純愛アタラクシアの嗚咽


実は、私には好きな人がいる。さらさらとしていて柔らかそうな髪がとても印象的な、実に美しい容姿を持っている彼は、スリザリンの王子様だと思う。彼は、名前をレギュラス・アークタルス・ブラックという。素敵な名前だ。かっこいい。私はそのフルネームを知って以来、寝る前に唱えるようにしている。一回につき三回暗唱するのが掟だ。ルームメイトに最近気味悪がられているけれど、私はめげない。絶対にめげることはない。この昂る想いをそうやって鎮めて、そうして寝る。そうすると朝らしっかりと起きることが出来る。一番に大広間へ行き、最後に大広間を出る。それが私の朝の、いや、食事の時の掟だ。すると、彼が食事をしているのを最初から最後まで眺めることが出来る。その間、紅茶やコーヒーを嗜むけれど、手元より彼を見ている為によく零してしまう。私がいつもナフキンを手元に二、三枚置いているのは、勿論それを素早く処理したのち、また彼を眺める為だ。衣服に掛かった場合は素早く杖を振り、綺麗にする。優雅、綺麗、静寂。それが彼の食事の風景に相応しい言葉だろうか。彼の食事を邪魔する人はいない。食事しつつ、会話を楽しむ人の多い我が寮と比べると、やはり静寂だ。授業は絶対に同じになることがない。私は彼の一つ上だから、授業が被らないのだ。空き授業の時間に、彼の授業風景を見たことが数回あるけれど、やはり彼の周りだけが静寂に包まれていた。スリザリンは元々静かというか、あまり言いたくはないけれど根暗なところがある為、しんとしている。それでも授業中に私語する生徒くらいいる。しかし彼は静寂に包まれ、孤高の美しさを保っているのだ。私は感動した。彼は素晴らしい人だ。私の憧憬の人だ。彼の素晴らしさは勿論それだけではない。それは、不甲斐ない兄の代わりに家を継ぐことになっていて、それを甘受するだけでなく更に精進しているということだ。兄は家風に反対し、家を出たのだ。二人兄弟の弟であった彼は、兄の分まで家に尽くしているというのだ。私はその事実がとても悲しい。彼は、恨み言の一つも言わず、ただ家の為、母の為父の為に。私は悲しみに打ち拉がれた。彼が何をしたというんだろう。ただ、名家ブラック家の次男として生まれ落ちただけだというのに。ここまで、人生をすべて捧げる彼を、私は支えることすら出来ないのだ。私は名家でも何でもない普通の魔法族として生まれた。父も母も一介の魔法使いと魔女で、純血などではない。だから、彼を支えることなど、烏滸がましく、許され難いことだ。だから、私は一人を憎むことにした。そう、彼にすべてを押し付け、自分はその責務から逃げて自由に、しかものうのうと生きる彼の兄だ。彼の兄は、

「お前だよシリウス・ブラック!」

「うわっ何しやがる!」

「ふざけんなよおお…、お前、お前ぇえええ…ひっぐ、お前の所為だよぉ…っ!」

私の話を静かに聞いていた友人にビンタをかます。それも往復ビンタだ。二回びしびしと頬を叩いて、私の手はそれから大人しくなる。胸が苦しい。どうして私はこんなことをしているんだろうか。

ぽろぽろと流れ出した涙を大人しくなったばかりの手で拭う。

彼のことを見つめ始めて早四年。私は辛くて堪らなくなった。気付いてしまったのだ。同じ寮で同学年の、とても仲のいい友人の一人が、その彼の兄だった。家名は同じで、見た目も確かに似ている。気付きたくはなかった。湧き上がる感情をぶつける相手など要らなかった。ただ、彼を想って泣いていたかった。シリウスはそんな私に話してみろと、そう言った。全部話した。気付いてしまった。こいつこそが彼の兄だ。何故気づかなかったんだろうか。何故、気付いてしまったんだろうか。

「ふうん。で、レギュラスのことが好きなのか」

「そういう、話じゃねー…っんだよぉ!お前馬鹿ぁ?」

「うるせーな、お前よりは出来のいい頭してるぜ」

「だ、だからそんな話じゃないの!私は」

私は。苦しくて仕方ない。私はずっと彼を見つめてきた。その中で、彼にどんどん惹かれて行った。だからこそ、彼に重責を押し付けて逃げた兄であるシリウスを許せない。私は、彼に何も押し付けたくない。私の気持ちを押し付けることも、絶対にしたくない。好きだという気持ちだけを、ただ持ち続けて、ただ純粋に、好きでいたい。それだけが私の身勝手な想いであった。

