アイコノクラズム


「私は牧野さんがすき、でした」

ぽつりと零した言葉を掬いあげることもなく、白衣の彼は私のカルテに視線を落としたまま、頷くことも相槌をうつことも「ふうん」と言うこともありません。


しつこい頭痛で訪れた宮田医院ですが、先生は私の喉を見、眼球を見ただけで、あとは何もしないのです。待合室にて測った体温は36.4℃と安定した温度です。


恋愛感情のほつれを、こんな人に吐露するべきではないのはわかっていましたが、沈黙に耐えられず、口から漏れてしまったのです。

最近、ずっと脳から離れなかったことでした。求導師である牧野さんへの恋慕は、じわじわと波に削られた砂の城のように崩れています。

宮田先生は、牧野さんと双子だと聞いたことがありましたから、少しくらい反応があるかと思っていました。しかし私の安っぽい予測は外れ、彼は私の言葉に異様なくらい無感動で無反応で無関心です。


「…求導師としても、牧野慶としても、私は彼をすきでした」

構わずに口を開いて、私は黒衣の彼を思い浮かべます。左頬のほくろ、下がり調子の二重目蓋、おどおどとした態度、求導女への思慕。私はそんな彼に恋慕を寄せていました。

「それで、ナマエはどうしたいんですか」

薄くかすれた声。ぱっと視線を宮田先生に戻せば、先程まではこちらに目もくれなかったのに、まじまじとこちらを見ていました。

右頬のほくろ、上がり調子の二重目蓋、毅然とした態度、内包している狂気。


小さな恐怖を彼に感じながらも、私は彼から眼を逸らせずにいます。仄暗い何かが眸の中を泳いでいるような、不確かな狂気を。

「過去の話みたいですね」

全部過去形だ、と彼がせせら笑う声が耳朶に触れて脳が揺さぶられます。過去。過去だ。

「求導女は、いつまで求導女なのでしょう」

「彼女が死ぬまで…いえ、この村がこの村であるかぎり」

求導女は、私が小さい頃、ましてや母が小さい頃からいたそうです。そんなのおかしいじゃないですか。彼女は、姿が変わっていないのです。あの猟師さんも、彼女は怪しいと言っていました。

「私は、牧野さんがすきでした。だけど、教会が信じられません。怖いのです。教会も、求導女も求導師も信者も神代の家の人も村もみんなも先生だって狂って、」
「では、ナマエの診断結果です」

宮田先生が私のまくし立てるような言葉を遮ります。彼の持つカルテには、私自身の情報と健康状態以外には頭痛としかありません。

「問答の結果から、頭痛の他に特筆すべき病状はないものの、精神的にひどく不安定であり、日常生活を行うには難しいと考えられます。即時入院と早期隔離が必要」

入院?隔離?わけがわかりません。何が、一体どういうことなのでしょうか。私は頭痛を訴えただけであり、入院だなんて大層なことをする必要があるとは思えません。

「言葉の通り、隔離病棟への入院ですよ」

さらさらとペンがカルテの上を滑り、文字がカルテの上に踊ります。隔離病棟だなんて、私はおかしくなんかないというのに。
「どうして、というような顔ですね。あなたもこの村の人間ならわかるでしょう。神代と教会は絶対なんですよ」

急に頭痛が酷くなります。ギィギィと座っている椅子が鳴いて、私はここから立ち去ることだけを考えました。逃げ場。考えてみれば逃げ場なんてものはどこにもありませんでした。



110831 title:箱庭