池の中で息を潜める鯉。揺らめく尾を辿りながら、水面に手を当てた。


「冷たいのね」


冬の池はひたすら冷たい。この鯉たちは果たして冬を越えられるのだろうか。
…最も、そんなこと私には関係ないけれど。


「…名、此処に居ったか」

「武田さま、…ごめんなさい。探しましたか?」


屋敷の中にぽかりと誂えられた池。元は私が我が儘を言って作っていただいたもの。
此処は私の場所だから、ある程度は自由。それでも一応お伺いを立てるのは当然のこと。


「いや、かまわぬ。それにしても、おぬしは本当にこの池が気に入りじゃな」

「…えぇ、池の底を見ていると、安心するんです」


武田さまは私の旦那様。勿論正室なんて立派なものではない。
子を産ませるためでなく私を飼い慣らす武田さまの本心はわからないけれど、正室でも側室でも町娘でも、どんな立場でもきっと結果は変わらなかった。


「池の底、か」

「赤や白の背と尾が揺らいで、とても綺麗」


水面に浸したままの指先には既に感覚がない。武田さまはそれに気づいたのか、私の手首を掴んでそれを自らの両手で包んだ。


「…すっかり、冷えておるではないか」

「ごめんなさい、でも、落ち着くんです」


冷えきった手にじわりと沁みていく体温。武田さまは私に、無理に子を産ませようとは思っていないし、無理に子を作らせようともしなかった。
けれど、回数は少なくともそういう行為をしていれば子を成すこともある。


「一人の身体ではないのだ。…大事にせい」

「はい…」


子を産ませる気がなかったせよ、子ができれば嬉しいらしい。全く、世の男は不可解だ。

ある男は「儂は子を産ませるためにおぬしを側室に召し上げたわけではない」と言い、
ある男は「某は、…お館様ならば名殿を幸せにして下さると、信じています」と言い、
ある男は「名ちゃんは、本当はどっちが好きなのさ」と言った。


「…そういえば、池の底が浅いな」

「あら、お気づきになりました?」

「鯉の背がよく見える」

「えぇ、冬は寒いでしょうから、少しでも身を隠して寒さを避けられるように、岩を沈めたのです」


何匹かの鯉は物陰に隠れて見えない。池の底は冷たいだろうから、きっとその陰が鯉たちを温めてくれるだろう。


「…おぬし、最近幸村を見なかったか」

「…いいえ?………幸村さまが、どうかなさったのですか」


武田さまは私の手を握ったまま。
僅かに震えた肩に気づかれていなければいい、と願ったのに、武田さまは眉根を寄せて手を握る力を強めた。


「…幸村に、逢いたいか」

「…いえ、私は武田さまの側室ですもの。どうして他の男性に逢いたい等と思いますか」


すっかり体温を取り戻した手で武田さまの大きな手を握る。武田さまは一度表情を強ばらせて、そして笑ってくれた。


「幸村には、やらぬ」

「光栄ですわ…私も、この子も」


まだ膨らみのない腹の中、小さな命の父親は一体誰でしょう。
例え二日続けて違う男性に抱かれたとして、……本当に、父親は誰かしら。


「子も産まれることだ、…どうじゃ、城へ来ぬか」

「いえ、私は、…此処に居たいのです」


もし産まれた子供が男児であったなら、もういない幸村の代わりに六文銭を首に下げてあげようか、…父親が誰だか、わからないんだもの、それくらい許されるかもしれない。


「これまで通りに佐助をたまに寄越す」

「…そういえば、佐助さまが言ってましたね。…幸村さま、行方知れずなのですって?」


優秀な忍を以てしても見つからない姿と足取り。隠した相手も忍だったら、図らずも実力比べになるかしら。


「あぁ…、探させておるが…」

「…大丈夫、きっと、見つかりますわ」


そう、きっと見つかるわ。それが、武田さまが生きている内か、私が生きている内かはわからないけれど。でも夕日色の髪をした優秀な忍は、もしかしたら私が生きている内に見つけるかもしれない。


「…そうじゃな、では、儂は城へ戻るが何かあったら直ぐに佐助に伝えよ」

「お計らい、ありがとうございます。道中お気をつけて」


私の手を解放した武田さまが、供を連れて私に背を向けるのをぼんやり見つめながら、私はもう一度、呟いた。


「…………ここに、いたい」


武田さまはそんな独白に振り向いて、困ったように「わかっておる」と笑い、そして屋敷を去って行った。


私はここを離れるわけにはいかないの。この池は私のお気に入りなのよ、だって、





此処に、遺体






いっそ私も、彼を殺したあの日のように、岩を抱いて沈んでしまおうか。


「冷たい水底では、炎も見えないわね…」


あぁ、なんて、愛しい温度。
水面に再び戻した指先で水紋を描けば、腹の中で命が身動いだ気がした。



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