次の防衛任務に向けての、形ばかりの打ち合わせを終えてラウンジへ出たところで、ちょうど愛と出くわした。どうやら負け越したらしい。苦虫を噛み潰したような顔で、ぎりぎりと歯ぎしりの聞こえてきそうなほど口元を歪めている。少し遅れて米屋もラウンジへ出てきたが、その顔色が随分と晴れやかだったから、おそらくは米屋にコテンパンにやられたんだろうと想像がついた。

 愛は俺の昔馴染みで、山猿のような女である。脛に傷、という程ではないが、今の彼女にしてみれば顔を覆いたくもなるような武勇伝がいくつもあって、俺はその全て良く知っている。ボーダーに入ってからも、同じアタッカーということもあって懇意にしていた。今でこそ俺は小隊を率いて、愛の方は一介のB級隊員でと立場が違えこそすれ、同い年の他の面子と比べれば、やはり親しい立ち位置にいることに変わりはない。

 愛のようなぎりぎりマスタークラスといったところの隊員から浚えるポイントなんてたかが知れているものの、とはいえポイントは二の次で対戦そのものが目的である米屋にしてみれば、そこそこ競り合ったいい試合だったらしい。猿めいた体さばきで攻撃を躱し、いなす愛を斬り伏せるのは至難の業であるから、米屋の顔色の理由も窺い知れる。逆に、躱すのは得意でも攻め入るまでのスキルに乏しい愛にしてみれば、さぞフラストレーションが溜まっていることだろう。思わず苦笑を漏らしてしまった。

 これは愚痴に付き合わされるな、と察して、俺と共にラウンジへやってきた隊の面々とは解散した。半崎が心底ダルそうな顔で「荒船さんも大変っすね」とかなんとかほざいている。穂苅と加賀美は、俺や愛と同い年ということもあって、またかとでも言いたげな様子だった。呆れ半分に去っていくチームメイトにかろうじて苦笑を返すほか、二の句が継げない。

 ドリンクの自販機にほど近いテーブルに、俺と愛と、米屋とが腰を下ろす。どうやら飲み物を賭けていたらしく、愛がのそのそと自販機へと向かって行った。「おまえらポイントの他に賭けるのやめろよ」と苦言を呈すと、米屋がケラケラと笑った。「いや、だって上尾センパイ、ポイントなんてどうでもいいって言うから」と答える。予想通りの返答だった。ポイントがどうでもいいのは、それこそ知ったこっちゃない。

 テーブルへと戻ってきた愛に「愛、おまえ何でも賭けにすんのやめろ」と言うと、ちっとも堪えていなさそうな様子で愛が肩をすくめた。「だってただやるのはつまんないじゃない」と言う。真面目な三輪がここにいなくて良かった。

 愛はテーブルに、米屋の分のコーラと、自分のココア、そしてもう一つコーヒーを置いた。「荒船のも買ってきたから、これでチャラにしてよ」と事も無げに言い、照れたような、何とも言い難い笑顔を向ける。

「ポイントとコーラごちです、上尾センパイ」茶化すような米屋の肩を、軽く握った拳で愛がはたいた。
「次こそその首はねてやるんだからね」
「超コエ〜」

 いつもこんな調子だった。未だに猿が抜けていないらしい。

 賞品のコーラを飲み終えると、米屋はヘラヘラと笑いながら席を立った。次の対戦相手を見繕いに行くのだろう。その背中を見送りながら、飲み終えた二人分の容器を手に取り立ち上がり、ため息混じりではあったが「この後俺ら、防衛任務があるからお前も来い」と伝える。背丈の低い愛が横目で俺を見上げると、まるでねめつけるような格好になった。

「荒船のとこの前のシフトって、A級だったっけ」

 愛が首を傾げた。気がかりなところでもあるのだろうが、原因には思い当たらない。二、三歩備え付けのゴミ箱に近寄ってから、手持ちの空き容器を投げ捨てる。するりと中に吸い込まれたのを見届けて、シフト表を思い返した。振り返ると、愛が席を移動していた。俺の横から、向かいへ腰掛け直している。こんな律儀な奴だったか、とも思うが、もう18の歳にもなれば、いかに野生児といえど、ある程度の律儀さをそなえるものなのかもしれない。

 同じように腰を下ろした俺を覗き込む愛の顔は、どちらかといえば、怪訝そうなものである。誤魔化すように「いや、カゲのとこ」と答えると、釈然としない面持ちで愛はなんとか頷いた。