「好きなんだろ」

「…好きだよ」

どうしようもない程度には大好きだ。この四年間で、一度だけ拝むことが出来た笑顔は非常にレアだ。まだ私はそれを覚えている。綺麗な、柔らかな笑顔。少しだけ戸惑ったように笑ったあの顔を、弧を描く目蓋を、それを飾る睫毛を、半開きになった薄い唇を、傾げられた首を、私は全部覚えている。それが私に向けられることはないと、そう知っていても私は不躾に見つめて記憶に焼き付けた。全部、あの瞬間が私の心の支えである。授業だってしっかり受けたし、彼のことを出来る限り知ろうとした。見つめていようとした。自分勝手に生きるのも悪くはないと思っていたけれど、それ以上に彼には何も押し付けたくないと思った。そこは絶対だった。彼が落した羊皮紙を拾ったことだってあったけれど、そっと彼の荷物に紛れ込ませておいた。落しましたよ、と話しかけて、名前を名乗って、それから、なんて浅ましい考えが頭によぎっても、実際にすることなんて出来なかった。そんなことをしたところで、記憶にも残らないだろうし、ただ、虚しいだけだと思ったから。私は押し付けたくない。私は、この邪な想いをただそっと抱きしめていたかった。

「じゃあ、言ってこいよ。好きなんだろ」

「簡単に言わないでよ…、私は、私なりに考えて、今まで、ずっと」

「だからだろ。言わなきゃお前、一生後悔すんじゃねえの?」

「だからって、でも、私は」

自分勝手でいたい。押し付けたくない。振り向いてほしくたって、話したこともない。名前だって彼は知らない。例え私が兄の友人であろうと、彼らの仲は最悪なのだから全く関係がない上それはズルだ。シリウスをダシにして彼に取り入ろうとしているようなものだ。卑怯だ。私は、とんだ卑怯者だ。グリフィンドールの生徒はいつだって勇敢であるべきなのだ。私は、選ぶ勇気を持っていると、そう信じているのだ。

「お前に憎まれたままじゃ、おちおち悪戯の会議だって出来やしないだろ。いいから行ってこい。忍びの地図によれば…アー、ちょうど廊下だ。この寮からも近い。行ってこい。ちゃんと話してこないと糞爆弾口につっこむからな」

「そんな、勝手に…っ!」

どん、と寮の談話室から押し出される。悔しい。私は今とても悲しい。自分で決めることが私の美徳であり、それが私の勇気であると思っていたのに、シリウスによって簡単に崩されて、また選択のし直しになるだなんて。シリウスは、彼に私のこの濁った想いを押し付けてこいというのだ。私は、何ひとつとして彼に押し付けたくないというのに。太った婦人は苦い顔をしているであろう私に、ほぐすようなウィンクをくれた。それを糧にしたのかは自分でもわからないけれど、少しずつ歩き始める。



果たして、どうなのだろうか。

私は私のけじめとして、ホグワーツ在学中はいつまでも彼を見つめていようと考えている。柔らかな髪が揺れるのを、じっと見つめているのだ。例えば私が純血だったとして、例えば私がスリザリン生だったして、例えば私が彼と同学年だったとして。私に何が出来ただろう。こんな意気地なしに、一体何が。私が私である限り、きっと報われるはずなどなかったのだ。今も、立ち止まったまま動けずにいる。悲しくても苦しくても、彼は前を向き、見据えて、歩みを止めることなどなかったのだろう。私は、どうなのだろう。

前を向かず、見据えず、歩みを止める。

私は下らない生き物だ。恥晒しだ。もしかして、私には彼を見つめる資格すらないのかもしれない。じっと見つめた先にいた彼は、いつも遠くにいた。近づくことすらしなかったし、そうしようとも思わなかった。好きだという気持ちだけが全てを取りまとめていた。子どもが口にする?好き?のような、そんな幼稚な感情なのもしれないけれど、それでも私は好きで、いつまでも見つめていたかった。遠くて遠くて、もう見えないんじゃないかと言うところから私は彼を見つめていた。友人たちが誰を好きだとか、付き合っているだとか、別れただとか、そんなことはどうでもよくて。私は、彼を見つめることを言い訳にして、いつしか前を向かなくなってしまっていたのかもしれない。前には、きっと彼はいないということを知っていたから。私の前に彼はいない。足元を眺めて靴を鳴らした。当然のことなのに、私は自分を不幸だと思った。前すら見ないまま。

「ナマエ先輩」

転がる鈴のような綺麗な声がした。その声が紡いだ音が、私の名前であることを咀嚼しきれないまま、声がした後ろへと振り向く。数歩先に立っている、柔らかそうな黒髪に薄い色の眸の、彼。近くで見ることでより一層にわかる容姿の美しさ。彼であった。ひどく一方的に憧憬を向け続ける彼が何故私に呼び掛けたのだろう。何故私の名前を知っているのだろう。何故。どうして、私はこんなにも嬉しくて、泣きそうなのだろうか。

