名が殊更お気に入りのショップの一番手であるバスキューブと、薄いプラスチックバックに開いた携帯を入れた物とを抱えて狭くもなく広くもない、白いタイルが眩しいバスルームへと飛び込んだのは、リビングの壁掛け時計で丁度長針と短針が天辺で重なる時間のことだった。

窓の外は暗く、星も月も誰に褒められることも望まずに輝いている。そんな静かな空間に名はシャワーのコックをひねって半ば乱暴とも言える手つきでその髪の毛を泡立たせる。

いつも通りにバスルームに広がる香り。それは毎晩、時には朝にも名の心を穏やかにするものであったし、その身体をほぐすものでもあった。

それが今日に限って、名は普段なら念入りに時間を取るトリートメントの浸透具合に気を遣うこともなく、塗り付けただけのそれを温かなお湯で流してしまう。

排水溝に吸い込まれていくぬるりとした水に脚の指の先が触れる。足の爪には丁寧なネイルカラーが乗せられて、バスルームの天井で事の次第を見守る球状の電気に照らされている。

名は髪の水分を軽く両手で搾り取ると、何となしに足の爪に触れてみた。
透き通るようなボルドーカラーで染め上げられたその爪は彼女自慢のものである。

元々彼女の恋人である片倉小十郎という男が、彼女のバースデイプレゼントにと差し出した、ピンクゴールドの縁に良く合うロードライトが控えめに嵌め込まれたピアスのお供として名の手中に舞い込んできたものだ。


その晩、彼女は早速その有名店のネイルカラーの小瓶を手に取り、ソファで格闘すること30分。
それでもなかなか思うようには塗れない彼女に、彼はとうとう助け舟を出したのだった。
ソファに座る彼女の足元、まるで彼女に跪くような形で片膝を立て、その膝の上に彼女の足裏を収めた彼。
情けなく片眉をさげてうろたえる彼女なんて見えていないような飄々とした顔で、彼はそのネイルカラーで丁寧に彼女の爪先を染め上げたのだ。


彼女はその晩の事をなるべく詳細に思い出しながら、泡立てたスポンジで身体を洗っていく。
その耳たぶで華奢なデザインのピアスが揺れるが、それは決して件の幸福を写し取るようなボルドーカラーではない。

身体も洗ってシャワーで流すと、彼女はバスキューブの包装を乱雑に破り、バスタブへと投げ入れた。
ゆっくりと立ち込める香りに小さく鼻を鳴らして、熱くなる目頭を隠すようにバスタブに身体を沈めた。


「…小十郎の、ばか」


彼が彼女にプレゼントしたピアスもネイルカラーも、彼女に似合っていた。
どんな服装にも彼女はそのアクセサリーを頑なにはずそうとはしなかった。それくらい、気に入っていたものだったのだ。

彼女がその大切なピアスを失くした、と彼に打ち明けたとき、彼は普段どおりの表情で「…なんだ、そんなことか」とため息を吐いた。
それは少なからず彼女の心に傷をつけ、そして今に至る。

リビングでは彼女の心中を図りかねているであろう男が、不機嫌な表情で彼女の帰還を待っているはずだ。

彼女は自分を訝しげに見つめる彼の視線を思い出し、そんな瑣末な怒りを手のひらで水面を弾くことで緩和しようとした。


「…どこ、いっちゃったの」


耳たぶに光るピアスを指先でいじりながら一人ごちる彼女の頭の中では、もう何度繰り返したかわからない自分の行動記録が読み返される。

しかし何度その記憶を細かく思い出そうとしても、なくしたであろうと弾き出される場所は既に確認した場所でもある。


探し物とは、えてして忘れた頃に発見されるものらしい。彼女が泣きそうな表情で相談を持ちかけた人間は、皆口を揃えてそう言った。
中には「同じモン買えばいいじゃねぇか」等とのたまうデリカシーの欠片もない男もいたが、それはそれである。
彼女にとって、同じものは存在しないのだ。同じ石を使っていても、同じデザインであっても、だ。

彼女の心を捉えて離さなかったのは、ボルドーが美しいだけのピアスではなく、片倉小十郎という人物が彼女の為に選んで購入したという付加価値なのであった。


「…名、出て来い」


本来ならばささやかでも、窘められる側であるはずの彼女だったが、彼女にとっての価値と彼にとっての価値は違うものだったらしい、というその事実に彼女は打ちひしがれている。

それならば、このバスルームの扉を簡単に開く理由は最早、皆無なのだ。


「俺が悪かったよ」


さて、彼女の価値観と彼の価値観が違う、と感じたのは、誰だといっただろうか。
確かにそれは事実として認識された。

ただ、場合によっては、である。

例えば、彼女がとてつもなく思いつめた表情で彼の前に座り、
例えば、彼女がそれを告げるのに多大なる時間をかけたとする。
そうすれば目の前の男の心中をよぎるのは、悪い予感でしかないわけだ。
そして、
例えば、彼女がそれを告げようと口を開く、
例えば、彼女がその言葉を言う前に思わず涙をこぼす。
そうすれば目の前の男の心中に渦巻いていた疑念は確信に変わるわけだ。


つまり、


「お前があのピアスを大事にしていたことはわかってる。ただ、あん時の俺は、別れ話じゃなかったことに安心しただけなんだ」


湯船の底では、まるで作り物のようなボルドーカラーが10、並んで水面に揺れている。

彼女はそして、ぱたぱたと涙を零しながら、篭城を決め込んでいたバスルームの鍵をあけたのだった。


「…ごめんなさい」

「いい。…頼むから、泣くな」




瑣末な結論





件のピアスが、彼の部屋のベッド隣、小さなサイドテーブルの上の、避妊具の入った箱の上に並んでいることを二人が知るのに、あと僅か。


by six.



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