「雅人のとこ、昼シフト久々じゃない?」
「さすがに高校生に夜勤だけってのは、アレだろ」
「それもそうだ。まあ、もうランク戦やるにも時間が遅いし、付き合うよ」
「じゃあ8時に。それまでに飯食っとけ」
「荒船は?」
「米屋ボコってから行く」
「精が出ますねえ」
「愛の仇を討たねえと」
「そんなキャラだっけ?」けらけらと愛が笑ったから、冗談だ、と言い含める。なにそれ、と愛が唇をとがらせた。俺の幼馴染は機嫌が顔によく出る。

 ふと、愛の視線が、俺の後方へと、肩越しに移ったのがわかった。その後愛は俺の顔――というよりは、帽子のつばのあたりを見遣って「じゃあ、また後で」と席を立つ。目線を合わせようとしないのは、何かを誤魔化すときの彼女の癖のようなものだった。踵を返したかと思うと、小走りで立ち去った愛と入れ違いのように、俺の肩を誰かが叩いた。振り返ると、数週ぶりに見た鋼と、カゲが顔を覗かせた。「……おう、久しぶり」とは応えたが、先ほどの愛の態度が腑に落ちて、しばらくぶりに会う友人に対する態度としては、少し素っ気さが滲んでしまった。まあ、鋼は鈍感な男だし、カゲに俺の上の空がバレてしまったところで野暮な突っ込みは入れられないだろう。

「今の愛か?」首を傾げるようにカゲが言った。いつも通りの高圧的な態度だが、いっそ清々しく思える。

「ああ。うちが夜シフトだろ? あいつ暇してるっていうから連れてくんだよ。そんで今から飯食いに行くとさ」
「精が出るなあ」ぼんやりとした、いつもの調子で村上が言うが、つい先ほど愛が似たような言い回しをしていたせいで、なんとも言えない気分になった。顔にも出ていたのかもしれないが、カゲの胡乱な視線が痛い。

「まあ、あいつフリーだし、たまにはいいだろ」
「あれがポイントなんか気にしたことあるかよ」カゲはというと、そう言って鼻で笑う。こいつの言い分も正しい。愛は自分の点数はおろか、マスタークラスに上がるとかそうでないとか、そんなことにも頓着していやしない。

「本人が行くって言ってるんだ。問題はないさ」と、村上。
「そうかい」
「お前は遊び相手が欲しいだけだろ」すまし顔のカゲの横っ腹をどついてやろうとはしたが、あっさりと避けられた。これだからこいつの体質は面倒くさい。
 
「つーか、出るならもっと早く来いよ。俺の代わりにうちのを連れてけって」
「おまえら似たもの同士だから無理だろ」
「うるせー」

 防衛任務が嫌いなのは、カゲも愛も似たようなものだ。今のような発言も、耳にしたのは一度や二度じゃない。「そんなに言うなら愛をお前の隊に入れたらいいんだ」そう言って村上が笑う。俺だって同じように思っている。愛の野生の勘は乱戦にも向いているし、カゲがフィニッシャーである以上、愛自身の決定力不足は、ソロ戦に比べて影響は小さい。おそらくカゲもそれは理解しているだろうに、いつものように「めんどくせえ」と言い捨て、カゲは適当な対戦相手を探しに、その場を後にしてしまった。恐らくは米屋が餌食になるだろうから、俺が出る幕はないかもしれない。

「ていうか影浦隊まだシフトの時間だろ。あいつ何してんだここで」残った鋼がテーブルについたところで指摘してやると、悪戯小僧のような苦笑で「面倒だから抜けてきたらしい」と答えた。思わず「ハァ?」とつっけんどんな相槌が飛び出す。「やっぱあいつの隊に愛入れろよ」

 呆れて物も言えない。村上だけが楽しそうに笑っている。

「まあ、あいつのことだから、愛が居れば対戦ふっかけられると思って来たんだろう。そのうち戻ってきて、俺が相手することになるんだろうな」
「ご愁傷様」
「他人事だなあ」
「俺はあいつらと違ってポイントが惜しいからな」
「そりゃ俺だって」
「弧月のポイント最近稼いでねえんだ」だからこそ、米屋か緑川か、慣れている奴から取れたら、と思っていた。
「愛とは?」
「最近はない。あいつ、俺相手だとやりにくいんだと」
「野生児相手のが強いからか」
「楽しさしか考えてねーのかと思ったけど、まあ、愛だしな」
「そうだな」

