【White Rabbit House】

木で作られた表札に書かれていた文字。その向こうに広がるのは真っ白な豪邸だった。黒く金属的な鋭い輝きを放つ門は大きく、その高さは青年の背の倍近くあるだろうか。表札のナチュラルさとのちぐはぐさが可笑しい。
兎の形をしたノッカーを打ち鳴らすと、門の上部についたスピーカーから、ジジッとノイズの起動音と共に、どたばたと駆けずり回る音が届く。その数秒後。

『はいっどちら様でございましょう』
「俺と、お友だちの2人。落とし物届けに来たんだけど」
『チェシャ猫様でございますねっ少々お待ちください』

元気の良い女声がノイズと共に切れ、門がゆっくりと左右に引く。綺麗に手入れされた白薔薇の庭園を抜けると、観音開きの白い門扉が開き、中から金の髪をおさげにした侍女が迎えた。

「いらっしゃいませこんにちはっ。メアリ・アンでなければメリーアンでもマリア・アンでもございませんことメアリアンです! 残念ながら当家の主人は留守にしておりますがどうぞごゆっくり。おもてなしいたしますっ……ほよ?」

べらべらと喋っていたメアリアンが舌を止めた。チェシャの脇に立つ青年に気づいて目を細める。身を乗り出した拍子にぱさりと太いおさげが降りて、ふわりと華の香りが漂った。

「ほ、本当にチェシャ猫様にお友達がいらしたのですね……ご冗談だと思ってついいつもの調子で挨拶してしまいました」

これは失礼しました、と佇まいを直す彼女に対し、猫がほんとに失礼だよね、と皮肉を返す。彼女は両足の踵をぴったり揃えて青年の前に立つと、エプロンドレスの胸に手を添えて深々とお辞儀した。

「先ほどは失礼いたしました。私は当家に使えるメイドでございます。メアリ・アンでなければメリー「それはさっき聞いたから!」



* * *



「主人はあと数分もすれば戻ると思います。それまでお待ちください。何か御座いましたら、そこのベルでお呼びください、近くにいるメイドがお伺いします」
「どうもー」

通された応接間は、外観とはうってかわって、赤を貴重とした華やかな作りだった。今2人の座るソファも、赤を主体に、金の装飾があしらわれている。ふかふかの座り心地は、一級品の証だ。

「飲み物はどうなさいます?」
「俺はオレンジジュース、君は?」
「……ブラックコーヒーとか、青汁とかとんでもない味じゃないなら何でも」
「かしこまりました」

メイドが要望を承けて厨房へと向かう。その動作はファミレスなどにいるウエイトレスを彷彿とさせる。メイドが廊下を曲がって見えなくなるのを確認してから、青年は話を切り出した。

「態々白ウサギに案内してもらう必要ってあるわけ?」
「……」
「こんなまどろっこしいことしてないで、まっすぐ会いに行けばいい」
「…………」
「おい?」

猫は顎に手を当てて、何やら考え込んでいる。

「 死 に た い の ? 」

「!?」

発せられた声があまりにも冷たいものだったことに吃驚して、青年は後ずさった。その拍子にテーブルの角に肘をぶつけて、痛みにまた混乱する。
じんじんと痛みが広がる肘を押さえたまま、青年が押し黙ると、タイミングよくメイドがやって来て、二人の前にグラスとティーカップ、アップルパイの乗った大皿と取り皿にフォークを並べていった。シナモンの香りと甘酸っぱい林檎の香りが部屋を満たしてゆく。
早速猫がアップルパイを2切れ、取り皿に載せて頬張る。

「ハートの女王様ってさ、この国でいっちばん大きなお城に住んでるんだけど」

もっちゃもっちゃとアップルパイを口に含みながら話し始める行儀の悪い猫を、青年は冷や汗の伝う青い顔で見た。猫の視線は大皿の上に残ったアップルパイに注がれている。

「だから、女王様のお城に行くのならばまあ簡単だ。すぐ見つかると思う。でも、その女王様自身が問題有りで。凄い人見知りっていうか? 知らない人がいきなり訪ねてったら首を跳ねちゃうんだよね。」

ざくり
次のパイにフォークが突き刺さる。切れ目からカスタードと林檎がはみ出す。

「因って、女王の部下であるウサギさんに約束を取り付けないといけないの。会いに行っていいですかー?」
「そんな巫山戯たお願いじゃあ通さねえよ馬鹿猫」

2人の会話に割って入った第三者の声は、応接間の入り口からだ。猫が立ち上がって、両手を広げて抱きつこうとするも、蹴り飛ばされて敵わない。
振り上げていた足が下ろされて、やっと全身が見えた人物に、青年は目を剥いた。

