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 玉狛支部に居を移したつぐみは、玉狛第一のメンバーとして木崎の下につくこととなった。とは言っても、現ボーダー設立当初の人手不足の名残もあって、木崎・小南・迅はそれぞれ一人ずつを1部隊と計算して防衛任務が組まれている。つぐみはシフトに応じていずれかのメンバーとツーマンセルで任務に就くことになった。部隊として動くことが有事のときでもなければありえない状況であるので、実態を知ったつぐみが「玉狛きて大正解じゃん」とほくほく顔をしていたのが記憶に新しい。

 そもそも仲の良かった小南以外からも、おおむね彼女は歓迎された。入隊して1年も経たないつぐみであっても、迅に散々しごき上げられたおかげで人並み以上の働きもできたし、なにより料理ができた。これが大きい。そもそも、食事当番が割り振られる中で、迅と小南のレパートリーの偏りは玉狛支部の献立に多大な悪影響を及ぼしている。幼い頃から共働きの両親の代わりに食事の用意を受け持っていたつぐみは家庭料理であれば一通り作ることができたし、そのおかげで、カレーと鍋の頻度が週1から10日に1度ほど減った。玉狛の献立革命と語り継がれることになる出来事であった。

 転属後のばたつきもおさまったある朝、キッチンで朝食を用意していたつぐみに、彼女が車にはねられる未来を視た。思わずぎょっとした迅に気付き、「どうしたの変な顔して」と問いかけてくる。さほど可能性の高い未来でもなさそうと見て、彼女に伝えるのはやめておいた。視えた未来を何がしかと触れ回るのは流儀に反する。どうせ登下校のときは一緒なのだから、何かあるなら迅が止めればいい。ややあって、「なんでもない」と返した。不思議そうな顔をしながらも、つぐみは追及してはこない。かと思うと、手元に視線を落として、ぱっと目を見開いた。「ちょっと迅これ見て」と手招きされるまま覗き込むと、指差す先はフライパンだった。ベーコンエッグが二つ並んでいる。「こんなに綺麗に焼けたことない」と嬉しそうに笑った。

「え、まじ? 100万回くらい作ってんじゃないの?」
「それは盛りすぎ。そもそも朝は作ってなかったから、目玉焼きはレイジさんに教わったばっかりだよ」
「そうなの?」
「みんな起きてこないし、食べちゃお」

 機嫌が良さそうで何よりだと思った。笑顔が可愛いのは大事なことだから。

 結果的にはつつがなく登校できたし、その道すがら未来視と現実の景色を照らし合わせたところ、おそらく帰り道であろうことも分かった。滑り出しは上々だ。教室へ無事到着してから「三嶋、帰り何か予定ある?」と尋ねると、彼女はひとつ頷いた。

「今日実家戻る。ていうか嵐山家行く」
「え? は? なんで?」帰らないのかよ。それは読み逃した。

「いやー、おじさんとおばさんが遅くなるときは食卓を預かっておりまして」
「そんなことしてんの……」
「食べ盛りの中学生が二人いるのにコンビニ弁当とかはかわいそうじゃん。私もおばさんに大量の作り置き料理貰ったりしてるしたまには恩を返さないと」
「うーん……」つぐみは首を傾げるものの、いかんせん未来視のことがある。理由としては引き止めにくい。「ねえおれ、家まで送ってくよ今日」

「どうしたの急に。何かあった? ちょっと今日の迅変だよ」
「いいから。理由は後で話す」

 迅の硬い面持ちを見てか、わかったと承諾して、それから教室を出て行った。背中を見送る迅に、クラスメイトが「ちょっと迅!」と噛みついてくる。あぁなんか面倒くさいことになったなと未来視をしなくたって分かる。なんだよお、となかば呆れながら応対すると、横っ腹をつつきながら「いつの間に付き合ったんだよ」とニヤニヤされた。思わず迅の眉間に皺が寄る。

「いや、付き合ってないけど」
「うっそお。送ってくとか言ってるからてっきり」
「ほんと」
「面白そうだと思ったんだけどなあ……」残念そうに口を尖らせている。不意に、かれの未来が視えた。つぐみがかれに白い目を向けるさまだ。何だろう、と考え込むうち、再びかれが口を開く。「三嶋、鉄の処女って感じじゃん?」

 納得がいった。かれの言葉ではない。事の顛末にだ。ガラリと教室の引き戸が開き、おそらくはトイレにでも行っていたんだろうけれど、つぐみが戻ってくる。処女かどうかは知らないけれど、鉄の女とはいえない。車に轢かれれば死ぬだけだ。迅は内心、あーあと声を上げる。つぐみは一直線に迅の目の前へとやってきて、クラスメイトの男の顔をつまらなさそうに見上げる。

「そういうデリカシーのない話は誰もいないところでした方がいいよ」
「あ、はい」
「迅も乗らないの」
「乗ってはいないかな」
「ならよし。はい解散」
「ウィッス」

 やれやれといわんばかりの顔でつぐみが手を振る。揶揄ごときでは怒りの火花すら散らないらしい。

 授業を終えて、約束通り二人揃って、三嶋家への家路についた。校門を出て角をいくつか曲がり、下校する生徒の姿が少なくなってきた頃を見計らってか、つぐみが「で、どうしたのよ」と口火を切った。

「ああ、三嶋が車に撥ねられる未来が見えたから」迅も隠し立てはしないし、つぐみは驚かなかった。
「そんなことだろうとは思ったけど、今日なの?」
「たぶん。確定じゃないっぽいし、今日を乗り切ったら大丈夫じゃない?」
「なんでそんなに曖昧なの……」
「サイドエフェクトのせいだろうけど、おまえの未来読みにくいんだよね」
「それはもうしわけない」
「たぶんもうすぐ」