 それから、ひとしきり徘徊を終えて戻ってきたカゲに、村上と揃ってポイントをもぎ取られ、米屋をしばく気が本格的に失せてしまったのだった。


*


『ねえ荒船』

 通信越しに、愛の声がした。半崎や穂刈には繋がれていない。どうせ暇を持て余して俺に話しかけてきたのだと察する。「黙って定位置で待ってろ」と返すと、不服そうな返答が聞こえてきた。『私暇なんだけど』と彼女は言う。案の定だった。耳元を風が抜けていったので、ついでに聞こえないふりをしてやる。しばらくしてから『聞こえないフリすんな』を非難する声が届いた。

 俺と、残り二人の狙撃手が定位置につく。ほぼ全員がスナイパーであるから、他の隊に比べれば、防衛任務に掛かる労力は、実は少ない。愛が『私が見つけたら、みんな頑張ってね』と言うくらいだからなおさらそう思う。俺以外の隊員も優秀な狙撃手だから、それぞれが広く射程を取れる位置につきさえすれば、あとは近界民が現れるの待つばかりである。狙撃で削りきれなければ愛に暴れさせればいいからなおのこと楽だ。俺が狙撃手に転向する前もそうしていた。穂刈たちにしてみても馴染み深い戦い方だろう。正直なところ、愛をカゲの部隊に入れるよりかは、うちに欲しいと常々思っているものの、当の愛自身にその気がない。おそらく、ずっと叶わないままだろう。

「そういえばさっきカゲと会ったか?」不意に、繋がりっぱなの回線に向けて、問う。愛が向こうで『ああ』とも『うん』ともつかない返事をした。『見たけど、会ったかって言われたら、微妙』

「なんだそれ」
『何話したらいいかわかんない』
「模擬戦でもしてこいよ」
『嫌よ。輪をかけて攻撃当たんないんだもん』
「向こうもそれ思ってそうだけどな」
『ならなおさら』

 周りの建物よりもずっと高いビルの屋上で待機しているから、スコープを覗けば、民家の屋根に腰を下ろしている愛の姿が見えた。なんともつかない顔をしている。俺が覗き見ているとは予想だにしていないだろう愛が、ぐしゃぐしゃと頭を掻いているのが見えた。

『荒船』
「何だよ」
『雅人、私のこと何か言ってた?』
「俺の代わりに任務出ろって』
『何それ。お断りしたいんだけど』
「言っといた」
『さすが』

 また風が吹いた。ビル風が強い。愛が何か言ったようだが、俺の耳には届かず、代わりに加賀美から連絡が入った。『ゲート出現します! 一番近いのは……荒船くん!』

 了解、と一言返し、回線をオープンにする。バッグワームは既に起動している。愛を呼びつけて、自分はイーグレットを構えた。

「半崎は距離を取ったままでいい。斜線が通るように移動してくれ。穂苅は俺と一緒に愛を援護しろ」
『了解』
『ポイントに着いたら連絡します』
「愛はターゲットを発見し次第迎撃。仕留めるまでは狙わなくてもいい。俺と穂苅がいる。第二波があるかもしんねえから被弾はすんな。引っ掻き回せ」
『りょうかーい』

 スコープの向こうに、モールモッドが見えた。まだ一体。誘発されたゲートが出現する恐れもあった。いつでも迎撃できるように、半崎に哨戒体制を取らせる。『嫌な匂いがするなあ』とぼやいた愛の言葉が、やけに耳についた。

 愛がポイントにあと少しで到着するというところで、次のゲートが開いた。加賀美が指示した位置は、民家の上空、俺と半崎とのほぼ中間地点だった。『トリオン体反応多数! 3,4……5体のバンダーが出現します!』

『おーおー、今日は豪華だな』穂刈が呑気に返してくる。『俺の位置からだと狙いきれないぜ、これは』
「だろうな。穂刈は愛の援護を続行してくれ。まああいつのことだ、問題はないだろうけどな」
『了解』
『こっち終わったらバンダー殴りに行くね』
「おう。半崎は俺とバンダーを牽制。愛に砲撃が向かないようにすんぞ」
『了解。目を狙っても?』
「機会があればな。手数で押すぞ」
『ういっす』

