「今晩はシチューです」そんな簡潔な一文が手元の携帯に投げ込まれたのを見るなり、小十郎は今ここがオフィスであり、スーツに身を固めた人目が多いこともうっかり失念して思わずくすりと笑みを零した。

最近は双方の仕事が皮肉にも順調なこともあり、同じ空間に暮らしているというのにすれ違いの生活を続けていたのだからそれも仕方ない、そう彼は自身に言い訳をして空咳を一度零してから目の前の液晶に並ぶ数字に向き合った。

そういえば今日で大きな仕事が片付くのだと、目の下にしっかりとクマを携えてため息を吐いた彼女を目の前にしたのは今朝だったか、彼は目で数字の羅列を追いキーボードを叩きながらも、思考が彼女の元へ飛んでいくのを甘受しながら、マウスの隣で湯気をたてるマグカップを手に取る。

黒々としたその表面が微かに揺れる様をちらりと一瞥して、口の中へ流し込む。
広がる苦味は彼女が淹れるコーヒーとは全くといっていいほど違う。
彼女の好むコーヒーは殊更に苦い。彼はなんとなしに彼女に罪悪感を感じながら、コーヒーとはかくあるべきだ、と言わんばかりに手の中のコーヒーを一気に飲み干して新たなコーヒーを求める。


今朝飲んだコーヒーもそれはそれは苦いものだった。
カラーコードで表すならそれは誰が見ても000000という数字の羅列だと言うだろう。
それくらい濃いコーヒーをたっぷりの時間をかけて嚥下する彼女の朝は、当然ながら早い。

彼自身寝起きのよさには自信を持っているのだが、彼女のそれは彼とは全く別次元にあるらしい。
男と女とでは明らかに朝、準備に要する時間が違う。
彼もそれは理解しているのだが、例えば夜に散々彼女を蹂躙したとして、それでも起きるのは彼女が先であるという事実。
少なからずその事実は彼のプライドを傷つけるものであった。


一文を確認した後すぐに閉じた携帯を、業務中にもかかわらず堂々と開いてデスクの脇に置く。


彼女は朝起きるとまずシャワーを浴びる。そしてキッチンでコーヒーの準備を。コーヒーが落ちるまでの間に着替えを済ませ、彼を起こす。
毎朝のルーティンワークは一緒に暮らさないかと彼女に提案した朝から何一つ変わっていない。

自分も仕事で疲れているだろうに、毎朝きちんと彼好みの、というより彼の胃がその朝欲しているものを的確に当ててみせる彼女に心の中で軽く謝意を述べてみせる。

特筆すべきは彼がそんなことに思考をやっている間も、その指先は一切の淀みなく定例会議に必要な書類を作成しているという事だろうか。


注がれた二杯目のコーヒーを口に含む。
それを持ってきた女性社員に軽く手を上げて礼をし、ごくりと飲み込む。
そこで彼は彼らしくもないため息を吐いてしまった。


「Hey,小十郎。ため息なんざついてどうしたんだ?」

「いえ、…薄いな、と思いまして」


突如頭上から降ってきた声にも動じずキーボードを叩く横顔。それに対してなんとも言えない気分にさせられたのは、今しがた彼に向かって声をかけたこのオフィスのトップであった。


「…そりゃ、あのコーヒー毎日飲んでりゃな」


些か辟易したような声音で投げつけたその年若い男に、彼はとうとう喉を鳴らして笑ってしまった。


「…失礼致しました」

「…全くだ」


オフィスの双璧が話をしている光景はさほど珍しいものではない。それでも今この二人が視線を集めるのは、ひとえに二人ともがさも楽しそうに笑っているためだろう。
それでもやはり彼の指先は淀みなく、彼の目の前の画面に並ぶ数字やデータを目で追う男の視線も淀みない。

以前この男を自宅でのディナーに招待したときのこと、食後に彼女が差し出したコーヒーもまた#000000のブラックコーヒーだった。

普段ならテーブルに出すこともない温められたミルクと角砂糖が珍しくその役割を果たしていたことだけが、彼女が男に対して気遣った証拠だといえるだろう。
それでもやはり苦いものは苦い。男は一口、そのまま口に含んだ後無言でミルクと角砂糖とを普段ならありえない程投入した。

少しばかり彼女を咎めるつもりで彼はそちらに視線をやったのだが、彼女もまたバツの悪そうな表情を浮かべていたためにそれ以上咎めることこともできず、事の次第を傍観したのは他ならぬ自分。

彼は長い時間をかけてようやく少し慣れてきたその苦味を喉奥に流し込みながら、人知れずため息を吐いた。


恐らく今晩もシチューを食べた後にはあのコーヒーが出てくるんだろう。
そう思うと、マウスの隣に戻されたマグカップの中身がこれ以上減る要素は見当たらなくなってしまう。

その気配に気付いたのか男がマグカップを取り上げて一気に飲み干して、ニヤリとシニカルな笑みを浮かべる。


「それ、終わったら帰っていいぜ」


それ、と男が指したのはもう既に残すところ一項目となったデータの羅列。彼がそれを埋めるのを見届けて、男は背中を向けた。

全くよくできた男である。彼は無意識か意識的にか片眉を下げ、立ち上がると同時にチェアの背に掛けたジャケットを羽織る。

デスクの脇に鎮座する携帯を拾い上げて閉じ、ジャケットの胸ポケットに滑り込ませ荷物をまとめる彼の頭の中。

彼はこれから自宅で待っているだろう温かな夕食と、大仕事から開放され少しだけ気の抜けた笑みを浮かべる婚約者を思い出す。


食後に出てくる#000000のコーヒーに合うような、とびきり甘いケーキでも買っていこうか。彼がスキップでもしたい気分でオフィスを後にしたことは、恐らく誰も知らない。






Bitter Story





「お帰りなさい」

「あぁ、…これ、土産だ」

「ケーキ?珍しい」

「たまにはいいだろ」

「そうね。…あ、そういえば一昨日この近くにエスプレッソのおいしいお店がオープンしたみたいなの。次の休みに行かない?」


にこにこと白いボックスを抱えて言う彼女。彼は靴を脱ぎながら思案顔を浮かべた。
恐らく苦い話題を緩和する甘味なんて、彼の笑顔くらいしかないだろう。


「…お前の淹れるコーヒーで充分だ」


リビングからは温かな香りが漂っている。


by six.



第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -