとく、走って家に帰った。



「おかえり! 夕飯できてるけど、すぐ食べる?」
「先に風呂行くわ」
「え、なに息切れしてんの。もしかして走って帰ってきたの?」
「ちっとムシャクシャしてんだわ」
「どうしたの? 愚痴なら聞くよ?」

 おたまを片手にアホみたいな間抜け面を俺に向ける、なまえ。ムシャクシャの成分にはこいつも十二分に含まれているとは言え、直接言うわけにはいかない。
 服を脱ぎ捨てて、シャワーを頭から浴びる。
 目を瞑れば、思い出したくもない半分野郎の声が頭蓋骨のなかで反響した。

「俺、あいつがいないと駄目なんだ」

 何を今更、そんなこと。昔からそうだったくせに。
 ぼたぼたと体を伝ってからタイルを叩く水の音。そのひとつひとつに責め立てられているような気がして、俺はより強く瞼を閉じた。叫び出したくなるような衝動を抑えて、舌打ちひとつに留めた。



 半分野郎は救いようのないバカだった。

「轟くん、おはよ!」
「ああ、おはよう。みょうじは朝から元気だな」
「普通科は今日、テスト返却なんだよね〜。出来悪かったから見たくないよ」
「お前の言う『出来が悪い』は、ほんとに出来が悪いもんな」
「そうだけど、ストレートに言われると傷付く……あ、ねえ轟くん、こないだ相談した例の件って……」
「ああ、ちょっと待っててくれ。なあ、爆豪」
「ア?」

 高校生だった頃のある日の朝、隣でくっちゃべっていた半分野郎と、そのときは顔も名前も知らなかったなまえが俺のほうを見ていた。

「こいつ、俺と小中一緒だった幼なじみのみょうじっていうやつなんだけど、爆豪と友達になりたいらしい。いいか?」

 突然なにかと思えば、虫唾が走るようなセリフ。興味ねえと返せば、女はあからさまに傷付いた顔をした。
 そこまでは想定の範囲内だったが、俺が不快だったのは、半分野郎までもがその変わらない表情の奥に悲しさを滲ませたことだった。
 なんだ、こいつら、気持ち悪い。

「無理にとは言わねえ。みょうじはマジでいいやつだ。なんとなくお前とも仲良くやれるんじゃねえかと思ってる」
「と、轟くん! いいって、そこまで言ってくれなくても」
「なんでだ。お前、爆豪のことすげえ好きだろ」

 半分野郎の言葉に女は口をあんぐりと開けて、その顔を真っ赤に染め上げた。
 なんだ、こいつら。
 くだらねえと思ったが、あまりにもくだらなすぎて嫌悪感はなかった。
 その日はドタバタと慌ただしく教室を出て行ったなまえだが、たまたまその日の帰り道でも会ってしまった。
 目が合えば短く悲鳴を上げるなまえに「お前、今朝の」と声をかけてしまったのが、あいつとの始まりだった。
 なまえは愚直で、何かに不便している人間がいればすぐに手を貸すような、お人好しで隙だらけの人物だった。
 そのくせ自分を突き通し、プライドも守るもんだから、俺とはすぐに言い合いになった。
 いつしかそれがなければ物足りないと感じていることに気付いた俺は、我ながら自分の感情に鈍すぎるだろうと自嘲したのだったが。

 それ以上に、半分野郎は救いようのないバカだった。

 その事実に俺が気付いたのは、あいつと付き合うことになったしばらく後のことだ。
 授業が始まればみっともなく個性を暴発し、体育館での授業が終われば教室とは真逆の方向へ歩き出す。
 ついに轟が壊れた、とクラスメイトがやかましく騒ぐが、当の本人はぽかんと間抜け面を晒すだけ。
 演習のあみだくじが俺に半分野郎をあてがえば、他人事ではなくなる。対峙してもどこか虚なオッドアイに神経を逆撫でられて、俺は言った。

「……今のお前とやったって全く実りがねえ。さっさとシャッキリしろ、舐めプ野郎」
「悪い。最近の俺は、変だよな」
「知るかボケ。さっさと目覚まさねえとぶっ殺すぞ。迷惑なんだよ」