 半崎へ指示を促したところで、ちょうど愛がモールモッドのいるポイントへ到着した。まだバンダーは愛に気づいていない。バンダーへ絶え間なく攻撃をしては、折を見てポイントを変える。何度か砲撃が飛んでくるが、追ってくる精度は高い訳じゃない。半崎の狙撃が1体の目を撃ち抜く。『バンダー1体、およびモールモッド撃破。』と加賀美から報告が入る。『愛さん、ポイントまでナビゲートします』賑やかですなあ、と愛がヘラヘラしているのが聞こえたので、おまえは後でしばく、と思いながら、追いすがるバンダーに距離を詰めながらトリガーを切り替える。腰に現れた弧月を抜いて構えると、2体目のバンダーに半崎の狙撃が命中した。

「サボってねえでとっとと出てこいよ」袋小路に追い込んだバンダーを斬りつけながら、通信越しではなく呼びかける。民家の影に人の気配がある。気づいたバンダーが振り返るのとほぼ同時に、その目をスコーピオンが穿った。「荒船隊長は助っ人をこき使うよね」と笑いながら、愛が姿を表す。

 結局、後続の近界民は現れず、周囲の警戒にあたっていた半崎が『上尾さんのあれはなんだったんすか』と述べたが、当の愛は「私は迅さんじゃないしなあ」とのんびり返している。

 余談ではあるけれども、その後本部に引き上げた俺たちのうち、愛だけがカゲにとっ捕まってランク戦のブースに連れ込まれていたから、愛の勘もあながち間違いではない。それが戻ってすぐ、まるで俺たちの任務が終わるのを待ち構えているようなタイミングだったものだから、愛を部隊に誘うことは、ついぞ出来ないままだった。

 しばらくしてから、ボコボコにされたらしく、グッタリした面持ちの愛と、面白くもなさそうないつもの仏頂面のカゲとがブースから出てきた。

 俺はラウンジで広げていた課題から顔を上げて、カゲと愛に手を挙げて見せる。会釈めいた仕草に気づいた二人がこちらにやってきた。すでにラウンジにはほとんど人影がない。深夜に差し掛かるのだから当然だろう。そんな時間にカゲがまだ本部にいる時点でどうかと思うし、つい口にも出してしまったが、しかしカゲはなんとも言えない顔で「ヒマ」と一言だけ答える。横で愛が「ヒマつぶしにボコられるこっちの身にもなってよ」とぼやいていた。それは俺も思う。

「つーかお前こそとっとと帰れ」

 俺の向かいの椅子を引き、どっかりと腰を下ろしたカゲが吐き捨てる。言わんとするところはわかった。俺たちはまだ高校生で、しかも明日は平日。当然ながら授業がある。「まあそうなんだけど」と俺は返す。「課題があって、ついでだし愛と片すことにしてたんだよ」

 カゲが横目で愛を見遣った。愛はというと「数学だけまだおわんないや」とヘラヘラしている。俺と愛は同じ高校に通っているが、カゲや村上は違う。愛が鞄から引っ張り出したテキストと俺の目の前のものとを覗き込みながら、カゲが顔をしかめて「うわ」と漏らした。真面目だなお前ら、とでも言いたいんだろう。

「俺らはこれ片したら仮眠して学校行く」
「ご苦労なこって」
「試験が近いんだよこっちは」
「ていうか、雅人ちゃんもお家に帰りなさいよ」からかうような愛の言い草に、カゲの眉がつり上がった。

 カゲが俺の目の前に、そして愛が俺の斜め前にいる。四人掛けのテーブルは、俺と愛の広げた参考書やテキストで埋まってしまった。カゲはというと「ヒマだっつってんだろ」と言って携帯をいじっている。ヒマなら帰ればいいのに、とも思うが、凶暴な生き物がおとなしく側にいる現状が珍しいから放っておいた。チラチラとカゲの様子を伺っている愛も、それは恐らく同じだろうと思う。

 カゲも俺も、口数が多くないから、愛が何かを口走らないかぎりは、このテーブルには沈黙があった。しばらくして、一通りの課題をこなし終え予習のためにパラパラとテキストに目を通していると、愛も同じく、解くべき問題を片付けたらしい。ぐっとテーブルの上で伸びをした。その拍子にするりとプリントの一枚が、愛の傍からすべり落ちる。あっ、と彼女が声を上げた。カゲがのそりと動き、床に着く前のプリントを拾い上げる。無言のまま愛にそれを手渡すと、苦笑のような、妙な表情の愛が受け取った。

