支える力のなくなった扉が、惰性のように閉じていく。頭蓋に響くような音をたてて、重い口を閉ざした出入り口は、もう何を語ることもない。

「あれ、怒ってるんじゃないの」

扉が開くからには何かが出入りをする。アリスと白ウサギを残し、チェシャ猫は部屋から去っていった。
(ちなみに、カップと皿はすっかり空にしてからである)
アリスは肩にかかる髪を煩わしそうにしながら、扉の方に顔を向けた。白ウサギが答える。

「怒ってるにしても、それは彼奴が悪いのですよアリス」
「……はあ、」

アリスは一瞬白ウサギに目を向けたが、視線を手元のカップに移すと、気のない返事を返した。
白ウサギの答えは意味が分からなかったが、口調から『これ以上答える気はない』という雰囲気が滲み出していたので、突っ込んだ質問をすることは憚られたのだ。
諦めて話題を別のことにする。

「このあいだ訊きそびれちゃった、アリスについて教えてほしいんだけど」
「アリスについて、ですか?」
「? うん。早速今から探しに行こうかなって」

白ウサギの様子は目に見えておかしかった。おろおろと落ち着きなく……慌てているように見える。紅茶の注がれたカップを持ち上げては、結局飲まずに置く、なんてことを(多分)無意識に繰り返していた。

「どこら辺をお探しになるつもりでしょう?」
「え? えーっと……」

突然振られた質問に、よもや自分が質問し返されるなど全く思っていなかったアリスは、慌てて窓の外に目を向けた。
応接室は屋敷の角に位置している。外に面した窓からは、屋敷をぐるりと囲む柵越しに賑わう街の様子が見えた。その向こうは――。

「取り敢えず、街に出るかな。でも、これまで見つかってないってことは人気のないところにいるだろうから……」

アリスの目は街を外れて、その先に広がる緑を捉える。

「向こうの森に行ってみようと思う」

そう言ってアリスが白ウサギを振り返った。

「森へ立ち入ってはいけません」

振り返った先の白ウサギは、無表情のまましっかりアリスを見つめ返して言い放った。

「童話の中の森は何時だって危険なものです。あそこには世間に居場所がない殺人犯か、下劣な小人しか住まない」
「そんな、今時……」
「今時?」

白ウサギのやけに抑揚のない声が、静かにアリスを諫めた。

「貴方は何か勘違いをしておいでではないですか? 貴方は記憶がないから、無意識のうちにこそ元いた世界の常識を引き出している。だからこそ、この世界と、元いた世界との明確な区別が出来ていない」
「そんなことは」
「比較対象が無いのに区別をつけるなんて不可能ですよアリス。たとえいくら貴方が賢かろうと。」

押し黙るアリスに一瞥をくれた眼前の白い獣は、桃色の瞳を半月のように歪めた。

「あなたに今も時もない。過去がないのだから」