アリスは薄暗い穴の中で途方に暮れていた。 白ウサギのおかしな言動のあと、目が覚めた。と思ったら、またいつのまにかこの世界へ舞い戻っていた。 相変わらず、肝心なところの記憶が消えかけている。けれど今回は判然としたことがある。これは、自分の見ているしがない夢だということ。 この国へどうやって来ているのか、いつも忘れてしまう。が、前述の通り、自分が目を覚ますことでこの世界から抜け出せるのなら、この世界は夢ということができる。夢の入り口は大体明瞭ではないものだし、辻褄は合う……気がする。 そうと仮定するなら、なんて最悪な夢であることか。夢には人の真相心理が表れるという。自分の心の内はこんなものばかりだったのか……とアリスは落胆していた。特に洋服の趣味。 「相も変わらずウサギ穴から、か」 前に行けばよいのか、後に行けばよいのか、はたまた右か左か。今回は導く者はいない。一先ずの目的地を白ウサギの家として、アリスは物理的にも精神的にも重い足を引き摺りだした。 * * * 「あのう、おにいさん、わたしのヘアピン見ませんでしたか?」 突然響いた声に、アリスが見回すと、隣に少女が佇んでいた。背丈はアリスの腰より少し高い程度、歳は7歳くらいに見える。クラシカルでおとなしめのエプロンドレスは上質そうで、身分の良さが伺える。少女は前髪に手を当ててもう一度尋ねた。 「わたしのヘアピン、たぶん池でおとしちゃったんだと思うんです。おにいさん、もしかしてどこかで見かけませんでしたか? わたしが探しに行ったときにはもうなくって……」 ぎこちなく、拙い敬語だ。少女はとても悲しそうに前髪を撫でる。そこにある筈の物が無いという喪失感に瞳を潤ませていた。 アリスはすぐに思い当たった。池で自分のポケットに入り込んでいたピン。きっと、この話を聞くに少女の物であり、池の中に入った時に、水と共に入り込んでいたのだ。 「それは多分……これじゃないかな」 「!」 アリスが差し出した2つのヘアピンを見た少女は、途端に跳び跳ねてそれを受け取った。 「わあ、わたしのだ! ありがとうおにいさん! 大切なものなんです……パパからもらった、大切な……」 「そう、よかった」 心から少女は喜んでいる様子で、その素直さにアリスの顔もつい綻んでいた。それに気付いたアリスは、慌てて口元を押さえたが、今度は照れから頬が赤くなり始めた。 そんなアリスを不思議そうに見つめていた少女は、ヘアピンを前髪に留めると、改めてアリスに向き直った。 「ところでおにいさん、ここで何をしてるの? こんな、何もないところなのに」 「別に……何をしてるってわけでもないよ。目的地はここじゃない」 「どこか行きたいばしょがあるの?」 「とりあえず……白ウサギの家、かな」 それならわたしわかるよ! と元気よく言って少女がアリスの手を引いたので、アリスは半ばつんのめるようにして駆け出した。嬉しさのあまり、すっかり敬語も忘れている。 徐々に薄暗い穴の中に光源が見えてくる。前に来た時と同じ、出口が近づいてくる予感に、アリスは安堵した。 「この穴を出て、まっすぐにすすむとすぐ白ウサギさんのおうちなんだよ。とちゅうでパレードがあるから、ちょっとややこしくかんじるときもあるけど」 「へぇ……」 穴を抜けると、喧騒が二人の耳に届く。相変わらず街は賑わっている。少女の言う通り、パレードが開かれているようだ。空から降る色とりどりの紙吹雪、リボン、人々の手拍子。日に翳したアリスの手にも、鮮やかな紙片が舞い降りた。祭りか何かか。 少女はパレードの中で立ち止まることはない。変わらず、ぐんぐんとアリスの手を引いていく。だから、アリスも立ち止まるわけにはいかず、足早に過ぎ去ったため、パレードについても言及することはなかった。 やがて、アリスにとって見覚えのある景色が近付いてくる。アリスは引かれる手をそのままに、少女に話しかけた。 「有り難う、君のおかげで迷わずに来られたよ」 「ヘアピンをくれたおれいだよ。これくらい」 「それでも感謝しているよ。ところで、君は何て言うんだい?」 「わたし?」 少女は歩む速度を抑えると、アリスに振り返って後ろ向きに歩き出した。子供らしく、少し危なっかしい素振り。頭にあるリボンカチューシャが揺れる。白いエプロンドレスが風に靡いて、眩しく光った。 少女はとても幸せそうな顔になって、大切に、卵を運ぶような慎重さを以て名前を口にした。 ――が、アリスはそれを聞き取ることが出来なかった。 「わたしはね、 「…………?」 少女の放った言葉はノイズが混じり、アリスの耳に届いた。アリスは、とても大切そうに名前を扱う少女に対し、申し訳なく思いながらもう一度訊き直した。「ごめん、名前のとこだけ聞き取れなかった」 「変ね。 「、」 ――聞こえない。 どうしても少女の名前だけが聞き取れない。その前後は難なく耳に届く。けれど、名前になるとノイズが混じって、母音さえ判別できない。こんなことが有り得るのか。 アリスの頭の中は混乱で一杯だった。突然、頭の中に直接響くノイズ。その薄気味悪さに悪寒が走っていた。 「あっ! おにいさん、前見て前! ついたよ」 「ああ、ほんとだ……よかった」 「ふふ。もしまたまよったら、えんりょなく声をかけてくれてだいじょーぶだからねっ」 アリスが前方に目を向けると、いつしか白ウサギの屋敷は目前に迫っていた。相変わらず、門の前にも、庭園の中にも人影は見当たらないが、スピーカーの向こうには今日もメアリアンがいるのだろう。アリスは言った。「有り難う。君、1人で帰れる? ……あれ」 しかし、アリスが礼を告げる筈だった相手はもうそこにはおらず、木の葉が風に舞うのみだった。アリスは頬を掻いた。結局、少女の名前は解らず仕舞いか。 その時、門が独りでに開いて、スピーカー越しの声をアリスは聞いた。 「ようこそ御越しくださいました、アリス様! メアリ・アンでなければメリーアンでもマリア・アンでもございませんことメアリアンです! どうぞ御入り下さいましっ」 底抜けの明るさは今日も変わらず、つまりは毎日こんな調子なのか。 そんなメアリアンの声音から、何故か先程までぱたぱたと駆けていた少女の姿を思い出す。アリスはくすりと笑うと、敷地内に歩を進めた。……また迷ったら遠慮なく、なんて言われても、彼女の名前も住処も分からないなら、全くどう頼って良いものやら。 |