噺は数分前に戻ることになるが、青年一行が池の乙女前で雑談を交わし合っていた時、彼らの追う白ウサギの足は既に池の出口を踏みしめていた。
果たして、青年が泉へと至った目的を思いだし、蝶を追いかけてふらふらしていた猫の頭を引っ付かんで殴った時には既に遅く、白ウサギの背中はおろか足跡さえも、辺りにはすっかり残っていなかった。

「だー! くそ、もう居やしねえじゃねえか白ウサギッ!!」
「口悪いよー、痛いよー」

青年が怒りを顕わにチェシャ猫を殴りつけるが、猫の体はぐんにゃりとしていて、衝撃を吸収してしまい、手応えが感じられない。かといって、叩くのを止めてしまうと何だか猫に負けた気がしてくるので、妙な意地が邪魔して手を止められずにいる。

「うん……?」

猫を叩く手が空で止まった。青年の視線に、猫も倣えをして見てみると、青年の目は池の中心に向けられている。その水面では、何やら黒い物体がばたついている。黒い物体が手だか足だかで忙しなく水を掻くせいで水面は全く落ち着かない。

「おい、猫。何だあの変なの」

青年が指差して言った方向を、猫は目を細めて必死で見つめる。ちょっと眩しいのか、手で影を作りながら。

「んー、んー…。ああ! あれはドードー鳥じゃないかな? 不思議の国では最後の1匹で、絶滅危惧種に指定されてたなあ。まあ絶対保護動物? みたいな」

面白いねー、なんて言いながらチェシャ猫はけらけらと笑っているが、その言葉を聞いた青年の方はそうもいかず、無表情のまま顔を真っ青にしていた。油の切れた機械のような動作でチェシャ猫に向き直れば、美味しそうだよねえ、食べてみたいとか何とか。別に生きた鳥を見て美味しそうだなんて感想を持つ人間はそういないだろう。本物の猫だって、今では食料目的に狩猟をするものは少ないだろうに。

「いやいや、そういうのは助けるべきなんじゃない、の……ッ」

ザバザバと音を立てて青年は池へ掻き入ると、服の青は水を吸って深みを増し、群青になる。所々にあしらわれた上質のフリルは水の抵抗を顕著に受ける。凄く進みづらそうなのは見て取れるが、猫は助けようとしないし、青年も猫に助けを求める時間が惜しいため振り返りさえしない。
やっとのことでひた暴れる物体を押さえつけ、ゆっくりと泉から青年が上がる。鳥が水気を飛ばそうと身をしきりに振るため、青年の顔や髪には水滴が飛び散る。
べちゃっと無惨な音とともにドードー鳥を地面に投げ捨てた。
動物に対して慈しみ深いのか、そうでないのか、どっちなのだ。

「ねーねー、なんかまだ鳥溺れてるっぽいんだけど?」
「…………」



* * *



岸辺に上がった鳥たちはいずれもやつれた様子で、力なく嘴で羽根をつついて整えている。鳥たちの成す輪の中心にいる青年は、一向に口を開きそうにない鳥たちに、声をかけられずにいる。それというのも、鳥たちの表情がそれはそれは悲壮感たっぷりに溢れていて、どうにも「ここら辺で白ウサギ見ませんでしたか? あ、溺れてたんだから知りませんよねーあはは」とか「みんなで溺れてるなんてどうしたんですか? 集団自殺?」とか、訊きづらかったのだ。
見つめているのも何なので、どうしようもなく鳥たちの顔を順繰りに見ている青年の視線に気づいたドードー鳥が、申し訳なく口にした。

「名前も知らぬお方よ、助けてくだすったのに礼も申せずすまない。何分、私たちはずっと泉の中に沈んでおり、口を開くことはおろか、息をするので精一杯。彼らの分の礼も、私が代弁いたそう」

漆黒の羽根を器用に胸のラインに沿って折り曲げ、こちらに頭のてっぺんを向けた。地を向いた嘴から水滴が落ちる。
随分口調は大袈裟だけど、この鳥になら話が出来そうだ。
青年の頭の中は白ウサギのことでいっぱいいっぱいで、何故鳥が喋っているのか疑問を持つことさえ忘れていた。

「えっと……大変なとこ助かったばかりに訊くのは心苦しいけど、白ウサギの行方は知らないか?」
「鵜も鷺も見ておりませんなあ」
「雨と詐欺なら見たわよ!」

ドードーが全く見当外れなことを口にし、鸚哥が真似して喧しく騒ぎだす。それが次々に他の鳥たちにも回り、見たの見てないだの、それを訊いてるんじゃないだの、終いには取っ組み合いまでして、辺りには羽根が飛び散る。

「答える気がなさそうだねえ」

どこから入ってきたのか、チェシャ猫は青年の視界の中心に現れた。しかし青年はふいと顔を背けると、端でがたがたと身を震わすネズミの元へと寄った。
実は、池に浮かんでいた動物はドードー鳥の他にも、ネズミに鸚哥、鷲、鴨など様々だった。
青年がネズミの前に立つと、ネズミの頭に影が差して、それに気付き顔を上げた。が、青年を見留めたネズミは目を剥いて体の震えを大きくさせた。今や、震えすぎて、小さく跳び跳ねているようにも取れる。

「あっはっは。俺が怖いんじゃね? そいつ」

猫が差し向けた指を見てネズミが後ろに転がる。その情けない姿に、猫が顔を綻ばせて小さく噴き出した。
ネズミは規則的に並んだギザギザの歯を左右にがたつかせながら、小さな呟きを洩らしていた。

「ううう、ウサギなんてとんでもない。奴は法の番人だ、この国の法制度は壊滅している。罪状も告げられず、罰ばかりが執行される。裁判官は独裁者だ。我々脇役には慈悲どころか一片の涙とて分け与えられない。私らを玩具としか見ていないのだ。イカれている、この国はイカれているよ……私に二度とその名を告げないでおくれ! あと猫も近づかないようにね!」
「……僕この国に対する疑いが浮かんだよ」
「ネズミの『お話』は、尾を引く長さだからね、尻尾は大抵嘘つきなものさ。あまり真に受けるのはよくないと思うけど」

猫は肝心なところは何も語らなかった。

「アリス」

獣たちの中からぽつりと声が上がった。

「アリス! アリスだ!」

それを皮切りに、声は勢いと数を増して爆ぜる。様々な鳴き声が合わさって、すっかり明瞭でない。

「「そもそもアリスが悪い! 私たちとレースを始めたきりゴールを与えてくださらなかった!」」
「アリス?」
「「それでも私たちは走り続けた! いつしかアリスがレースから抜けていると気付いた者から止まりだした! 止まったら喉の渇きに堪えられなかった!」」

青年の小さな疑問はさっさと置き去りにされ、獣たちの不満暴露大会は続く。収拾が付かなくなったのを見てとったドードー鳥は嘴で青年の服の袖を引いた。
引かれて青年が振り返ったとき、ドードー鳥は突拍子もないことを言い放った。

「皆の者! 静粛に! 静粛に!! 御主等の主張はようく理解しておる。何、この者ならば部外者であるから公平。この者に勝敗を決していただくが妥協策と見据えたり!」
「そうそう!」鸚哥が輪から出て胸を張らす。
「この人はレースに参加してないから贔屓目無しに勝敗を決めてくださるでしょう! そう思うわよね!」

辺りからは疎らに拍手が起こり始め、隣へ隣へと次々に伝染していき、いつしか場は盛大な拍手に包まれていた。そして手柄を横取りの鸚哥が得意気に鼻を鳴らす。


「え、えぇ……?」