 半分野郎は無言で距離を詰めてくる。じ、と俺の顔を見る無表情がひどく不愉快だ。
 そして、半分野郎はやがて何かが腑に落ちたようにすっと息を吐く。

「爆豪、わかった。俺はお前が羨ましい」
「……ハア?」
「俺、あいつのこと好きだったみたいだ」

 じり、と動きを止めてしまう。
 「今日あいつの誕生日じゃん」って言うときみてえなテンション。あいつが誰を指すのかなんて、恐らく俺が一番よく知ってる。

「……なんで今、んなこと言うんだ。俺に」
「悪い。爆豪がいなきゃずっと気付かなかっただろうから」
「……んだよ、てめえ。ワケわかんねえ」

 宣戦布告なのか、もしくは他の狙いがあるのか。何より俺は「目の前の男が何がしたいのか」が不明瞭であることに最大の苛立ちを感じていた。
 怒りに任せて手のひらの上で火花を散らす。ぎらりと鈍く光る半分野郎の目が、引き下がる気はないと言っているような気がして、眉間に力が篭った。

 それなのに。
 俺に向かってとんでもないことを発露したくせに半分野郎は、その日の放課後、俺とあいつに向かって「仲良くやれよ」なんて言葉を吐いたのだった。
 よっぽど悲劇ぶりたいのか知らねえが、反吐が出そうだ。
 お前が俺よりずっと前からあいつを想っていようが、俺には関係ない。てめえの心の中にも気付かずに俺にあいつを近づけたのが悪いし、何よりあいつが俺を選んだ。
 愚かなまでの自業自得にざわつく胸の端は、恐らく憐憫めいた何かだ。



 その憐憫めいた何かは、「雄英卒業後は半分野郎の事務所で働く」というなまえの申し出も不服ながらに許容した。
 事務所の規模やなまえの個性を考えればまず半分野郎のとこで経験を積めるのは願ってもないことだと理解していたのに加え、なまえが半分野郎のことを「ただの幼なじみ」と評したことも大きかった。

「なに? 今更、轟くんに嫉妬してるの? ふふ、おかしい。轟くんが私たちを取り持ってくれたようなもんなのに」

 そうだ、本当にあいつはバカだ。
 なんの悪気もなく幸福そうに笑い声を漏らすなまえ。お前はなにも知らなくてもいい。たとえそれが誰かにとって残酷なことでもだ。

「あいつにお前を盗られるなんて万が一にもねえ。それに、お前のためにもなるし、いいんじゃねえか。まあ、俺と一緒になる気があんなら、そんときは腹括って俺んとこ来てもらうけどな」
「……後半って、プロポーズ?」
「の予告だ。アホ」

 なまえは笑って俺に礼を言う。
 たとえ一緒にいる時間が増えたところで、半分野郎が俺からあいつを奪えるなんて、到底思えなかった。
 どうせ今までと一緒だ。ただ無駄にあいつとの時間を消費して、感情を押し殺し、あいつを見るたびに脳裏に俺の存在を過らせ、やるせなさに支配されるんだろう。
 ほら、見ろ。
 それから何も変わらないまま、数年が経った。
 何も変わらない日々に突然、半分野郎はその言葉を落とした。

「なあ、爆豪。お前に言うのも変だと思うんだけど、俺、あいつがいないと駄目なんだ。ごめん」

 透き通る水に色を落としたように、その言葉は馴染まない。聞き逃すには色濃すぎて、意味を持ったその言葉を脳内で繰り返し、数週間もの間、俺は思案させられていた。

「勝己くん、ただいま! はあ、疲れたよ〜」
「……遅かったな。メシできてんぞ」
「嬉しい! ありがと、いただきます」

 このところ帰りが遅いが、なまえは明るく振る舞って、ため息すら漏らすものの、愚痴はその唇からは絶対に溢さないのだった。
 そろそろ六年の付き合いだ、それが強がりだと分かっている俺は、なまえの向かいのダイニングチェアを引いてどっかりと腰掛けると、作り置いておいた食事を口に運ぶ顔をまじまじと睨んだ。

「なに? 食べにくいんだけど」
「……愚痴ぐらい言えよ。言うまで食わせねえ」
「そんなこと? 怖い顔してるから、別れ話でもされるのかと思ったじゃん」
「そんなことってなんだ。オイ、何勝手に食っとんだ」
「ふふ、勝己くんの料理、やっぱおいしい〜」
「……どうせ日中はろくにメシも食ってねんだろ」

 腕組みしたままそう言えば、なまえは一瞬、固くなる。尋問しているみたいだ。

「なんで、分かるの?」
「抱き心地が違え」
「もう! 恥ずかしいこと言わないで!」
「そうでなくてもお前、夢中になると寝食忘れるタイプだろ。よくねえんだよ、そういうの」
「ごめん……心配かけてたんだね」
「謝んな。けど、愚痴ぐらい言え。何年お前の恋人やってると思ってんだ。ちっとは頼れよ」

