「アーリスゥ!会いたかったですよう!」
「なっ」

真っ赤な家具に囲まれた部屋の中、白ウサギはアリスに頬擦りしていた。彼等とテーブルを挟んだ向かい側のソファでは、チェシャ猫が脇目も振らず黙々とケーキに手を伸ばしている。本日のお茶請けはガトーショコラ。

「離れろ、馬鹿ウサギ!!」
「ウサギだなんて素っ気ない。ピーターと呼んでくださいアリス」
「分かった。呼ぶ。呼ぶから離れてくれピーター」「嫌です」

即答。

頭痛を堪えるときのような仕草で額に手をつくアリス。とんとん拍子に進んだ会話を打ち切ったのは白ウサギの輝くような笑顔だった。いつの間にやら、白ウサギはとてつもなくアリスになついていた。
アリスは独り言をぶつぶつと溢す。「これは夢、夢なんだ。ああ、それにしても最悪な夢だ、頭のイカレた奴等しかいない。これが僕の深層心理なのか?信じられない。僕はこんな格好がしたいわけじゃないし、男にべたべたされるのだって嫌いだ。断じて違う。僕はこんな夢を抱くような倒錯野郎なんかじゃ……」

「アーリース。何をぶつぶつと言っているんですか?」
「五月蝿い。夢が僕を困惑させるんじゃない。夢なら夢らしく、僕に良い思いをさせろ」
「ゆめ?」

完全なる拒否の言葉とともに、白ウサギを阻むために翳された手のひらを見つめたまま、白ウサギは目を丸くした。

「アリス、この世界が夢だと思ってるんですか?」
「……どういう意味」
「いいえ、アリスがそう仰るのなら」

柔らかに微笑むと、白ウサギはテーブルに置かれたティーカップに手をかけた。淹れたての紅茶はまだ湯気を立てている。白ウサギのカップに注がれていたのはカモミールティーだ。
アリスが胡乱げな視線を送るも、白ウサギは素知らぬ風に紅茶に舌鼓を打っている。チェシャ猫に視線を移しても、そもそも端から会話に参加していないため、全く当てにならない。
アリスは段々頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのを感じていた。考えていること、覚えていたこと、思い出せないこと、それらがない交ぜになって、足の先から真っ暗な海に溺れていくように。

(どうにも記憶が曖昧過ぎていけない)

そう思うのに、一体どの記憶が曖昧になってるのか、どこからどこまでが欠けているのか、それさえも掴めず、胸の内にはもやもやとした黒い煙が燻っていくようだ。

――この時点で既にアリスは、白ウサギと会ったあとからの記憶がなくなっていた。ぼろぼろと欠損していく記憶。ここに来るまでは本当は覚えていたということさえも、当の本人は気づけない。

12時の鐘が鳴って、それからを思いだそうとするが、何も出てこない。名前をもらう。その目的のために真のアリスを探しだし、女王の城へ行く。ただ目的だけははっきりとしているのだが。

(僕の過去は、どこにあるんだ)



* * *



「やーだー! 俺がアリスを案内するんだもんー! 馬鹿ウサギはもやしっこらしく家に引っ込んでろよなー!」
「馬鹿はおめーだ馬鹿ネコ! そんないかにもバッカでーすみたいな喋り方しか出来ない奴がアリスの案内なんか出来るわけないね! アリスと一緒に行くのはこの、お・れ・だ! てかもやしじゃねえよ!」
「シャー!! ウサギのくせに生意気だなあ! 女王のとこ帰れよ! 仕事はどうした!」
「城は今仕事なんか出来る状態じゃあないんだよ! そもそもトランプ兵がいるんだし、元から仕事なんてあってないようなものだっつーの」

「騒がしいなあ……あ、おねーさん、紅茶おかわり」