背中に呪詛


縋り付いた赤い背中が、細くて弱々しいことに私はもう気付いていた。知っていたはずだった。この人は守るものがたくさんあるから、その邪魔をしてはいけないことくらい。でも、それでもこの弱い人に守られるものが妬ましくて憎らしい。

「離して欲しい、と言ったら、君はどうするかな」

「優雅さの欠片もなく泣いて差し上げます」

小さな溜め息に気付いたのはきっと私はだけだ。今の遠坂の家には彼の妻子はいない。妻の実家にいるのだから。余裕を持った動きで私の腕を解き、向き合う。それでもまた上品なカフスボタンが飾る袖口を握る。

美しい蒼い眸が私を見据えるのが、ひどく嬉しいのに怖かった。彼が言うことはいつだって正しい、そして猶予のあることだから、私はそれに従うしかない。まるで総て決まっているシナリオのような流れを持った彼は、遠坂の当主としてとてもとても、相応しい。

「私を困らさないでほしいよ」

それくらいわかっている。
それくらいわかっているから、こうやって困らせている。困らせることによって束縛しているという事実に悦を得る。私のものになるはずがないひとだから、こうやって所有した気分に浸る。

「だって」

「だって、ではないだろう。健全な淑女が男に抱きつくのははしたないよ」

はしたなくて何が悪いんだろう。この気持ちが伝わるのなら、私ははしたなくもいやらしくもいやしくもなる。それに後悔も何もないのに、どうして分かってくれないんだろう。私はきっとあの貞淑な女性より、ずっと時臣さんを愛しているのに。あのひとは可哀想なひと。あの野良猫のような友人を切り捨てられない。自分の意志で動けない。しがらみの中に生きて、何が、何が妻だろう。

こうやって脳内で汚い言葉を叩きつけても、現実には何も反映されないことはわかってる。わかっているのに、やめられない。妄想のなかでは私を選ぶ時臣さんも、現実では私のことを見向きもしてくれない。これが現実だ。汚いのは私だけ。

「ほら、離しなさい」

やんわりと振り払われる。振り払う、というのには少しばかりの語弊があるのかもしれないけれど、それはそれは優雅に手を解かれる。悔しい。


「時臣さんは、死なないですよね」

悔し紛れの呪詛が口から漏れた。

「私は、根源に至りたいのだよナマエ。その為に、私は死んではいけない」

聖杯に祈る為に死ねないというのなら、聖杯なんてなければいいのに。聖杯なんてなくなってしまって、この人も、死んでしまえばいいのに。あの赤い眸の王の言うように、つまらないひと。

好きなのに、私は好きなのに。こんなつまらないひとが好きなのに。つまらないひとはつまらない私には振り向きもしない。

せめて彼が守るもののなかに混ざれたら、なんて考えたけれど。彼はまた聖杯の為にことを始めた。細くて弱々しい背中はとても誇り高い。私には手の届かないところにいる。また、妬ましくて憎くなる。

「死んじゃえ」

呪詛がまた漏れた。


120330