つう、と柄杓から畳に落ちた油が小さく鳴き声をあげて染みを作る。
その様をぼんやりと見つめながら、彼女は僅かに口許を歪めた。

手ごろな布切れを月明かりの下で引き寄せる。
引っかかってそれ以上引き寄せられないそれに小さく嘆息して、長さには満足しているのだからと彼女は特に気にしない風を装ってその布の端で畳を乱暴に擦る。


「今頃、探しておられるのでしょう。」


存外に甘い響きを漂わせた彼女の物言いに、その布切れを、否着流しを身に纏ったまま転がる男が低く呻いた。


「…っShit…!てめぇ、!」

「あぁ、もう気付かれたのですね。流石天下人を目指す方は違う。」


彼女の口許はさもおかしそうに、嬉しそうに弧を描く。
しかし瞳に宿る光だけは底なしに冷たく、鈍い狂気と憎悪とを織り交ぜている。


「…何故、殺さなかった」


男は懐に忍ばせた小刀を、未だ力の満足に篭らない両の手で確かめるように握り締める。
畳に落ちた小さな鞘に刻み込まれた家紋。
月明かりに鈍く答えるその切っ先に、彼女は目を細めて、そして灯篭の受け皿に油を注ぐ作業を再開した。


「殺してしまっては、面白味のない。」


彼女の指先が火を油へと近づけるのを見ながら、男は両の手に篭る力が戻るのを感じた。


「…Ha.復讐したかったんじゃねぇのか」

「復讐?それは異なことを。」


明かりのついた灯篭の翳す灯りが部屋を支配する。
彼女の肌は青白く月明かりと灯篭の明かりとで照らされ、男は先に飲まされた液体を思い口腔内の唾を畳に吐き出した。


「独眼竜、貴方は私に仰いました。」


彼女は正しい姿勢を崩さずに、まるでそれなりの番付けの宿屋の女将のように、流れるような動作で男に対面する。


「私を手に入れたい、その為に彼らを殺めた、と。」

「…あぁ」

「それでも私は最後まで、武田の人間であります。」

「……だから、俺を殺してぇんだろ」

「いいえ」


彼女の瞼が柔らかく伏せられて、男は一瞬小刀に篭る力を緩めた。
しかしそれも僅かなこと、彼女が次に顔を上げたとき、その表情に滲んでいたのは変わらぬ狂気と憎悪だった。


「今此処で、貴方が私を殺すのです。」


再び弧を描く彼女の口許。
男は閉口したまま、月明かりに照らされて歪に微笑む彼女の顔を美しいと思う。

儚く、強い女。
武田にあり、殊更に愛情を受け止めていた、ひたすらに無償の愛を紡いでいた女。
そして張り巡らせた計略の穴を辿ることに長けていたとされる女。

この女にこの空虚な右目を見せたら、どんな反応をするのだろう。
愛情を受け止めて、無償の愛情を与えていたこの女なら。


「…殺す理由があんのか」

「私は貴方に毒を盛った。理由はそれで事足りる筈。」

「てめぇ…」

「貴方にできないのなら、私が。」


言うが早いか、彼女の懐から取り出された小刀に男は目を剥く。
彼女は鞘からそれを引き抜き、切っ先を自らの首に押し付けた。

刀身に光る武田の紋、そして鞘に光るのは、六文銭。


「俺が、憎いんだろう」

「貴方は己のみしか愛せない、その事を身を以って知っていただきます。」


首を伝う紅色に男が眉根を寄せたその瞬間、灯篭を汚した飛沫。

畳に崩れ落ちる彼女の手の中、二つの紋だけが男の視界を奪う。


「力があれば、何でも手に入る」


じわりじわりと男の足裏を侵食していく彼女の命の色に、男は静かに目を伏せた。





気狂いなれば鬼にこそ





「若虎の傍らに寄り添うには、些か悲しすぎるな」


薄く開いたままの彼女の瞳は何も映さない。
男は微かに震える手のひらで自らの小刀を放り投げ、そして彼女の瞼を閉じた。


「てめぇは、思い出を貪る鬼だ」



by six.



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