いくら陽ざしの麗らかな廊下で彼とすれ違っても、彼からは逃げ腰な視線しか寄越されないのだ。和泉守、と名前を呼べば、返事はしてくれる。毛先を少し振り乱して、早く用件をと言わんばかりに、柳眉を寄せた。

「なんでも、ないの。ごめんなさい」
「……はいよ。じゃあな」

 元よりこんな淡泊な性分ではなかったはずだった。風に遊ばれながら遠くなってゆく後ろ髪をぼんやりと見つめていた。ふいに、彼が振り向く。会話をするには遠すぎる距離を挟んで、視線が絡んだ。そしてそのまま、彼はまた視線を逃がしてしまった。



 彼との間に作られてしまった境には、ある折がきっかけとして、深く根付いている。
 まだ私は、彼らと関わり始めて半年。就任したての頃は、何かと面倒を見てくれたり、世話を焼いてくれたりした者もいた。今でも、世話好きの者はいるのだが。彼だって、確かそうだった。
 初めての演習で負け越した私は、自室に籠もってしとしとと泣いていた。早々と送られてきた戦績をぐしゃぐしゃに手の中で手折り、潰しながら。これ以上ないまでに丸めたそれを、悔しさに任せて背後に放り投げたら、いてえな、と素っ頓狂な声が返ってきたのだった。

「……誰、和泉守?」

 襖の僅かな隙間が広がって、彼の仏頂面が現れる。

「ああ、その……覗くつもりはなかったんだけどよ。通りがかったら、すすり泣く声が聞こえるじゃねえか。只事じゃねえんじゃねえかって。もうこんな仕事辞めてやるとか言ってたら、どうすっかと思った」
「違うの。こんな情けないところを見せて、ごめんなさい」
「別に、恥じるこたねえよ」

 和泉守は長い脚を折って、私がさっき放った、丸い球を拾い上げる。ゆっくりと広げていくらか視線を這わせれば、その口元に勝気な笑みを浮かべて見せた。

「あんた、負けず嫌いなんだな。いいことだと思うぜ。俺たちだってそんなもんだ。あんたはこれから俺たちと、強くなって行けばいいんだ。そうだろ」

 だから泣くなよ、と彼は私のところまで来て屈んで、その大きな手のひらで頭の丸みをなぞってくれた。

「あんたのためにもたくさん稽古しといてやるから、今度の演練には俺を連れてきな」
 しばらくして、その約束は果たされた。彼は本当に、みるみるうちに強くなっていて、しかも、それを口にすると「あんたのおかげだ」なんて言う。私は、私にできることしかしていない。彼を強くしてあげることなんか、私にはできないのに。



「見違えるように強くなったじゃない、あなたの刀たち。相当、努力したみたいね」
「は、はい。ありがとうございます!」
「あなたも、勿論、傍にいるあなたも」

 演習相手だった部隊を率いる上司はくすりと笑って、私の隣にいる和泉守を指さした。

「……人を指さすんじゃねえよ」
「和泉守!」
「大丈夫よ。和泉守兼定、あなたの気が短いのはよく知っているわ。うちにもいるもの」
「ごめんなさい」

 本当にいいのよ、と彼女は朗らかに笑った。あからさまに溜息を吐く和泉守の背中を強く叩けば、不承不承というふうに、すまんと呟く。そっぽを向いた横顔に、まだはらはらとさせられる。また怒り出さぬうちに、と私は頭を下げるけれど、彼女は物言いたげな視線を、いまだ私たちに落していた。僅かにぎらつく瞳の色に、誰かを思い出す。

「ねえ、あなた。もっと強くなれるんじゃないかしら」
「……え、はい」
「感じるもの。あなたはもっと強くなりたい。負けるのが嫌いなのね。見たところまだ就任して浅いようだけれど、もっと早く、強くなれる方法があれば、試してみたくはない?」

 顎をなぞる彼女の冷たい指先に、背筋が温度を失う。どこかに引き摺り落とされるような心地がして、思わず後退った。その喉元に、焼き付いたような丸い印が見える。これも誰かを思い出すような、既視感を掻き立てられるものだったのに、彼女は依然として笑みながら、装束で喉元を隠してしまう。

「……おいあんた、帰るぞ」
「ちょっと、和泉守」
「いいから、行くぞ」
「ご、ごめんなさい。また、宜しくお願いします!」

 和泉守に袖を強く引かれるまま、爪先を引き摺るように、その場を後にする。にこやかにこっちに手を振る彼女を、和泉守は二度と振り返らなかった。焦るように前後する彼の、たっぷりとした戦装束。濃い赤に映える金色の家紋を見て、ああ、さっきのあの人の印はこれだ、と合点した。

