その日は朝から雨だった。
例えば全てを覆い尽くす雪を見ると、何故だか懐かしさとそれに背反して心に澱が沈む感覚。
そう、それによく似ている。
…寒いのは好きじゃねぇ。
生ぬるい電車の中で、なんとなしに流れ行く窓の外を見る。不意に浮かんだのは一週間ほど前に会った女の顔だった。
否、会ったと表現するには心許ない。それくらい希薄な時間。
でも、彼女の俺を呼ぶ声や、落としたライターを拾う細い指先や、心配を滲ませて困ったように笑う口許が、何故だか酷く懐かしくて何故だか酷く愛しかったのを覚えている。
あの時は用があって出掛けた帰りだった。本来なら今日だって電車に乗る用はない。そもそも一週間同じ時間にこのくたびれた電車に乗っているのは、ひとえにあの女をもう一度見る為。
見る為、とは思いながらも次こそは何かしゃべってやろうと思う。
初対面なのに、懐かしい。
逢いたかったというより逢うべきだった、と表現するほうが正しいような感覚。
「…意味、わかんね」
人も疎らな車両の中、気もそぞろな人目の中で呟いた声は存外に響く。
そうだ、名前だ。
窓を叩く雨粒を見ながら、そんなことを思う。
名前を聞けば、この正体のわからない既視感の原因もわかるだろう。
でも、
俺はなんとなく予感していた。
たぶんあの女は名前を聞いたら、また困ったように笑うんだろうということ。
そして、「名です」と答えるんだろうということ。
会ったことはない。
でも、僅かな記憶の断片が悲鳴をあげる。
彼女の腕を引き寄せて抱き締めろと。今度は間違うな、二度と離すな。彼女をもう一度愛せと。今ならそれができるはずだ、と。
これが一目惚れっていやつか、と軽く考えていた一週間前。駅のホームから見えなくなるまで見つめた背中を思いため息。
いや、違う。これは一目惚れなんかじゃない。
今度は口の中で名前を呼んでみる。「名、」その名前をなぞる度に、何故だか心が暖かくなって、それでいて泣き出してしまいたいような気持ちになった。
雨が窓を横殴りに叩く音を聞きながら瞼を落とす。あの時と同じように。やがて聞こえたプシュー、という気の抜けた音と、それと共に入り込んできた冷気。そしてヒールの音。
その音は俺の前で止まった。
まさか、もしかして、
「…また、会ったな」
顔を上げれば、そこにいたのは件の女。疲れた顔をしていたその女は声を掛けられるとは思っていなかったんだろう、顔に驚愕を浮かべて俺をまっすぐに見下ろす。
「……おい、なんか言うことあんだろーが」
鞄を持つ手が僅かに震えている。女も、たぶん気付いている。
そして予感は確信に変わる。
「ま、さむねさま」
「Ha!………もう俺は君主じゃねぇ。…様はいらねぇよ」
「…なんで」
「…他に、言うことねーのかよ」
会いたかった、逢いたかった、喉の奥に引っかかったままの言葉。
掴んだ彼女の腕を引っ張れば、彼女の瞳から涙が零れた。
「もう離さねーから、だから」
星は再び瞬く
無数の人間の中で探していたのは、俺だけのたった一人だった
二人を乗せた電車は雨の中を走っていく。
幾百の時代を超えて出会った二人の行く先は、誰も知らない。
by six.