 鋼かカゲか、どちらかに転ぶんだろうと、出会った当初からぼんやりと思っていた。好きな子ができたんだよね、と言って笑っていた、いつだかの愛の姿が浮かんでくる。あれがいつのことだかはもう忘れてしまったが、たしか俺は「こじれるのだけはゴメンだからな」とか、軽口を叩いたことだけは覚えている。今となっては、喉元を捻り潰されたような心地だった。己の発言を悔やむのは自分らしくないと、理解はしている。

「終わったのか」ふとカゲがつぶやいた。頷いた愛の顔には、少なからず眠気が滲んでいる。それもそうだろう。学校から帰ってきた後、ほとんどすぐに防衛任務について、それからようやく課題に手をつけたような有様だった。

「いっこわかんないとこあるから、荒船、明日教えてよ」開けたままのテキストにべったりと伏せて、愛が呻く。
「今は?」
「眠いから後で」
「そうだろうな。ブスになってんぞ」
「どうせ元からです〜」見えないくせに、と言って笑っている。

 がたん、と音がした。横を見やれば、カゲが腰を上げて、携帯の画面を見つめていた。「帰るの?」と愛が尋ねると、口を開くことはなく、ただ頷くだけだった。

「明日は?」愛が何も言わないでいるので、代わりに俺が、踵を返した背中に問いかける番だった。カゲは少し、迷うような沈黙を置いた後回し「家の手伝い」と一言だけ寄越した。「そっか」と相槌を打つ愛の声がやけに寂しげに響いたのは、おそらく気のせいではないと思う。

 カゲがラウンジを出た後、背中を見送るように見据えていた愛が「何だったんだろう」と呟いた。俺も同感ではあったが、邪推をするのも憚られて「暇だったんだろ」と当たり障りのない返答をするに留まった。

 納得したのかそうではないのか、表情からは伺いしれない。ただぼんやりと「学校行きたくないなあ」とのたまった。

 決して真面目な部類ではない彼女が俺と同じ学校を選んだ理由は、同学年中では俺しか知らない。おそらく愛をよく知ってい隊員の間でもそうだろう。同じクラスにいる犬飼あたりなら、愛の微妙な成績から察しはついているかもしれないが、強いて言ったとしてもそのくらい。試験や課題のことで泣きついてくるのは、いつも大抵俺だった。

「サボるとまた怒られんぞ」あくまで茶化すような口調で、愛の独り言に返す。愛はというと、眠たげな目をこすりながら、まだテーブル突っ伏している。

 手元に端末を取り出して仮眠室を予約し、愛のポケットに手を突っ込む。無抵抗のまま愛の持つ端末を見つけることができたので、彼女のアカウントからも同様の予約を取った。「寝るなら仮眠室に着いてからにしろよ。あとついでにシャワーも」俺がそう言ってやると、のそのそと愛が顔を上げた。「眠い」とただ返してくるのに呆れて、その頭を痛くはならない程度の力でひっぱたく。愛が一通りテキストやノートを片付けたのを見計らって、トリオン体でいるのをいいことに、眠気で力の抜けた体を担いだ。俵担ぎにされても愛が文句を言わないのは、これが初めのことでもなんでもない。手の焼ける幼馴染だった。

 愛を女性用の仮眠室へと放り込んでから、自分も予約していたブースへと向かった。朝にはまだ早いが、戦闘体を解除してしまえば、きっとすぐに寝入ってしまうだろう。同じように戦闘体のままだった愛も、おそらくそれは同じだ。

 シャワーを浴びてしまってから、設えられたベッドに飛び込むと、予想通り、欠伸をする間もなく眠気に襲われることとなった。

 次の日学校へ向かうと、一限目を終えたタイミングで犬飼がひょっこりと現れた。教室の入口から顔を覗かせながら「愛ちゃん知らない?」とのたまうが、昨晩から顔を合わせていないのだから、知るべくもない。そもそもクラスメイトは犬飼の方なのだから、俺に所在を尋ねるのはお門違いなのではとも思った。

「ゆうべ防衛任務の後仮眠室に投げてきたけど、来てないのか」と彼に問うと、犬飼は不審そうな顔で頷く。「来てないよ」と言う犬飼に礼を返して、制服のポケットから携帯を取り出した。着信がひとつもないのを確認して、メッセージアプリを呼び出す。宛先は愛だった。「寝坊か?」と一言だけ送信すると、何をしていたのかは知らないが、すぐに既読が知らされた。ややあって「さっき起きた」と返ってくる。