 あそこかな、と迅が指差す先には、未来視した通りの交差点があった。車通りはさほど多くなく、道幅も10メートルほどある。歩行者用の信号もある、いたって普通の横断歩道だ。「はねられる気配もないんだけど」「まあ何もないならそれに越したことはないけどさ」と会話をしながら横断歩道を待っていると、ふとつぐみが視線を逸らした。ちょうど歩いてきた道、迅とつぐみにとっては後ろからボールが転がってきた。あっ、と声を上げたのは迅だ。子供がボールを追い掛けて車道に飛び出す。

 錯綜する未来の光景がノイズのように襲いかかってくる。車に小さな身体が撥ね飛ばされる。無惨な死体が脳裏を掠めた。車にはねられるのはつぐみでもあり子供でもあり、ボールでもあった。確定しきれない未来に怯んだ迅とは対照的に、つぐみはぱっと振り返り、何かを確信したように道へと踊り出る。その手を掴もうとして、指の先がかすめた。

 つぐみが制服のポケットに手を突っ込んだ。駆け出したつぐみの身体がトリオン体に換装される。子供の背中を拾い上げて、抱き寄せたかと思うと、けたたましいブレーキ音と共にトラックが突っ込んできた。ゴムボールがタイヤに弾かれて破裂する。呆然としていた子供がはっとしたようにつぐみの顔をみて、それから、大きな声で泣き始める。「よかった。怖かったね」と子供の頭を撫でながら、怪我のないことを確認する。深く息をついたつぐみと、二人で子供と手をつなぎ、家まで送り届けた。迅もまたトリオン体に換装してしまえば、「子供を助けるためにトリガーを使ったボーダー隊員二人組」になる。在宅していた子供の母親は、つぐみの説明に一瞬は顔を青くしたものの、無事であることに安堵の声を漏らしていた。こんなとき、ボーダー隊員の肩書きは便利だ。

 あらためて帰宅する道すがら、二人揃って溜息をついた。とんだ心労を負った。「無事で良かった」と頭を掻いた迅に、つぐみは事もなげに「視えてたのに、そんな?」と返してくる。死ぬかもしれないと言われていたはずの人間のする顔じゃない。つい迅の顔も険しくなる。

「視えてたよ。おまえが撥ね飛ばされて死ぬのが」
「予知を覆しちゃったな」ふふ、とつぐみが笑う。悪びれたところもなく肩をすくめもした。「メチャクチャ考えたよ。いけると思ったから飛び出しちゃった」

「……換装が間に合わなかったりしたらどうするつもりだったんだよ」
「その時はその時。私もあの子も死ぬだけ」
「おれは止めようとも思ったんだ。でも止められなかった。未来ある子供と、ボーダー隊員の三嶋を天秤にかけた。三嶋は死ぬかもしれないけど、あの子は何にせよ助かるだろうってことだけは分かってた。だから行かせた。結果的にどちらも助かったけど、結果論すぎるだろ。あんまりだ」

 吐き捨てるように言った迅の言葉を受けて、つぐみがぴたりと足を止める。二、三歩進んだ先で迅も立ち止まる。振り返りはしなかった。何かを言いかけただろうつぐみの言葉をじっと待っている。遠く、町並みの向こうに夕焼けの空が見えた。雲の多い空だ。迅の正面にある東の空は、血だまりのように広がった雲の端が、夜の色に食いちぎられている。たまらず足元へ視線を落としうな垂れた迅の背に、「迅は間違ってない」とつぐみの声が突き刺さった。

「その選択は間違ってなんかない。いいじゃない、結果論。私もあの子も助かったんだから、それ以上いいことってないよ。それとも何が不満なの?」

 早口だった。急かされるように述べたつぐみに、「おまえが死んだとしても、そう断言できるの?」と問いかけたが、声には煩悶や苛立ちや、やり切れなさが滲んでいただろうと思う。聡いつぐみがそれを掬い取らないことを祈ったとしても徒労に過ぎない。――つぐみが、できると断言した。

「叶わなかったならそれまでだ。誰にも助けられなかったし、迅であってもそうだった。そういうことでしょう。他の誰が分からなかったとしても、私は知ってる。だから迅が悔やむ必要もない」
「何でそんなこと」
「私のサイドエフェクトがそう言ってるからね」

 振り返った迅に、つぐみが目を細めて片手を差し出した。子供らしいまるい輪郭には不釣合いな、慈しむような微笑だった。苛立ちが募る。未来が視えていても、視えるすべてを救うことなんてできやしない。迅は数ある可能性の分岐に対して、抗う力は些末なものに過ぎない。コンマ数秒の解像度で世界を観るつぐみの目に、迅の足掻きはどう映っているのだろうか。

 胸を突くような感情が、おそらく恋だということくらいは、まだ幼い迅にも理解できた。差し伸べられた手を握り締めると、トリオン体だというのに人らしい体温が滲んだ。離したくないと思った。つぐみから向けられるのがただの同情で、湧きあがる歓喜がただの感傷なら、きっと拗れてなんかいなかったはずだ。

 迅が視る未来に、二人が寄り添う姿はない。薄暗い、見覚えのないリビングルームで、夜更けに何かを語り、つぐみが唇を噛み締める。「わたしは」と動いた唇が、どんな言葉を続けるのかはまだ知らない。



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