黒秤塔の図書館。ここで調べ物をしていたわたしの元へ何の前触れも無くシンドバッド王は現れた。きょろきょろと何かを探していると思いきや、わたしと目が合うなりにこりと微笑み近付いてきたのだ。隣の椅子を引き出して腰掛ける彼に何かご用ですかと尋ねれば気にせず作業を続けてくれとのこと。


「…王よ、何をしておられるのです」

「髪に触れている」

「何のために」

「君の髪はまるで絹のようだな」

「それでは答えになっていません」


 気にするな、とは言うものの至近距離でじっと見つめられたり髪を弄られていれば気にするなと言う方が無理なわけで。ちらりと盗み見るように視線を向けるが王は指先に絡めた髪に夢中なご様子。髪に触れているその長くて綺麗な指が時たま頬を掠める度にどぎまぎしているわたしの心情など知る由も無いのだろう。


「…お仕事は、どうされたんです?こんなところで油を売っていてはまたジャーファル様に叱られますよ」

「なに、ちょっとした息抜きさ」

「…息抜き、ですか」

「急にナナの顔が見たくなってね」

「…………、」


 …あぁ、冗談にしては質が悪すぎる。しかしそんな質の悪い冗談をさらりと受け流せるだけの器用さをわたしが持ち合わせている筈もなく、正直な頬は一気に熱を帯びて赤く染まった。
 違う。わかってる。ちゃんと冗談だってわかってるのに。自分自身に無意味な言い訳をして一人悶々とするわたしを知ってか知らずか、髪を弄っていた指先はするりと頬を撫でそのまま掌が頬に添えられた。金色の瞳がしっかりとわたしの目を捕らえる。


「どうやら俺は君に惚れているらしい」

「……っ、」


 もう本当に何を言っているんだこの人は。ほんの少し真剣味を増した彼の声音にいよいよ思考回路はその働きもままならなくなって焦りと困惑ばかりを伝達する。
 とりあえずこのままではだめだと思い、距離を取ろうと両腕を突っ張ってみたもののそれすらいとも簡単に捕らえられて。わたしの手を両手で包み込む様に握るその温度に目眩がした。


「は、離してください」

「ナナは俺が嫌いか?」

「この国に王を嫌う者などいません」

「王としてではなく、一人の男として」

「…な、」


 まるでぴたりと時間が止まってしまったかのようだった。言葉を発するどころか呼吸も思考も全てが停止する。窓から射し込む柔らかい陽の光だけが揺れるカーテンを通してゆらゆらと波打っていた。



「俺は一人の男としてナナを――」

「シン!」


 そんな中での突然の第三者の声にびくりと大袈裟に肩が跳ねる。顔だけを声の方に向ければ怖い顔をしたジャーファル様が音を立てて地面を踏みつけ、こちらに向かってくる姿が見えた。
 それを見て我に返った途端慌ただしく時は動き出し、まずい所を見られたと鼓動は一気にその速度を上げた。言葉を遮られた王はあからさまに大きな溜め息を吐いてわたしの手を離す。


「姿が見えないと思ったら、こんな所で女官を口説いてるなんて…!少しは弁えなさい!」

「ジャーファル、お前は本当にタイミングが悪いな…」

「ナナさん、馬鹿シンがご迷惑をお掛けしました。後でよく言って聞かせますので許してくださいね」

「いえ、そんな…!」


 行きますよ!とジャーファル様に耳を引っ張られながらも図書館を去る間際、王は声には出さず口だけで“待ってる”とわたしに言葉を残した。殆ど無意識のままその言葉に頷くと、王もまた優しい笑みを浮かべて小さく頷き図書館を去っていったのだった。


「…………どうしよう…」


 不意にそんな言葉が口から漏れて、ぐっと胸を押さえる。王達が去り元の静けさを取り戻した黒秤塔の図書館で、わたしの鼓動の音だけがドキドキとずっとうるさかった。






望んではいけないとわかってるのに






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