 なまえはふにゃりと目を細める。これは、拗ねた俺をいたぶりたいときの顔だ。無意識に不満が外に出ていたことは不本意だが、なまえは俺に「ありがとう」と微笑みかける。

「……実は、轟くんが今度独立するみたいで、その準備に追われてるところなんだ」
「フン、ようやくあいつも親離れか。で、お前はどうすんだ」
「……今は独立の準備を手伝ってるけど、終わったら……」

 口籠るなまえの顔を見て、迷いなく俺は口にする。

「なら、もう俺んとこ来る準備しとけ。俺にも、お前に傍で支えてもらいてえことがある」

 それは何年も前から俺の中にあった構想だ。俺にとっては、一緒になって傍で支えてほしい人間はこいつただ一人だ。秘書や付き人に申し出る輩はごまんといたが、あいつ以外の他の誰でも嫌だった。
 俺の一番近い場所は、あいつのために取ってあるのだ。
 それ故に、何の迷いなく紡いだ言葉であったし、なまえも頷いてくれると確信していた、が。

「……あ、そのことなんだけど」
「あ?」
「轟くんの事務所でそのまま働かないかって言われてて」
「……だから、なんだ」
「独立後も、手伝おうかなって考えてるの」
「……なんで、それで半分野郎のほう選ぶんだ」

 俺の声色は、空気の色を変えて。それを察知したなまえがぐっと眉間に皺を寄せた。

「そんな。勝己くんと轟くんの事務所を並べて、選んでるわけじゃないよ」
「俺んとこじゃダメな理由はなんなんだよ」
「ダメなんかじゃないよ。でも、勝己くんは私がいなくても上手くやれるじゃん。今だって、そうじゃん」

 なまえの言葉はどうやら口を突いて出てしまったようで、言い終えた後になまえはひゅっと息を呑んだ。
 私がいなくても、上手くやれる、だと?
 まるで俺にとってお前が必要じゃない、重要じゃないみたいなその言い草は、びりびりと俺の中の何かを劈いた。

「……いい加減にしとけよ、なまえ。俺がどんだけお前のこと考えてるから分かんねえのかよ」
「分かる、分かるよ。すごく私のこと大事にしてくれてる。けど、それとこれとは別でしょ?」
「なにがだ」
「……最近、轟くんが変なの。なんか辛そうなの。私は昔から轟くんと兄弟同然に育ってきた幼なじみだし、放っておけないんだもん。私は勝己くんが好きだけど、それに轟くんを助けたいのとは関係ないでしょ?」

 そこまで聞いて、はっとする。
 俺と半分野郎はそもそも、同じ土俵にすら立っていなかったということだ。
 そうだ、なまえはそういう女だ。困ってるやつを捨て置くなんて絶対にできない。
 そんなこと、俺が一番、いや、下手したら半分野郎が一番知っていたはずだ。

「なあ、爆豪。お前に言うのも変だと思うんだけど、俺、あいつがいないと駄目なんだ。ごめん」

 それはなんの「ごめん」だ?
 半分野郎にあの言葉を言われたときのもやもやが、紐を解くように胸に落ちてくる。
 何年もかけて、決定的な言葉は一度も打たず。じわじわと皮膚を食い破られたような心地だ。
 そうまでしてこいつを手に入れたかったかよ。
 ぎりと奥歯が軋む。だが、苛立つ必要なんかない。
 お前が俺よりずっと前からあいつを想っていようが、俺には関係ない。てめえの心の中にも気付かずに俺にあいつを近づけたのが悪いし、何よりあいつが俺を選んだ。
 そう、何よりなまえが俺を選んだ。
 その事実を消してたまるか。消えるわけがない。漂うなにかを必死に掴むように、俺はなまえに問う。

「……俺が嫌だって言ったら、どうすんだ」

 なまえは数秒俺の瞳の奥を読んだあと、困ったように緩く笑う。

「言わないよ、勝己くんは。だって強いもん。今更、轟くんに嫉妬なんてしないでしょ」

 喉元に刃を突き立てられたような絶望感だ。吐き気にも嗚咽にも似ない何かが、体の奥から込み上げてくる。
 なまえは俺が好きだと言うが、恐らくもう、それでは意味がない。
 大事なものを入れた箱を抱えていたのに、いつの間にか中身はなくなっていた。たぶん、その時みてえな感情に酷似している。
 あいつになまえが必要かどうかなんか知ったこっちゃねえが、俺になまえが必要なのは紛れもない事実だ。
 ずっと前からここにあるのに、どうして気付かない。お前がいなければ溺れるのはあいつだけじゃない。
 俺だってお前なしじゃ、泳げない。
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