「和泉守、少しぐらい我慢してよ。上司なんだから」
「――あんなのはなぁ、ろくなもんじゃねえ」
「ちょっと……周りに聞こえるよ。どうしたの。そんなに怒るようなことだったかな」
「……あんたには、知らなくていいことがあんだ。あんたの経験が浅いからじゃねえ。ずっと、ずっとだ。知る必要なんかない」

 頑とした口調に、思わず気圧される。佇立する私を置いて、和泉守はすたすたと歩いて行ってしまった。慌てて追いかけた私に、和泉守は今までのようにろくに口を利いてくれず、それは今日までずっと続いていた。



 今日の戦に出す部隊を編成していた。文机に向かって唸る私に、一期一振は湯気をたたえるお茶を差し出す。この本丸に来てばかりの彼に早々に近侍を任せたというのに、何だってそつなくこなす。物腰柔らかで、忠実な刀だった。

「して、残りの一名はお決まりに? どの者でも良いのなら、私が」
「あなたは近侍をやってくれているから、できれば他の者で……と言っても、今日は演習だから、最近出ていない者かな。体が鈍るんでしょう?」
「はは、そうですな。でしたら……和泉守殿はいかがですか。私がここへ来てから戦装束姿をまだ目にしていないのは、彼ぐらいでしょうか」
「和泉守か……」

 あの日から、彼を演習に出していない。些かの不安を抱きつつも部隊長の欄に、和泉守兼定、と書き付けた。一期はやわく微笑みながら頷く。

「お決まりになって良かったですね。明朝の朝餉の際に、私から皆に伝えます」
「ありがとう、一期」
「例には及びません」

 彼は本当に、物腰柔らかで、忠実な刀だった。
 夜中に目を覚ましても、廊下の行灯は消えておらず、誰かの遠慮がちな咳払いが聞こえる。腰を下ろしたような高さの影。丸い頭。「一期?」と声を掛けると、少し慌てた声色で「申し訳ございません」と謝罪される。向こう側の影も、頭を垂れた。

「起こして、しまいましたか」
「ううん、目が覚めただけだけど……どうして」
「どうしてと言われましても。主殿がお休みの間も、主殿をお守りするのが私の役目ゆえ」
「夜は冷えるのに、駄目だよ。昼間だって、起きてるじゃない」
「主殿とは体のつくりが違うのです。ご心配なさらず」

 彼を窘めても、頑としてそこから立ち上がらなかった。最終的に私が折れたものの、落ち着いて眠りに戻れない。寝返りを何度も打ちながら、彼のためにも、近侍を近いうちに変更しようと思案していた。



「……以上が、主の決められた本日の演練の隊員です。部隊長は、和泉守兼定殿。よろしくお願い申し上げる」

 はーいと間延びした返事や、また俺は内番かよ、という落胆の声も上がる朝の広間。茶碗の上の沢庵を齧りながら、彼の姿を探した。大きな木目の食卓を、ずっと斜め向こうの方に六人目。朝餉が並んだというのに箸も茶碗も持たずに彼は、私を一瞥した。



「なんで、俺なんだ。あれからずっと演練には出さなかっただろ」

 久しぶりに、その声を浴びた気がした。逃げ腰な視線は変わらずに、私の肩のあたりや、もっと上の柱の木目あたりを見ていた。

「和泉守は、もう強いから……第一部隊を率いてもらった方が助かるの。最近は内番ばかり任せていたけど、久しぶりに出たいかなって思って。もし嫌なら、まず理由を聞くよ」
「嫌だなんて、一言も言ってねえ。あんたの気遣いはありがたい。いつだって、一人漏らさず俺らのことを一番に考えてくれてんだ」
「え……」
「なあ、あんた。強くなりてえか」

 ふっと、移ろう視線は姿を隠して、その双眸が私を射貫く。柄を握る彼の手に、力が込められたのが分かった。どうして気付かなかったのか、と思う。逃げ腰だなんて思っていた彼の瞳の色は、微塵も変わっちゃいない。その瞳でずっと何を見据えていたのかは、私が一番知っているべきだったのだ。

「強く、なりたいよ」
「俺もだ。俺も、あんたと強くなりてえ、もっとな。だからあんたは、俺が刀を抜いたら、目を逸らさないでくれ。それだけでいい、頼む」

 彼は鮮烈にそう言い残して、現実のそれと変わらない合戦場に、堂々たる足取りで向かって行った。
 演習相手の部隊はずらり六振り。奇遇なことに、隊長は和泉守兼定だった。脇に立つ女性を見て、はっと息を呑む。あの日の演習で、私に何かを唆すように言い寄ったその上司を、和泉守が見とめたのは分かった。その証拠に、誰より早く、刀身を露わにする。

