「あいしてるのよ」


目の前で、白い布団に横たわったまま彼女は吐き捨てるようにそう呟いた。
ともすれば俺に届く前に消えてしまいそうなほど細い声。
いつも潤っていた唇はすっかり潤いと血の気を失くし、布団の上で祈るように重ねられた手は白くて冷たい。


「…包帯、変えるぜ」

「いらないわ。もったいないもの」


彼女は俺を見ない。ただ真っ直ぐに天井を見つめる。
その表情は硬く、それでいて凛とした美しさを湛えるが見方を変えれば諦めているようにも見えた。


「…ンなこと言うんじねェよ」


彼女の身体を隠す白い布団の上掛けを握る手に、一度力を込めて、今度は優しく捲る。
そこに現れたのは、包帯から滲んで布団の白をこれでもかと言うほど汚す赤だった。
紅色は少しずつ周りから赤褐色に変わっている。

俺はもう一度、握る布団に力を込めた。


「…ふとん、かけて」

「…包帯を」

「すぐに、梵天丸様がいらっしゃるわ」


人の気配に敏感な彼女は、この期に及んでまだその力を発揮している。
こんな時ぐれぇ気を抜いたっていいだろう、そんな言葉が喉までせり上がって、そしてごくりと飲み込む。

俺は為す術なく布団を彼女の言うとおりに掛けなおし、姿勢を正した。
その機会を丁度図ったように、すらり、と手入れの行き届いた襖から現われた梵天丸様。
彼女はゆっくりと彼を振り向き、そして微かに微笑んで見せた。


「そんな顔を、しないで」


慈悲深い笑みを浮かべて、困ったように笑う彼女。
先ほどまでとは違う、しっかりした言葉運び。
彼女は強い人間だ。そして、優しい人間だ。


「名、」

「貴方は、これから強くならなくちゃいけない」

「、はい」

「他の誰にも、今の貴方のような気持ちにさせちゃ、ダメなのよ。わかるわね?」

「はい」


隣に静かに座った幼い我らの主。
その表情は今にも泣きそうに歪んでいる。
彼女はその冷たい手のひらで優しく政宗様の膝の上の小さな手を握ったまま、言葉を続ける。


「貴方は、とても素敵な君主になります」

「…こんなに、みにくいのに?」

「いい?人の身体は、人を一生懸命に生かそうとするの」

「…はい」

「大きな傷や病は確かに元通りにはならないかも知れない。だからこそ、」

「はい」

「それでも生き残ったなら、生かされたのなら、その身体は何よりも美しいのよ」

「…僕も?」

「そうよ、忘れないで」

「、うん」

「貴方は、人の痛みを知ることができるという、大きな力を手に入れた」


彼女は、自らの死期が近いことを知っている。
そしてそれがもうまもなくである事も理解している。
そんな彼女の最後の言葉。
梵天丸様は気づいておられるのかおられないのか、泣きそうな表情は変わらない。


「梵天丸様、約束をしましょう」

「なに?」

「ひとつ、小十郎の野菜は残さずにきちんと食べること」

「…」

「…嫌そうな顔しないの」

「…はい」


小さな小さな声。幼い主は好き嫌いが多い。いつも目の前の膳にしかめっ面をして、野菜を隅に寄せていた。
そしていつも、彼女が「一口でいいから食べなさい」と、彼の鼻を摘んで口に野菜を突っ込んでいた。
ごくん、と苦々しそうに飲み込んだ彼の頭を優しく撫でながら「えらいわね」と微笑んだ彼女。

彼は、彼女の存在にどれだけ救われていただろう。


「ふたつ、小十郎を疑わないこと」

「はい」

「彼は貴方を裏切るようなことは絶対にしません。貴方には、信じることで強くなってもらいたい」

「…はい」


ぐす、と隣から鼻をすする音がする。小さな背中が震えている。
いつもなら、いつもならこんな時は彼女がその背中を抱いて声を掛けていたのに。

今の俺は、それができずにいる。


「みっつ、…」

「…名?」


途切れた声に梵天丸様の呼ぶ声が弱々しく部屋に響く。
彼女は一度ぎゅ、と瞑った瞼をゆっくりと持ち上げた。
その目には、涙が滲んでいた。
梵天丸様を向いて口を開く彼女。
つうと頬を滑り落ちる涙の雫。


「これが一番、たいせつ、よ」

「名、やだ、」

「このいたみを、わすれないで」

「名、名、」

「でも、」

「目、とじないで、僕をみて」

「わたしのことは、わすれてほしい…」


梵天丸様の頬を伝う涙。彼は小さな頭を必死に横に振る。
彼女の細い指先はその雫を拭おうと伸ばされた。

その表情はひたすらに優しい。彼女は小さく口を開いたけれど、その声は形ばかりで音になることはない。

彼も彼女の指先に身を少し乗り出して応える。

しかし、その指先は彼の頬に届くことはなかった。


「名?…ねえ、へんじをしてよ」

「梵天丸様、」


こみあげてくるのは、嗚咽。

約束をした。あまりにもつたない約束を。
「梵天丸様を、守りましょう。私たち二人が居れば、なんでも与えられるはずだわ」そんな約束。
「当たり前ェだ」、と返事をしたのは俺だった。だが、本当ならもっと他にも、すべき約束があったはずだ。


「やだ、…やだ、名、おきて」

「梵天丸様、…もう、」

「ねえ、僕、ちゃんと野菜も食べるよ」

「…梵天丸様」

「ちゃんと、小十郎のおけいこもやるよ」

「……梵天丸様…!」


彼はその小さな手で、畳の上に落ちた彼女の手のひらを握り締める。
当然のように握り返さないその手のひらは、つい昨日まで彼の頭を撫でる優しい温もりがあったのに。


「ねえ、だから、おきて」


それきり、崩れ落ちるように彼女にしがみ付いた梵天丸様は、ただひたすらに震える声で彼女の名を呼ぶ。


「ねえ、小十郎も、泣いてるんだよ」


その時初めて、俺は自分の頬を涙が伝っていることを知った。






愛 葬





思えば、俺が彼女と交わした約束は、それただひとつだけだった。
任務で戦地に赴く彼女が、生きて帰ると信じて疑わなかった。
いつも通り「ただいまー」と笑って帰ると無意識に信じていた。

生きて、当たり前のようにそばにあるものだと。

そう、信じて疑わなかった。


あぁ、でも、そうだな。


「…生きて戻ってきてくれて、ありがとう」


"あいしてるのよ、ふたりとも"


その、声にならなかった声が、幼い彼に届いていることを、こんなにも祈る。





by six.



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