アリスが庭に出ると、植木の手入れをしているメアリアンの姿が目に入った。

「あっ。アリス様! もうお帰りですかっ?」

ふと視線に気付いたメアリアンはアリスの姿を確認するや否や、ぱたぱたと駆けてきた。木の枝で擦ってしまったからか、はたまた別の仕事でか、彼女の指には小さな傷がちらほらと見てとれた。

「……こんなことまで君の仕事なんだね」
「我が屋敷にはメイドのみしか御座いませんから。それがどうかなさいましたか?」

かくりと小首を傾げ見上げてくる彼女の瞳は真ん丸だ。ここではそんな些細なこと、当たり前になっているのだろう。そう思ったが、ふと先程の白ウサギの諫言を思い出して、頭の奥がちりつくのを感じた。
――比較対象って、なんだ?

「ううん、別に。気にしないで」

アリスはなるべく温和に微笑んだ。それを見たメアリアンの顔が、急速に茹で上がってゆく。

「はっ、はわわ……っその、アリス様はとてもお美しいので、その、あの、私めになぞ微笑まれるのは非常に勿体のう御座いますというかで……えぇっと!」

真っ赤になった顔を俯けて、必死に身振り手振り主張する少女は大変可愛らしかった。……言っていることは理解出来ないにしても。

「アリス様はお優しいから白ウサギ様もお慕われになるのでしょうねっ」
困ったような笑顔。赤い顔を治そうと必死に手のひらで頬を押さえながらメアリアンは言った。

「そんなことないさ。」

正直、アリスには白ウサギのあの態度は不気味でしかなかった。会って1日もしていないのに、あの慕いよう。どうして。

「でもっ、白ウサギ様が名前で呼ばれるのを許すなんて、滅多にないことなんですよ。それこそ、重役の方にも許可された人はほんの一握りで」
「重役?」

はて、それは一体何のだろうか。白ウサギの所属する何らかの部署だろうか。それならメイドが知っていて不思議でない。

「ええ。あっ。もしかしてアリス様はまだこの国のルールをお知りでないのでしょうか」
「またルール、ね……」

なんだこの国は。

「……そのご様子じゃ、御存知ないようですね。それとも、アリス様には知られたくないとか? そんなまさかですよね」

メアリアンは自分の言葉に笑った。

「この国を統括しているのはハートの城だけなんですよ。そのトップがハートの女王様。王はいません。そして、その国民には全て役が振られている。
役は……身分のようなものといいますか。特に物語の上で重要な役割を担った人は役持ちとか重役とか呼ばれます。
国民の大多数はエキストラです。役持ちと並べて役無しって呼ばれることも。役はあるのに変な話ですよね。あっ私は役無し所属です。
役持ちの方々は、役に応じて所属する部署が予め決められます。所属場所によって形態は様々ですから一概には言えませんが、少なくとも組織形態を組んでいる部署の上下関係は厳しいみたいですよ?
ここで重要なのが、ハートの女王様は国のトップではあるが、役柄はトップでないことです。役職と社会的地位は必ずしも一致しません。現に、白ウサギ様はハートの城所属ですが、ハートの女王様より役は上なんですよ。
……とまあ、この国はそんなルールの上に成り立ってます」

長かった。
なんか取り敢えず長かった。
アリスはそう思った。

「ん、でもまあ……理解は出来たかな」

この国には、地位を確立させるための基準が2つある。
一体それはどこで使われる権限かは、謎だが。
(感覚としては、社長の息子がコネで会社に入っても、取り敢えず部長あたりの役職から始まるが、実際は課長よりデカイ面が出来るようなものか)

「で、そんなお偉いさんでも、白ウサギは名前で呼ばせない、と」

そこまで言って、アリスの脳裏に先日のチェシャ猫の言葉が閃いた。
『名前あるんじゃないか』
『んー、名前とは違うんだけどな』

(悪いことしたかな)

謝らないけど。
アリスは心の中で呟いた。

「話が大分逸れてしまいましたが、つまりそういうことです! まったく羨ましいなあ……」

眉を下げて笑う少女は、拗ねているようにも見えた。あまり快く接してもらえていないのか。

「えっ!? いっ、いえいえそんなことは! 白ウサギさまは使用人に対してお優しい方ですっ。家によっては、使用人を目にすることさえ嫌って、別宅に押し込めてしまうらしいですし。このお宅は、普通よりキッチンとダイニングが近いですし、メイドをよく労ってくれてるんだなあって」

ととと、とにかく不満なんてそんなものは!
と、ムキになって否定するのは、主に対して不名誉な印象を抱かれたくないからだろうか。
アリスの心の内が暖まる。
どこまでも実直な使用人に礼と別れを告げ、アリスは屋敷を出た。