朝の食堂で新聞を読みながらコーヒーを啜るおれの耳に、よく聞き慣れた笑い声が届く。新聞から目を離してちらりと笑い声の聞こえた方を見やれば、そこには楽しそうにじゃれるサッチとナナの姿。
「ほんと仲いいよなぁ、あの二人」
「実は出来てたりして」
「………」
ピシッ。近くに座っていたクルー達の声に思わず力が入ってしまい、持っていたカップにヒビが入ってしまった。そんな手元を見て舌打ちを一つ。突然席を立つおれに隣に座っていた誰かが何かを言っていたようだったが応える気にもなれず無視をした。
食堂を出てまっすぐ部屋に戻ると、そのままベッドへと倒れ込む。持っていた新聞はくしゃくしゃに丸めて放り投げ、天井の木目を見つめた。
「…………」
先程の出来事にもやもやと頭を支配されて眉間にしわが寄った。“ナナはおれの女だ”頭の中で何度も同じ言葉をループさせてはイラつきを募らせていく。
確かにわざわざ公言することじゃないと言ったのはおれだし、ナナも同意見だった。だからおれ達が恋人同士だと知るものは少ない。まさかそのせいでこんなにも憤りを感じる日が来るとは。
「マルコ部屋にいるの?」
「…、あぁ」
イラつきに任せて舌を打ち、目を瞑ろうとしたところで聞こえたノック音。訪問者はナナだ。入るよ、と一声あった後にドアが開きナナが部屋に入ってきた。
「マルコが二度寝なんて珍しいね」
「別にいいだろい」
「まぁ、そうだけど」
そう言いながらナナは勝手にベッドへと腰かける。
「もしかして機嫌悪い?」
「………」
「無視しないでよ」
「………」
仰向けだった体をごろりと動かしてナナに背を向ける。いい歳したおっさんが情けない、とは思いつつどうにも腹の虫がおさまらない。
おーい、と顔の前でひらひら手を振られてふと気付く。自分のものよりいくらか小さいその手の平には似つかわしくない匂いが張り付いていた。男物の整髪料の匂い。サッチのものだ。
それに気付いた瞬間、何かがプツンと音を立てて切れたような気がした。目の前にある手を掴んでナナを引き倒し、驚いて大きく開かれた目を上から覗き込む。
「お前は、」
「……?」
「おれじゃない男と噂になったり、そいつの匂いがしたり…」
「…、マル――」
「お前は…誰の女なんだよい」
ゆらゆら揺れる双眸を睨み付けて、腹に溜まったどす黒い感情を吐き出す。でもこれはその中のほんの一部にすぎない。これ以上吐き出せば感情のコントロールを失いそうで、喉まで出かかった醜い言葉は全部無理矢理飲み込んだ。その分、手に込もってしまった力はナナの細い手首を今にも握り潰してしまいそうだ。
痛いと歪められた顔にさえ苛つきを覚える。おれだって痛かった。
「…っ、マルコじゃない男ってサッチのこと?」
「……そうだよい」
思い当たる節があったのか、ついさっきまで不安気に揺れていた瞳が今は真っ直ぐにおれを見つめている。そして、その瞳からフッと力が抜かれると同時に、荒々しく波立っていた心がほんの少し冷静さを取り戻した。何をしてるんだ、おれは。
「嫌な思いさせてごめん」
「………」
「手、はなして」
素直に手を離せば、自由になったナナの両腕はおれの首に絡みつき自分の方へと抱き寄せた。されるがままに身を任せ、至近距離で交わる視線に目を細める。
「ねぇ、わたしはマルコのもの?」
「違うのかよい」
「ううん。違くない」
くすりと笑うナナに首を傾げる。
「いや、嬉しいなと思って」
「嬉しい?」
「うん。わたしばっかりマルコのこと好きなんだと思ってたから」
「そんなこと、」
「だってマルコあんまり好きって言ってくれないし、普段もそっけないんだもん」
「………」
何か言おうと口を開いたはいいが、おれは何も言い返せなかった。確かに自分の今までの態度を振り返れば冷たいところもあったかもしれない。それなのにおれは自分の事は棚にあげて嫉妬して。
「…悪かったよい」
「今までのことと今日のことでおあいこっていうのは?」
「あぁ」
「じゃあ仲直りね」
ちゅ、と可愛らしい音をたてて柔らかい唇が触れる。これが二人でする初めてのキスじゃないのに、今までで一番新鮮で照れ臭かった。
ブラックコーヒーに溶け込む