手を繋ぐことに必要だった勇気。
それよりもずっと勇気が必要なこと。
まさか、その手を離すために、こんなに勇気が必要だったなんて。
「…ただいま」
いつも通り、二人分の靴が整然と並ぶ玄関先から声を掛ける。
勿論返事なんて返ってこないし、期待しているわけでもない。
いつからか二人でいることが当たり前になって、
そして二人でいることが当たり前になりすぎて。
がらんとしたマンションの一室。
同じベッドで眠っていた頃はひとつだった、二人で抱き合うには少し狭いシングルサイズのベッド。
今では二人別々の部屋で、別々のベッドで眠る。
二人でいる意味を考え始めたのはいつからだっただろう。
最近になってようやく、「意味を考えないと繋がっていられない程の希薄な関係に成り下がってしまった」んだと気付いた。
「もう、戻れないのに」
一番最近会ったのはいつだった?
一番最近に話したのは、触れ合ったのはいつだった?
自分に問いかけて、そして答えを出すことが怖くなる。
思い出さないと思い出せない記憶の欠片。
それを拾い集めることが、何を意味するのか。
同じ道を歩んで生きたいと願った。
同じ未来を見つめていると信じた。
もう、その目が同じものを見ることはない。
もう、この足が同じ道を歩むことはない。
ノックもせずに彼の部屋の扉をあける。
しわくちゃの、ベッドの上の布団。
スチール製のデスクの上には、読みかけの本と冷たいコーヒーがうっすら残るマグカップ。
お揃いで買い揃えた一対の食器を思う。
マグカップもそのひとつだった。
いつの間にか彼のマグカップは割れて、そして新しいものが食器棚からちぐはぐな表情を覗かせて。
本の上に、いつか彼からもらった指輪を置く。
銀色のリング。
私をずっと支えていてくれたお守りだった。
部屋を出て扉を閉める。
自分の部屋へ駆け込んで、クローゼットの中からスーツケースを取り出す。
最低限のものが詰め込まれたそれは、この場所で彼と過ごした思い出に比例するようにずしりと重い。
部屋の扉に手を掛けて、一度深く頭を下げた。
「ありがとう」と「ごめんなさい」をありったけ詰め込んで。
「愛してる」
嘘じゃない。
「愛してた」
嘘じゃ、ない。
手紙なんて残していってあげない。
でも、だって、貴方ならわかるでしょう?
もうあの頃みたいに笑い合えない事、理解し合えない事、戻れないこと。
「さようなら…幸村」
玄関の鍵を締めて、鍵をポストから中に落とす。
カラン、と乾いた音が高く響いて、今度こそ私はマンションの前で涙を零してしまった。
夢見たあとで
(また、いつか)
早くこの場から逃げ出したいのに。
早くこの場から去らなければいけないのに。
どうしてだろう、足が、動いてくれないの。
by six.