夕方バイト帰り。
疲れた体で電車に揺られていた。
窓の外には夕焼けの色をした住宅街が流れている。
おびただしい数の屋根そのひとつひとつに、帰る人がいて待つ人がいるのだと思うと街並みは光って見えた。
この電車に乗っている大勢の人間にだってそれぞれ帰る場所があり、それ故今こうしてガタゴトと揺られているのだろう。
混み合う空間は辛いけれど、夕方数十分の運命共同体、そう思えば少し気持ちも和らいだ。それに今日はいつもに比べれば空いている方だ。
これならもう少し前に並んでいれば座れたのに。
ふぅ、とため息をつき、吊り革を握りしめる。立ち仕事のせいで脚がぱんぱんだ。
きっと次の停車駅こそ君の帰るべき場所だ。だから早く降りたまえ。そしてその席を私に譲りなさい。運命共同体に対してろくでもないことを念じながら前の座席を順番に眺める。
目の前に座るくたびれたサラリーマンから、隣の品の良さそうな御婦人、その隣の茶髪の青年になんとなしに目を移す。
そしてはっと息を飲んだ。
心臓が穏やかに、しかし確実に高まっていく。私は彼を知っていた。明らかに初対面のはずなのに、私はその人のことを、どうしても知っている気がしてならなかった。目が離せない。
自分でも理屈がわからなかったが不思議と混乱はしなかった。
こんな気持ちになるのは初めてなのに、驚きというよりは探してた人をやっと見つけたという安堵感に満たされていた。
人はこれを一目惚れと言うだろうか。
そういえば昔。
これと似たような感覚を感じたことがある。
あれは確か家族旅行で冬の山に出掛けた時。
一面を覆い隠す雪のしんとした白さを見て、私は初めて見るはずのその景色を酷く懐かしく思った。
胸が締めつけられるような堪え難く切ない懐かしさだった。
帰りたいと思った。そして同時にもう帰ることのない場所だとも思った。
切なかったのは、どんなに懐かしくどんなに惹かれていてもそれがすでに自分とは関係のない物だとわかっていたからだ。
もしかしたら前世、私は雪国で育ったのかもしれない。
そんな風に感じたことを、何故か今になって思い出す。
同時に電車がガタリと大きく揺れた。
見つめていた彼のポケットからライターが滑り落ちる。
俯いて居眠りをしている青年の、前髪に隠れていた右目が見えた。眼帯に覆われている。何かが確信に変わる。
床に落ちたライターは申し合わせたようにカラカラと私の足元へ転がり、止まった。
それほど混んでいない車内で、私は膝を曲げてそれを拾う。
「あの、落としましたよ」
「…、あ、Sorry.」
外国の人だったのかな。そう思いちらりと顔を覗けばバッチリと目があった。
色素の薄い茶色の髪と、その間から覗く切れ長の瞳。よほど疲れているのか、居眠りから覚めたばかりのその目はまどろんでいる。
私は何故かまた無性に懐かしい気持ちになり、相変わらず無茶してるんだろうなぁなんてゆう苦笑を漏らしてしまった。
ああ。どうした訳か、愛おしい。
困ったように笑う私の顔を、彼は夢でも見るかのように見上げている。
いつまでたっても相手が目を逸らさないので、しまいに私は恥ずかしくなって窓の外を見た。
夕焼けはさっきよりも色味を増している。街はきらきらと光っている。
もうじき青みが混ざり、そして黒に染まるのだろう。
横目でそっと彼の方を見る。
もうその目は私に向けられていなかった。
手元のライターを妙な真剣さでじっと見つめている。少し寂しく思う。
車内に聞き慣れた駅名が響き、私はそのまま何も言わず電車を降りた。
澄んだ冬の帰り道、無数の星が瞬く空を見上げる。
彼は気付かなかったかもしれない。
けれど私は気付いた。
そしていろんな楽しいことを思い出してしまった。
あの頃は笑えないと思ったことも、思い返すと可笑しくて一人で噴き出してしまう。昔は私も若かったなぁ。
遠い遠い昔は。
そしてふと思った。彼はなんの夢を見ていたんだろうか。
私の夢だといい。
くたびれた夕方の電車の中で、遠い昔に重ねた二人の思い出に包まれながら、穏やかな眠りについていたのだといい。
胸にうっすらと積もりゆく雪のような切なさはいつか私を埋めつくすかもしれない。
それでも私はその白さを暖かく思う。
星の数ほど
無数の人の中でも、何かの拍子に私はあなたを見つける。
ドアが閉まり、電車が動き、ホームを歩くその姿が見えなくなるまで、彼が自分を目で追っていたことを彼女は知らない。
by seven.