「ちょいと、名ちゃん」
「なあに?猿飛さん」
背後にぴったりとくっつくようにして耳元で囁く低い声。
割り切っているのか飄々とした態度は声に表われるんだなぁなんてどうでもいいことをぼんやりと思いながら、もう何度目かわからない小さな襲撃にため息と共に答えた。
「今、目の前にいる行商、知ってる?」
「ああ、なんでも上方から来たらしいですよ」
「そうなの?…通りで見たことないと思った」
…この人は、行商の顔ですら覚えているのだろうか。
それはもはや感嘆を通り越して恐怖すら覚えるほど。
「でも、その割には訛りがないんですよねぇ」
その行商と話したのは昨日のこと。
「お嬢さん、この簪どうだい?」と声を掛けられたのがきっかけだったんだけど、あの人はあたしが甲斐の忍と知り合いだなんて欠片も思ってなかったんだろうな、なんてまたどうでもいいことを考えた。
「…怪しいね」
「そうですねぇ」
あ、この顔だ。猿飛さんはいくつもの表情を持っている。真剣な表情はあまりお目にかかったことはないけれど、たまにこういうとき、周囲の目も気にせずに殺気を顕にする。
そのただならぬ気配に気づいたのか、目の前の行商が顔を上げてキョロキョロと周囲を伺う素振りを見せた。
「…当たり、かな」
「ですかねぇ」
常人ならば気づかないのだろう。いつ戦があってもおかしくないこの乱世だけれど、農民や商人には少し縁遠い殺気という人の気配。
その気配に気付くその行商は、恐らくただの行商ではないのだろう。
ただの商家の生まれであるあたしにはそれ以上のことは何一つわからないけれど、変わらずにあたしの後ろに佇む猿飛さんは、目線だけでその行商人の頭の先から爪先までを吟味するように見つめる。
「ちょっと、マズイかな」
「なにが、」
なにがですか、と彼を振り向こうとした瞬間、あたしの身体は彼の手に寄って後ろへと引き寄せられた。
思わず身構えた身体とは裏腹に、あたしの背中は彼の胸へと収まる。
どくんどくんと高鳴る心臓が忌々しい。
何か文句のひとつでも言ってやりたいのに、ただのひとつも口から出ることなく、あたしは彼の腕に抱えられたまま酸欠の金魚のように口をパクパクさせるだけ。
免疫がないって悲しい!
そんなあたしの無言の抵抗に気付いたのか、あたしの目線の上から見下ろす猿飛さんは少しだけ困ったような表情で、再び耳元で囁く。
「ごめんね、ちょっと小芝居に付き合って」
え、と声を上げる間もなく目線だけを目の前の行商人に移せば、その男は真っ直ぐにあたしたちをみつめていた。
あたしと目が合えば、わざとらしくにっこりと笑ってみせる。
背後でにこやかな笑みを浮かべる猿飛さんは、諜報用なのか商人と見まごう格好をしている。
橙の髪色はどんな塗料を使ったのか真っ黒に染め上げられて、あたしだってこんな猿飛さん、一度見かけただけだったらそうとは知らずに通り過ぎてしまいそうだ。
彼は「あれ、似合いそうだよ」なんて本当にどうでもいいことを口にしながら、行商人が足元に広げる風呂敷の上に並ぶ簪を指差して言う。
え、え、と狼狽するあたしに猿飛さんが困ったように笑って、「興味ない?」と言う。あたしは「まさか!」と答えて、あたしの肩を行商人のほうへ押す彼の手に従って足を進めた。
「らっしゃい」
本当にこの男は先ほど殺気を警戒していた人間だろうか、そう思うほど爽やかな笑みであたしたち二人に声をかける行商人。
でも、考えてみればあたしだって商売のときはそれなりに営業用対応をするわけだし、これはこれで当然なのかも。そんな気の抜けたことをぼんやりと思いながら、小さく背後からあたしを抱きしめるかたちの彼を仰ぎ見る。
「そんな顔しないの。ほら、これなんか似合いそう」
