「聞こえるかい?」

「鬨の声ですね」


近くもなく遠くもない場所で、私たちに関係のない戦の始まりを告げる鬨の声。
眼前に座す線の細い男は至極穏やかな表情を崩すことなく、手元の湯飲みを呷った。


「お酒でも用意しましょう」

「そうだね。…君も一緒に」


胸を患った男と、脚を患った女。
叱咤すればまだ他の人間と同じく、またはそれ以上に働くことのできる身体をしばし休めよう、と誘われた静かな庵。

豊臣様が竜の牙に倒れた報せを聞いたとき、私は怒りも歯がゆさも感じなかった。
ただ一つ、当然だ、と思った。
あの竜は強い。自らを強くするものが何であるかを理解している。
それは人に伝え聞いた彼の生い立ちにあるのかもしれないが、それは豊臣様が恐怖を感じて討ち捨てたものだった。


「胸の調子は如何です?」

「悪くはないかな。君の脚は?」

「もう大分」


盃に注ぎ込む透き通った芳醇な香り。
男はその細く白い指先で盃を取り上げると、一つ口内へと流し込んだ。


「今は、どこも力を蓄えている時期だ」

「ではあの鬨の声は取るに足らぬ戦ですね」

「そうだね」


彼の手にある盃と対になる盃を畳みの上に置いたまま、私はなんとなしに酒のたっぷり詰まった瓶子を傾けようと両手を添えた。
しかし、その瓶子は彼の手により柔らかに奪い取られ、代わりに彼は私に盃を手に持てと視線だけで告げる。

素直に盃を手に取れば、彼が酒を注いでくれる。


「あ、ありがとうございます」

「…そんなに恐縮しないでくれ」


彼の手を煩わせることをこれまでに頑なに避けていたと言うのに、彼はそれが毎回気に入らないらしくたまにこうして私から奪う。
一度それを咎めた事があったけれど、彼は少し不機嫌を滲ませた表情で「これくらいはさせてくれないかい?」とため息混じりに答えた。


「…冬が終わったら、再び乱世に戻るのでしょうね」


コホンと小さく咳払いをしたのは、一瞬で二人を包んだ不思議な空気を払拭するため。
わかりやすく元に戻した話題に、彼は盃を一息に呷って、空のそれを畳に置いた。


「君には…敵わないね」

「…何の話です?」

「僕にも、少しは好機をくれてもいいだろう」


困ったような顔の彼。


「竹中様」


彼の指が私の手の中の盃を奪い取り、そしてまた一息に呷る。
「さすがにその飲み方は、」と声をかけようと開いた口は、すげなく彼の唇に塞がれてしまった。


「ん!」


口内に広がる芳醇な酒の香り。
それを味わうようにぬるりと歯列をなぞったのが彼の舌であったと理解するのに、さほど時間は掛からなかった。


「二人で、しばし身体を休めよう、と僕は言ったね」

「は、はい…?」

「その誘いに、君は"喜んでお供します"と答えた」

「はい…?」

「僕はね、君がこんなに鈍感だと思っていなかったよ」


ふうと零れたため息は明らかな落胆を含んでいる。


「えっと、竹中様?」

「…なんだい?」

「……このお酒、おいしいですね」


何を言えばいいのかわからず、とりあえず空気に似つかわしくないへらりとした笑みを浮かべて言った私に、彼は今日何度目かわからないため息を盛大に吐いて答える。


「…僕はね、女中が欲しくて君を誘ったわけではないんだよ」

「はぁ、」

「ここまでは、わかるね?」


幼子に言い聞かせるように優しく確認する彼の声色に頷けば、彼は片眉を器用に下げて、私の盃を畳の上、自分の盃の隣に収めた。


「秀吉はもう天下を目指せない」

「…そうですね」

「ならば僕は、君を守るために生きよう」


彼の指先が私の顎を、まるで猫を愛でるように辿る。
彼の眼差しに込められた熱量に気付かないほどの淡白な時間を重ねてきたわけではない。


「…仮面を、はずしていただけませんか」

「…それは、了承と取るよ」


初めて重ねた彼の手のひらは、ひたすらに熱かった。





優しいなまえ





「竹中様」

「…なんだい?」

「えっと、この体勢は?というか、近いですってどこ触ってるんですか!」

「……少し黙ってくれないか」



by six.



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