倖福アポリア


薄氷を踏んでいるような気分だった。彼を怒らせてしまったのが分かって、それでもなお私は話を進めようと口を開く。

私はこのままで停滞したままでいいとは思わない。彼も私もこのままでは腐っていってしまうような気がして。


「どうしてそんなこと」

薄い唇を開いて、彼がころころと転がる飴玉ような甘い声で言葉を紡ぐ。この声で愛を紡がれて頬を染めていたのはいつのことだっただろうか。今は、とても怖い。

「もう終わりにしようよ」

きちりとした心とは裏腹に、私が紡いだ声はひどく震えているような、頼りない声だった。仕方がないじゃないか、だって、怖いのだから。

紫紺の眸が昏く瞬いて、固唾をごくりと飲み込む。ここで私が折れたら今までと変わらないじゃない。それではいけないから、私はこうして薄氷を踏んでいるのだ。


「だめだと思うの、このままじゃ。だって、おかしいよ。私は」

「黙ってよ」

鋭い声に、言い募ろうとした言葉が恐れをなして喉の奥に引っ込む。

本能が危機を知らせてるけれど、そうやって恐怖で逃げていたら何もできなくなってしまう。今までもそうだったけれど、今日は覚悟を決めている。少々脅された程度では引き下がるつもりはない。

「そうやって脅してどうするの。私、もう終わりにしたほうがいいと思うの。これはマツバの為でもあるし、私の為でもあるの。そうしないとお互いにダメになる。ううん、もうダメになり始めてると思う。だから、」
「黙ってくれって言ってるだろ」

一定距離を離していたはずの私と彼の間が、すい、といとも簡単に狭まる。紫紺が視界いっぱいに広がって、二の腕が掴まれる。

「ひ、」
「大体、何が不満なんだ。僕はナマエを愛しているし、ナマエも僕を愛してる。それはとても倖せなことだというのに、どうしてそれを突っぱねようとするのかな。おかしいだろう。倖せなんだ。満足だろう?なにより倖せなはずなのにそれを否定して楽しい?受け入れたら倖せだろう?ああ、もしかして君は何かに憑かれているのかもしれないね。天邪鬼かな、ねぇ」

細く柔らかい金糸がゆらりと揺れて、紫紺の双眸はねっとりとしたものを纏っていた。

右の二の腕がぎりぎりと悲鳴を上げている。言葉とともに腕にかかる圧力が強くなっていくようで、私は痛みに眸を目一杯に開いていた。ぐるぐるとした感覚が脳から反抗の気力を奪ってしまう。

だめなのに。このままこの関係を続けていたら、きっと、近いうちに私は、私は死んでしまうのはないかと。

「鬼は…あなたじゃない…!」

絞り出すような掠れた言葉にびくりとマツバが震える。咄嗟のことだったから、もしかして彼を傷つけたのか、と考える。だけど今の私たちはひどく下らない傷つけあいをしているのだから、そんなことを気にしてはいられない。

「私は、自分の意思で生きたいの!束縛も、下らない嫉妬ももううんざりなの!」

言い終えるか終えないかの瞬間、背中が悲鳴を上げていた。

「い…っ」
「どうして」

首に圧力が掛かる。それがマツバの両の手によるものだなんて信じたくもないのだけど、苦しさで半分だけ開いた眼がそれを確かに捉えていて、それが事実なのだと知らしめる。

「そんなこと言うんだ。倖せを壊して楽しいの?僕を傷つけて楽しいの?僕は全然楽しくないかな。ねえ、僕は今がすっごく倖せなんだ。だから、それを壊されたくないんだ。でもね、君を壊すのも厭だよ。でもね、倖せの為、倖せの為なら」

マツバの指が首に食い込んでいく。彼の言葉が頭に入ってこない。倖せ、倖せ?

私は、優しく微笑んでくれて、一緒に笑っていられるマツバが好きだった。なのにどこかがずれて、どんどん苦しくなっていった。

「ナマエが僕から離れていかない為なら、僕は。互いの倖せの為だよ。いつまでもそうしたら倖せなままでいることが出来るんだ。だからさ、ねえ、いいよね。僕は鬼なんかじゃない。憑かれてるのはきっとナマエだよ。だから、これはお祓いみたいなものなんだよ。倖せを邪魔する鬼、ナマエと僕を引き離そうとする奴を潰すんだ」

首が折れる音を聞いた気がする。



110913