「兄ちゃん目が高いねぇ!それは南蛮から今朝届いたばかりの一品なんだよ」
行商人が手に取ったのは、柔らかな緑を映した石がいくつか銀細工にぶらさがる華奢な簪。
「…きれい。翡翠?」
「こりゃ驚いた!お嬢さんも目利きだねぇ」
あたしの家は代々続く商家だ。城下の郭御用達の呉服店であり、またその着物によく似合う小間物も扱っている。町人向けの着物も安価で並べているし、言わば大店。
銀細工の小物も珍しい石の小物も一通りみたことがある。
行商人の手におさまるうつくしい形の簪を見た後に、その足元の簪に目を遣る。
しかし、恐らく本物は今彼の手にある簪と合わせて3つほどしかないだろう。
真贋入り乱れて、と言うにはあまりにもお粗末過ぎる。
「それ、貰うよ」
「へい、毎度!」
あたしの物色するような視線に気付いたのだろうか、背後の男は簡単に売買の契約を結び、懐からお釣りが出るほどの金子を行商人に押し付けた。
「釣りはいらねぇよ」
「太っ腹だねぇ!」
背後の男の手のひらに銀細工の簪が収まる。それは彼の手に依ってあたしのまとめられた髪へと飾られた。
「ほら、似合う」
にっこりと笑う彼。一瞬どくんと心臓が跳ねたけれど、彼はあくまでも仕事中であって、この行商人を探るために接触しただけで。
「あ、ありがとう…」
それでもなんの邪気も感じられない彼の笑顔に、少しだけ熱くなった顔を隠すように俯いて返事をすれば、行商人は「仲良いねぇ!こっちが火傷しちまいそうだ」なんて、見当違いのことを大げさに言ってみせた。
これから自分がどうなってしまうのかもわからずに。
行商人に背を向けて、ひとまず、とあたしの家へと歩く道すがら。
あたしの肩を抱いて歩く彼はずっと真剣な表情をしていた。
「猿飛さん、あの、この簪」
「んー?うん。似合うね」
「ありがとう、…じゃなくて!」
「え、なに?」
「お返しします!」
「…なんで?気に入らなかった?」
「取り替えてもらう?」なんて、彼は少し驚いたような表情を浮かべる。
この簪を買ったお金は猿飛さんが命と引き換えに手に入れたお金で、あたしなんかに使っていいものじゃないはずだ。
「えっと、じゃあうちの店で買い取ります!」
「なんでよ、俺様、名ちゃんにあげたのに」
「それは本物だったしね」と、そう笑う彼。段々と家が近づいてくる。店の中でそろばんを弾いていた父と目が合えば、父は至極満足そうに笑った。
「あの行商、」
「あぁ、残念ながら今夜にも始末しなきゃなぁ」
なんでもないような顔をして笑う彼。あたしは彼にかける言葉が見つからない。
そうこうしている内に着いてしまった家からは、父がひょこひょこと機嫌を伺うように足取り軽く出てきた。
「そんないい簪をポンと与えてくださるなんて」と大げさに驚嘆しながらへらへらと笑う父。
さっきはあの行商人に抱いた不信感だったけれど、商売人と言うものは総じて大げさな立ち居振る舞いになってしまうらしい。
「あ、えと、ちがくて」
「余りにも似合うものだから、買わないと簪がかわいそうだったんですよ」
父に対してあたしが弁解しながら簪をはずそうと伸ばした手、そしてそれと同時にその手を諌めるように押さえた彼の大きな手と、台詞。
固まってしまったあたしに、彼は悪戯に笑って見せた。
あふれ出した MUSIC
「これで嫁き遅れる心配もなくなったなぁ!」
あたしの心中なんておかまいなくご機嫌に笑う父。
「そうですね、近々正式にご挨拶に参ります」
にこやかに笑う彼。
頭の上では翡翠がきらきら、しゃらんと軽やかな音を立てている。
(…どこまでが小芝居なの?)
そんな疑問は、当分拭い去れそうにない。
by six.