「お前、穴にいた……」
「「?」」

震える青年の声に、口喧嘩をしていた猫とウサギが振り返る。

「え、何々。君ピーターと会ったことあったの? こいつがさっきから追いかけてた白ウサギなわけだけど。」
「俺は初対面のつもりだ」

ピーターと呼ばれた男は長身(アリスよりも幾分高い)で、真っ白な髪にピンクの目をしていて、真っ白な服に身を包んでいる。その足には漆黒のロングブーツ。
その姿は正に、青年がこの国に来て初めて目にした人間だった。

「僕が目を覚まして、暗い道を迷っていたら、声がしたんだ『時間がない』とか『公爵夫人』とか。驚いてそっちを見たら、やたら真っ白い奴が時計を確認しながら走ってて、そいつ初めて見た人間だったから、追いかけて……気づいたら穴を落っこちてた」
「時計を持ってる上、やたら真っ白い奴って言ったら、ねえ?」
「俺以外有り得ないな」

苦笑するチェシャ猫。ぽりぽりと顔をかく白ウサギ。その剥き出しの手を見て猫が慌てて口を開いた。

「そうだそうだ、忘れるとこだった。俺らは君の手袋を届けるのを口実に来たんだよ」
「口実? じゃあ目的は?」
「ハートの女王に名前を貰いたいんだ」
「ハートの女王ねぇ……」

猫から白手袋を受け取って、ウサギはくるりと身を翻して青年の前まで歩み寄ると、青年を静かに見下ろした。

「名前を発行してほしいのは貴方ですね?」
「そうだけど」

先程まで猫に接していた尊大な態度と打って変わって恭しく接する白ウサギに若干怯む青年。
それを何故か不思議そうに白ウサギは首を傾げた。

「生憎、今は女王の機嫌が悪くてね、誰にも名前は発行しておりません。でも丁度、ひとつだけ空きがあります」
「名前なのに?」
「そうですね。おかしいですか?」
「……いや。それより、その名前をくれるんだ」
「条件付きではありますが」

条件、の単語に、青年の眉が跳ねる。リズム良く繋がっていた会話が切れる。
この話で挙がっている『女王』とはつまり、『ハートの女王』であることに間違いない。その女王の機嫌が悪いということは、チェシャから聞いた通りにいけば、迂闊に頼み事をすれば、首を跳ねられかねないのだろう。
暫し悩んだ後、青年は決心を固めた。

「条件って?」
「この名前の持ち主は今、行方不明なんです。どうか彼の方を見つけてください。勿論、見つけ出したら名前はその方に返上しますが、彼の方は女王の大のお気に入りです。その方と交換に頼めばいくらでも代わりの名前を発行して下さいますよ」
「……いいよ、呑む。で、その名前は?」

一拍、沈黙が場を制した。

「アリス」
「アリス……?」

訝しげに押し黙る青年――いや、アリスに、白ウサギが声をかける。

「文句なんて言ったら、女王に首を跳ねられてしまいますよ?」
「文句は、ないよ。……それにしても随分と笑えない冗談を言うんだね」
「冗談なら良かったですね」

クスクスと笑う白ウサギを猫は怒ったように見つめている。
一方、そんな様子に全く気が付かないアリスは、早速本来のアリスを探すべくして、白ウサギにアリスの外観や風貌やらを聞き出そうとしていたその時、白ウサギの上着のポケットから鐘の音が響いた。
その正体である、金の懐中時計を取り出して文字盤を読んだ白ウサギは至極残念そうな顔をした。

「もう12時か」

その一言を機に、窓の外の景色が一変する。晴れ渡っていた空は急速に夜の帳を下ろし、太陽の代わりに月が昇る。冷たい風が吹き込んできて、世界は一瞬にして暗い夜に包まれた。

「アリス、12時には魔法が解けてしまいます」
「何を言って……」
「甘いクリームのような夢は、それはそれは幸せなのでしょうけど、溺れてしまえば劇薬に変わるものです」
「夢? ちょっと、意味解らないんだけど」

アリスの投げ掛ける質問を悉く無視した白ウサギは最後ににっこりと笑んだ。

「硝子の靴は不要ですね」

パチン!

白ウサギが指を鳴らしたのと同時に、青年は真っ暗な闇に落ちていた。

「今日のお話はここまで」



* * *



真っ先に彼の脳へ伝えられた信号は、部屋の白さだった。白い天井、白い壁、それらをまだ寝惚けた頭でゆっくりと見回して、ようやく此処が自室だったと思い出す。

「おはよう、随分ぐっすりと眠ってたわ。起こすの躊躇っちゃった。楽しい夢でも視てた?」

カーテンの引かれた窓を背にして、ベッド脇に腰かけた女が問う。全体的に柔らかな雰囲気を持つ女性だ。彼女が首を傾げれば、香水の臭いが鼻を擽る。

「そうだね、わりと楽しかったよ。少なくとも、君といるこの空間よりはね」

逆光でよく見えないが、彼女は苦笑いを浮かべている。それも、今にも溜め息を吐きそうな様子で。

窓から差す光を恐れるように、彼は寝返りを打った。



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