弐
「いいか、てめえら!」
連なり重なる蹄の音に掻き消されることなく、政宗の鋭い声が響く。 悪どいともとれる、不敵な笑みを浮かべて視線を部下へ向ける政宗の表情を、司は相変わらずの綺麗な笑顔で見据えていた。
「このまま甲斐・美濃・近江をこえて、夜明け前にゃ明智領に入る。山崎までブッ込むぞ!!」
「YEAH!!」
政宗を筆頭に、騎馬兵が森を抜けていく。 司は一瞬、一つの木を凝視して―――興味なさ気に視線をずらした。 そのすぐ後、微かな金属音と共に、その木の高い枝が一つだけ、不自然に揺れる。
*
森を休まずに駆け抜けていく。 政宗の後ろで、司は笑ったまま。
「明智はおそらく山崎に陣をはってる。ここから天王山を取りゃあ……」
『そうはいかなそうよ、政宗』
「Ah?」
政宗の独り言に、司が割り込むように言葉を紡いだ。 くすくすと無邪気に笑う。 澄みすぎた瞳で、政宗を見据えて。
『血のにおいがするわ。…それも一人や二人じゃない』
その言葉の瞬間、政宗も気づいたらしい、馬を宥める。 眼前に広がる、夥しい数の屍とむせ返るほどの血のにおい。 倒れている旗は―――桔梗。
「What!? どういうことだ?」
『聞いてるつもりは無いと思うけど―――私もこれは知らないわ』
「もう誰か先回りしてやがったっていうのか…?」
『ふふ、その可能性が一番大きいわね』
成り立っているようで成り立つはずのない会話。 司が一方的に、政宗の言葉に答えているだけに過ぎないのだ。 部下は勿論、司の姿など見えない、声も聞こえない。 だからこそ―――動揺を見せつつも、政宗の言葉に反応した。
「筆頭…こりゃ相当の手練れですぜ。どいつも一撃で殺されてる…これだけの数の明智軍が…」
瞬間、バキン!とモノの――恐らく、防具や、最悪の場合人骨が――壊れる音が響いた。 掴まれているのは、色素の無い長髪、死を司る神を連想させる、両の手にある首狩り鎌。 どっ、と鈍い音がして、闇夜に鮮血が舞った。 それに目を見開く政宗の背後で、くすくすと司は笑う。
『あらあら…これは楽しめそうね』
人の頭蓋を壊した人物は、開いた掌を握り、政宗の方を向いた。 司はただ、笑う。 ああ、これが―――次の火種だ、と。
「弦月の前立……その独眼…奥州の伊達政宗か」
「なるほど…テメェが一番乗りってわけか…」
大きな身体から発せられる低い声に、政宗が憎々しげに言葉を返す。 だがその口元は、不敵に、悪どく見えてもおかしくないくらい、確かに上がっていた。
「随分と早いお着きじゃねえか?あァ?―――名乗れ」
「我が名は―――豊臣、秀吉」
「豊臣……秀吉…!」
低く重々しい声と深紅の鎧を纏った大きな体躯の秀吉を見て、政宗は凶悪な笑みのまま、繰り返した。 それから、六爪の内のひとつを抜こうと手を掛ける。
「秀吉、ここは終わったよ。行こう」
だが抜刀されることなく、穏やかな、しかし隙の無い声が入り込んだ。 ふわふわとした、銀とも白ともとれる色素の欠けた髪、蛇のようにうねり、しかしひとつの刀へと戻っていく刃―――司の笑みが、無邪気に、残酷に深まっていく。 だが、勿論、その彼に司の姿は見えず、政宗と、その後ろの伊達軍に視線を向けた。
「ああ、君は伊達州の……少し来るのが遅かったね」
「テメェッ…」
「今、君達とやり合うつもりはないよ」
その言葉の刹那、ざわり、と空気が豹変した。 政宗の前に佇む秀吉の、その体躯から発せられる"覇気"が、その空間を支配する。 刀にかけた筈の手は、止まって固まっていた。
「ほう……我に牙を剥くか?」
地の底から響くような、重苦しい声。 確実に、秀吉はその場を支配していた。 現に政宗の息は上がり、歯はきつく食いしばられている。
『ふふ、凄い覇気ね?政宗、』
その背後で司が囁く。 それさえも、政宗が認知しているのかどうかはわからない。 それ程までに、秀吉の覇気に呑まれていた。 くすり、この場に似つかわしくない笑みを、司が浮かべる。
「…行くぞ、半兵衛」
『あら政宗、動けないのかしら?貴方が望めば、私はここを阿鼻叫喚で満たすのに』
何時もなら何かしらの反論が返ってくる言葉も、今回ばかりは反応がない。 司はそれでも笑っていた。まるで人形のように、何も映さない眼で。 既に背を向けた秀吉の横で、半兵衛と呼ばれた男が肩越しに政宗を見据える。
「何れは君にも、手を貸してもらう事になるかも知れないね……でも、"今じゃない"」
余裕を含んだ言葉とともに、屈辱とも取れる流し目をして、半兵衛は続ける。
「退きたまえ。次に会う時を楽しみにしているよ」
「テメェッ…」
「筆頭!!筆頭っ、ここは……」
漸く動くことが出来た身体は、部下の腕で止められた。 だが、その腕は今だ痙攣したように震え、とても刀を振れる状態ではない。 小さな舌打ちとともに構えを解くと、政宗も踵を返した。
「興ざめだ!戻るぞ!!」
明らかにほっとしたような表情を浮かべる部下の横で、司だけは不服そうに笑みを崩していた。 だが、それも直ぐに消えて―――溶け込むように、姿さえも、文字通り無くなった。
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