「おやおや、相手の部隊長も自分だからって滾っちゃって。血の気が多いなぁ。全く……仕方ないね」

 にっかり青江は堪えきれないというふうに笑みを零しながら、彼の横に並んだ。
 激しい剣戟の中、浅葱を翻しながら果敢に自らを振るう和泉守は、これまでで最も逞しく、そしてどこか危うかった。その瞳に殺意が滲みそうなのには気付いたのに、彼の言う通り、彼から目が離せない。
 皆が倒れる寸前まで鍔迫り合いは続き、とうとう私たちの部隊は勝利した。大層嬉しそうに、上司は腕組みをしながら歩み寄ってきて、茫然とする私の顔を覗く。

「すごいわ、本当。降参よ。あなたもあなたの刀も、本当に努力家で、負けず嫌いなのね。驚いているところを見ると、まさか私に勝てるとまでは思っていなかったようだけれど。でも、ここで頭打ちなんじゃない?」
「今日は、ありがとうございました。けど……そんなことはありません。私も、皆も、もっと努力しますから……強くなります」
「……そうかしら。あなた、まだなんでしょ?」

 やはり、この女性は何かが変だ。私を誘惑して引き摺り下ろすような、不気味な麗しさ。和泉守が以前、この人に異常に嫌悪を示したのも、これゆえなのかもしれない。ふとあの、喉元に刻まれた紋を思い出して、不躾な視線を寄越してしまう。巴を分け合う、威厳を孕んだ和泉守兼定の家紋。あの日とは違って、惜し気もなくそれは晒されていた。

「あなたは一体、何の話を……」

 不快感が喉の奥で毛羽立った。体のいずこかに家紋の刻まれた審神者が稀にいるのだと、どこかで耳に挟んだことがある。それが何を表すのかも、思い出した。
 刀剣との禁忌を我欲のために犯した彼女は、咎人だ。三つ巴の紋が私を焦がすように熱を持って、訴えかけてくるような心地がして、喉が詰まる。
 途端、私の奥襟を背後から誰かが引っ掴んだ。ぶっきらぼうな手付きには覚えがあった。

「……おい、帰るぞ」
「ふふ、この光景、デジャビュだわ」

 手を叩いて笑う彼女に、和泉守はぴたりと足を止める。

「あなた、大事にされているのね。けど私、それが必ずしも正しいとは思わないのよ」
「だから、何の話ですか」
「彼に、聞いてみたらどうかしら」

 唇に蠱惑的な弧を描き、彼女は和泉守を指さす。和泉守は歯を食いしばったものの、そのまま何も物言わず、私を引っ張って歩き出した。まだぜえぜえと荒れた呼吸。頬に付いた血を拭う拳。私を引く力強さが、彼は何かを知っているということを、私に分からせた。
 辿り着いた裏庭に敷かれた小石。じゃりじゃりと鬱陶しく足に絡みついて、やっと和泉守を止めてくれる。くるりと振り返った彼の傷は、出陣で受ける傷とは違い、早々に完治していた。艶やかな髪がしな垂れて、地面にカーブを作る。腰の高さに跪いた彼に、私は言葉を失ってしまった。

「い、和泉守……」
「あんた、見ただろ」

 彼の声が、私の弱々しい声を食う。

「何を……」
「戦う俺をだ。見ただろ、分かっただろ。あんたがいてくれれば、それだけで。俺たちはこれからもずっと、強くなり続けられんだ。なあ、あんたの下で戦うことが、何よりも幸せなんだ。他に何がいる」

 言い聞かせるような口調が、徐々に、尻すぼんでゆく。掴んだままの私の手を、ゆっくりと彼は、その滑らかな頬にあてがった。私の手を包む、遥かに大きなその手が、微かに震えているのに気付いて、ぎょっとする。眉が歪んで、いつもの勝気は息を潜めていた。

「ずっとそれが、怖かったの?」
「いや、って言ったら嘘になる。けど、俺を見て分かってくれればそれでいい。その為の努力はしてきたつもりだ。――なあ、そのままでいてくれよ。綺麗なままで。誰のものにもならねえ、今のあんたでいてくれ」

 そうしてそのまま手の甲の平らに、彼は噛み付くような口付け一つだけを落とした。何より深く、何より切実な懇願を、そこに知らしめる和泉守の温かさ。
 あの女の声が語りかけてくる。私は確かに大事にされて、私も彼らが大事だった。そこに他の何が、必要か。和泉守の透いた真っすぐな瞳が、私の中で何よりも正しい。
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