青年とチェシャ猫が白ウサギを追って、次に出たのは大きな池だった。池の中心に立つ乙女の像、その両目からは止めどなく水が零れ、池を常に清廉な水で満たしている。ひんやりとした風が青年の頬をなぶり、その冷たさに、走り続けることで火照った身体が静められる。風に晒され冷たくなった手の甲を頬に添えた。

「なんだここ……湖?」
「んーん、ここは池だよ」

そう、ここは涙の池。彼らが急いでいなく、来る途中で周りを見渡す余裕があったならば、池へと続く道すがらに立てられていた看板に目を通しただろうか。そこには、この池の名前が大きく、その由来やら歴史やらが少し小さく、下手な字で記されていた。
それにしても、風がしょっぱい。
塩分を含んでいるのかと訝しみ一舐めしようと池の縁に屈んだ。よいしょ、と青年が袖を捲りあげる。その様子を見てチェシャ猫は目を細めて笑い、ここの水は涙だよ、と注意。それを聞いた青年は慌てて手をひっこめた。……そもそも涙でなくても、安易に池の水を舐めてはいけない。

「おい……チェシャ猫」
「なあに?」
「なんでこの像は只管泣いてるんだ?」
「池から出られなくて途方に暮れてるから、だよ」
「石像のくせに出るとか出られないとか、あほらし」

青年の言葉に猫はくすくすと笑いだす。口に手を当てて、小さく頬を膨らませて。おかしくて仕方ないらしい。しかしそんな態度を取られても、青年にはチェシャ猫の言い分がさっぱりだったのだから、どうしようもない。
チェシャ猫が青年にとって理解し難いことを言うのに慣れて――正しくは感覚が麻痺して、怒りは沸いてこなかった。ただ、少し、脱力する。
猫は突然、謳うように話し出した。

「“八方塞がりの現実から抜け出せるための扉をせっかく見つけたというのに、扉を潜るには体が大きすぎました。不思議な薬を飲んで、小さくなってみれば今度は扉が開きません。扉を開けるにはとっても高いテーブルの上の鍵が必要でした。
扉の鍵を手に入れるため少女はおっきくなったりちっさくなったりを繰り返し、結局は扉を潜り抜けられないほどおっきくなったまま戻れなくなってしまいました。
どうしようもなくて少女は泣き出します。わあわあと、顔を覆った両の手から受け止めきれなくなった涙が溢れだして、周囲を飲み込み、それは涙の池を作り出しました。”」
「、」

またしても、だ。
強烈な既視感が青年の頭から突き抜ける。突き抜ければ、それはじわりじわりと足の先から地面に滲み出して、すっかり掴めなくなる。
そもそも、少女がどうして扉を開けたかったのか、とか、その少女は誰だったのか、とか、彼には思い当たるところがあった筈なのに、その事実を認識した時には既に、その内容をすっかり忘れていた。
掴めたと思えば途端にすり抜ける。やり場の無い感情は、拳を固く握り、掻き消した。

「それが、この池の名前の由来って言われてる話」

へらりと笑った猫は、少し広げた腕の手をぴんと立てて、周りを楽しげに走り回る。さながらキューピーちゃんだ。いつでもどこでも楽しそうな男である。しかし、その笑顔の下で何を考えているのかはよく分からない。分からせまいとしているのやも。
その横で、青年は何とも言えない感情のこもった目で、泣き止まない乙女を睨めつけていた。