ねぇ、聞いた? アリスが帰ってきたんだって!


ボーン…ボーン……

暗い空間に、時計の鐘の音が重く低く、木霊する。伝ってきた音の振動に鼓膜をくすぐられ、半ば急かされるようにして彼は瞼を上げる。が、開けた筈の視界には変わらずの闇が映る。一体自分は瞳を開けたのか閉じたままなのか。ぼんやりとした不安に背を押され、辺りをふらふらと手探る。

「ここは……?」

ぽつりと漏らした声が反響するのは大分遅れてからだ。そこそこに広いらしい。あてもなく彼は歩き始めた。一歩を重ねるごとに足元からきしりとした感触が伝う。暗闇の中では確証は得られないが、それは程々に湿気を含んだ木の葉だろう。
次第に闇に慣れてきた目で彼は思う。まるで井戸の中にいるようだ、と。周りは四方八方を土壁で囲まれており、下には木の葉や木屑や枝が、折々合間には僅かな光を反射させる水溜まりが見える。涸れた古井戸を横にすれば正にこのようなものだろう。
一向に変わらない景色に彼が辟易し始めたころ、暗闇の奥に白い影がよぎった。彼の落ちかけていた意識が白によって引き戻される。
――追いかけなくては。
何故だかそんな焦燥感が突き抜けていた。爪先がひんやりと冷たくなる。気が付けば彼は前方の影を追いかけていた。

全力で追いかけて追いかけて。それでも彼と前方を行く影との距離は縮まらない。余程足が速いのか。まるで兎のように跳ねるその走り方からは速さなんて感じられないが。それにしても、やけに白い。遠目に見るだけでも、髮も服も真っ白だ。そんな中、(あの丈はおそらく膝をも覆っている)ロングブーツだけが漆黒に塗られている。
やっと彼と白い影との距離が縮まらんとしたとき、ふいに起きた突風に乗って、前方を行く者の声が響いた。

「時間がない! 時間がない! 早くアリスに追いかけてもらわないと! 公爵夫人は時間に煩いし、ハートの女王はヒステリック! ああ、時間がないったら!」

その瞬間、白い影は地面に引き込まれた。否、引き込まれたのではない。穴に落ちたのだと、彼が認識したときは少しばかり遅く、白い影を追いかけていた彼もまた、ウサギの深い深い穴へと真っ逆さまに落ちていった。



* * *



「う……あれ……?」

ウサギ穴を二人が落ちていってから暫くして、気がつけば辺りは様子がすっかり変わっていた。暗いどころか、頭上には青空が広がる。周りは、青々とした緑が茂る高い垣がぐるっと囲んでいる。その内では中世ヨーロッパの貴族のような煌びやかなドレスに身を包んだ女性たちが楽しげに談笑をしながら通路を歩いている。端では大道芸をするピエロの周りに観客が集まって賞賛の声を口々に上げている。石造りの装飾華美な柱やアーチはどれも荘厳で、どこか現実味を拒否している。これでは先程の闇と状況は変わらないではないかと、彼は溜め息をしようとして息を吸い込んだ、時だった。

「君は誰?」

ゆっくりとした、けれど少し偉そうな低い声が彼の背後からした。彼が振り返れば、ぴったり後ろに男が立っていた。ローブがほぼ全身を覆っている。みすぼらしさをも感じさせる野暮ったく袖もない灰色のローブだ。フードをすっぽり被っているので顔は殆ど見えない。唯一見えるのはにやりとにやつく口元だけか。随分と奇っ怪な格好である。
彼は目の前の怪人物に、警戒心を隠しもせずに口を開いた。

「人に名前を訊くときはまず自分から名乗るものだと教わらなかったのか」
「……俺には生憎、君に名乗れる名はないなあ」

その答えは本当に名前がないということか、それとも自分には名乗る気がないということか、不満ながらに男を睨めば、男は怯んだように一歩下がると、眉尻を下げて肩を竦めた。人をからかって遊んでいるようにしか見えない男の態度に、彼がまたしても溜め息を吐こうとしたときに再び、「気を悪くしないでおくれ。猫には名前がない、それが不思議の国のルール。それで、君は一体誰?」ゆっくりとした声が最初の質問を繰り返した。
曖昧といえば曖昧な答えだったにせよ、男は答えたのだから、自分も応えるべきだろう。彼は名前を告げようとして、しかしそれが喉のあたりで詰まって出てこないことに違和感を覚えた。

――自分の、名前?

「……、っ、?」
「なんだ、君も名前がないのか。仕方ないよ、この国で名前は必要ない。国の住人に過去はいらない。国に入った時点で、落としてきたんだね」
「、」
「名前が欲しいなら白ウサギを追いかけて、女王の元まで導いてもらうんだ。女王はこの国の長だから、名前発行も彼女の仕事。厳密には、彼女からもらえるのは名前とは違うのだけれど、この国ではそんな些細なことに、誰も疑問を持たない」

青年の目には、名前を忘れてしまったという人物が目の前に現れても、さも当たり前といった顔で指示をする男はイカれているようにしか映らなかった。明らかに人間にしか見えないのに、自分のことを猫とか言っちゃってる時点でイカれているし。
本当にこの国では名前がない者が訪れてくることはよくある当たり前のことで、この国ではこちらから見たらおかしなことが常識で、この国の住人たちはみんなこの男のようにイカれた考えの者ばかりなのだろうか。そう思えば、彼は頭を抱えたくなった。
――思えば、自分はこの国の住人ではないということだけは明らかなのに、この国で名前をもらうことに何の意味があるのだろうか。この国は自分が生きるべきところだろうか? この国に居場所はあるのだろうか? しかし自分の元いたところでさえ覚えていないのだから、判断材料が不足している。
本当に頭を抱えて蹲ってしまいたくなって彼が膝から力を抜いたとき、彼と男の間を白い影が縫って行った。

「今の白ウサギだよ。追いかけたほうがいい。アイツは足が速いから。ね、君余所者だろ? 名前、もらわなきゃ」



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