「はじめまして、では割にあいませんが…こんばんは」

「こんばん、は…」

どうして。

どうしてなのだろう。

「わたし、…あなたが、ずっと、ずっと、」

涙が零れるようなとりとめのない言葉が口からぽたぽたと落ちていく。感極まる、とは今の私の心境ことを指すのだろうか。だけどどうして私の名前なんてもの知っているのだろう。どうして私の名前を呼んだのだろう。疑問ばかりが思考を埋め尽くしていく。話したことなんてない。声をかけたことなんてない。後退ばかりを繰り返した私と、前に進む彼がすれ違うはずがなかった。歩くペースもレールも、何もかも違ったのだから。

「僕は」

こつりという靴音と転がる鈴のような綺麗な声が静寂を裂く。ぱっと目先を見れば彼がいる。手を伸ばせば届くような距離に、心臓が言うことを聞かない。耳で鼓動を打っているように、心臓の音の妙なリアルさとその不自然さが頭痛を誘発する。わなわなと唇が震えて、言葉が出てこない。私は普段饒舌な方であるはずなのに、肝心な時には役に立たないようで、心中で地団駄を踏む。こんな舌、切り取られてしまえばいいのに。余計なことを言いそうになるくらいなら、いっそない方がいい。耳だって、目だって、ない方がいい。だけど、彼の声や姿を確認できないのはとてつもない損失になってしまう。ぐるぐると途方もなく無駄な思考が無限ループを続けていく。

「好き、ですよ」

彼がふわりと微笑む姿が視線を掠めた。それから、体を圧迫される感覚。かすかに風を薙いだような音が耳に触れた気もするけれど、それよりも私は、自分を包む不快ではない体温に戸惑っていた。なんだろう。耳もとに合った心臓の音が、もう一つある。私のものではない、規則正しい命の音がする。これは、なんだろう。

「どうして」

掠れた声が喉から躍り出た。正直な言葉だった。私は彼に何か出来ただろうか。出来ていたのだろうか。そんな訳がないのだ。私は、前を見ず、憧憬の眼差しでひたすらに彼を見つめていただけだ。正直に言って、私は気味の悪い視線を送っていたのだと思う。私はそれを?憧憬?と飾り立てたけれど、それはただの自己の擁護にすぎないのかもしれない。それなのに。

「僕は、知っていますよ。あなたが暖かいひとだと。それに、僕のことをなによりに考えていてくれたこと。いつも見られていたのは3年の時に気づきました。ナマエ先輩、何度か目があったの、覚えていますか?あなたは、すぐに目をそらしてしまったけれど」

彼の言葉が私の脳を揺らす。抱き締められた体がふわふわと暖かい。私は小さく、噛み殺したような嗚咽を洩らした。報われてはいけないのに、押し付けたくなんかないのに、どうして彼は受け止めようとしているのだろう。私は自分勝手で自己中心的で、ただこの邪すぎる感情を、恋慕の念を持っていたいだけなのに。これは、わがままでしかないのに。

「例えば僕がブラック家の生まれじゃなかったら、例えば僕がグリフィンドールだったら、例えば僕が先輩と同級生だったら。時々、考えました。兄さんのように家に背けたなら、なんて」

「そんなことしなくていい!私は、レギュラスくんに、そんな、…こんな気持ち、押し付けたくなくて、…だから、だから」

全部忘れてください、とは口に出せなかった。私のことなんて忘れてほしくて、でも、こうやって話せて、目が合って、こうやって抱き締められたことを忘れられたくなくて。わがままじゃないか。私は本当に自分勝手で、際限なく手を延ばしてしまいそうで、私はこの腕がなければいいのに、なんて思った。

「例えばの話なんですよ」

それなのに、彼は柔らかく笑う。

「僕が、あなたを好きなら。あなたはもう目を逸らさないでいてくれますか?」

背中に回っていた手が肩に乗る。見上げたほんの少しだけ高い位置にある灰色の眸が、真っ直ぐに私を見つめている。また心臓がどくどくと耳もとで脈打って聞こえる。私のこの感情は憧憬なんかじゃなかったのだろうか。恋と形容してもいいのだろうか。下目蓋が重い。泣き顔なんて見られたくないのに、手で顔を覆うことも出来ない。

「…はい」

また体が圧迫される。ひしと彼に縋り付いて幼い子どものように泣いた。押し付けたくなんかなかったのに、受け止められた心は。



120206