生温い水と愛情の相互関係
夢を見ていました。彼が居ました。私は手を伸ばしたけれど、それが彼に届く事はありませんでした。開き切った指の間にどこから来たのかも分からない水が絡んで、私はそれに怯えてしまいます。怖い。ひゅっと腕を縮こまらせた瞬間、彼はその水がの向こうへ消えてしまったのでした。
「レギュラス、レギュラス」
「なんですか」
薄いシーツを捲ってベッドから出てきた、彼女の細く柔らかい指が両頬に這う。どこか震えているような、それでいて確かめるような指は僕の顎から頬骨までをゆっくりと撫であげていく。起きたばかりの彼女がよくやることだ。
「どっか行っちゃ厭」
また、何か可笑しな夢でも見たのかもしれない。彼女は学生の頃、占い学の成績がとても良かった。勉強が出来る方ではなかったので、それは彼女の生まれ持った素質なのだろう。
皮膚に鈍い痛みがじわりと広がる。爪を立てられているのにはすぐに気付いた。僕が返事を言わなかったのが不服だったのかもしれない。
「どうしてそんなことを言うんですか?」
「言っちゃいけないの?」
「そうは言ってないでしょう」
そっと彼女の右手が頬から眼の方へ上がってくる。目蓋の膨らみを確かめるように、何度も何度も撫で上げられる。特に不快でもなんでもない、ぼんやりとした感覚と、左頬に立てられた爪の鈍い痛みが交互に感覚神経を襲う。ああ、彼女は今不安の中に生きている。
「私、厭なの。レギュラスがどこかに行っちゃうんじゃないかって」
「そんな、僕は何処にも行きませんよ」
「嘘だよ。嘘だもん。それは嘘だもん。きっとレギュラスはどっかに行っちゃうんだ。厭なのに。嘘なんだ。知ってるよ。レギュラスはどっかに行っちゃうんだ」
ごり、と頬に爪が食い込む。まさしく抉られているのに、僕はそれを防ぐことも出来ない。彼女のことが大切だから、ナマエがそうしたいのならそうさせておいてあげるべきだと思った。頬に傷が付こうが、それはいつか消えるものだ。
「僕はここにいますよ」
そっと手を伸ばしてナマエの背を抱く。食い込んでいた爪が無理な方向に動いて、頬の皮がひどく抉れたような気がする。そんなこと気にしないで、ナマエを抱きしめる。嗚咽を零す彼女の背中は、学生の頃と変わっているのに、変わらないような、小さな背中だ。
「レギュラスは、私のこと、まだ好きでいてくれるの?」
不安そうな声が肩越しの向こうから聞こえる。彼女は、今泣いているのかもしれない。顔を確認出来ないけれど、彼女はいつだって不安でいっぱいなのだろう。不安でいっぱいだから、僕をこの屋敷から出さないのだろう。杖を粉々にしてしまった時の彼女は、眼を赤く腫らして、隈を濃く作っていた。たくさん泣いて、そして眠れなかったのだろう。
「好きじゃなかったら一緒にいませんよ」
僕の言葉を咀嚼して、ひしと背中に弱弱しい腕が縋り付いた。ず、と鼻をすすった音が聞こえて、彼女が泣いている事実を確認出来た。
「どこにもいかないで」
私が懇願すれば、きっと彼は何処にも行かないということには気づいていました。水の向こうに行ってしまっても、彼は、そこにいたのかもしれません。私が何処にも行かないでほしいと言ったからか、そうではないのか、そんなことは彼にしかわからなかったでしょうが、私は彼を疑ってかかっていたのでした。
なによりも、彼は私のことを好きでいてくれたのに。
120324