『せっかく課題やってたのにアホか』
『自分でもそう思う』
『ちゃんと来いよ』
『課題出しにくらいは』
『今すぐ来いバカ』
『了解』

 馬鹿みたいなやりとりをしてから、まだ教室から様子を伺っていた犬飼に「すぐ来るらしい」とだけ返すと、満足そうに頷いて顔を引っ込めた。その反応に違和感を覚え、席を立つ。

 廊下に出たところで犬飼の背中を見つけた。「愛の奴、なんかあったのか」そう呼びかけると、振り返った犬飼が「いや、何もないけど」と笑った。

「そろそろ試験でしょ。ただでさえ公欠ばっかりなんだし、来れるなら授業受けないと」と言う。もっともな言い分だったが、引っかかるところもある。

「あいつそんなに公欠多いか?」そもそもソロのB級隊員なのだから、ある程度は授業との兼ね合いもつくはずだ。つかつかと歩み寄る俺に、犬飼は「あれ? 最近よく休むよ。ウチの隊長の話だと、そろそろどこかの隊に入るか自分で作れって、あちこちの隊と合同で任務と訓練に出てるみたい」と首を傾げた。

「昨日も荒船隊と出てたんじゃなかった?」
「そうだけど、それ初耳」
「えっマジで? てっきりどの隊にも知らされてるもんだと」
「まあでも、不思議な話じゃないからな……あいつがあえて隠すメリットもないし」
「もしくは荒船に言うと隊に引っ張り込まれると思ってたとか」
「あり得る……」ウチの隊は編成が偏っているし、愛のようなタイプなら馴染みやすいんじゃないかと、常々思っていたところだった。「まあ、もしそうならカゲあたりも知らなさそうだな」

「本人に聞くのが一番じゃない?」
「そうだな。来たらこっちにも顔を出せって言っといてくれ」

「オッケー」ヘラヘラと犬飼が笑った。愉快そうな顔だった。「ほんと面倒見がいいよね。それとも、愛ちゃんだけ?」

 含みのある犬飼の問いかけに、つい顔をしかめた。「俺がいつからあいつの面倒見てると思ってんだよ」
「幼馴染だっけ?」
「あいつの親、成績には厳しいんだよ。チーム組んで成績落ちたなんてことになったら、ボーダー辞めろだなんてことになりかねない」
「どこも似たようなもんでしょ」部活みたいなもんだよ、と犬飼は笑う。部活にしちゃ物騒だけどな、と返すと声を上げて笑った。

「まあ、でも、口うるさい幼馴染だと思ってるだろうな」

 そう言った自分の声音に、少し驚いた。妙に寂しげだったからだ。犬飼には察されていないだろうかと伺い見ると、相変わらず食えない表情で「いいんじゃないの」と鷹揚な調子でいる。胸を撫で下ろしたい気分だった。

 二限目を知らせる鐘が鳴って、周りの生徒が教室へと吸い込まれていく。愛の姿はまだ見えない。犬飼が踵を返した。「じゃあ、愛ちゃんが来たら、伝えとくから」と言い去っていく背中に「頼む」と返すのがやっとだった。

 愛は、約束通り次の授業の間には間に合ったらしい。「間に合った」と短いメッセージが届いていたから、昼休みに顔を出した愛を連れて、購買へと向かった。

 適当な弁当をレジに出し、同じように精算を済ませた愛に「課題は出せたか?」と問いかける。寝不足のせいか、愛の顔には隈が浮いていた。一瞬だけ、悪いことをしたかもしれないと思い至ったが、俺が連絡を入れた頃には目を覚ましていたのだから、哀れんでやるいわれはない。愛はまだ眠そうな顔で頷いた。「天気がいいから、屋上に行こうか」と愛は言ったが、おそらく話題をすり替えられたんだろう。そんな気がする。

「なあ、愛」

 パンにかじりつく愛に声を掛けると、彼女は黙々と咀嚼を続けながら首をひねる。「どっかの隊に入る予定でもあるのか?」犬飼との会話を思い返しながら、そう尋ねると、愛は何も言わず、パンを飲み込んでからも、まだ口元をまごつかせていた。俺も先を急かす気はないから、その様子を横目で見遣りながら、弁当をつつく。

 おもむろにに口を開いた愛は「声掛けてもらったのは、生駒さんのとこかな」と答えた。「まあ入るつもりはないんだけどね」

「お前がチーム組まないの、おばさんのことがあるからだよな」ふと、昔馴染みの顔を思い浮かべる。俺の親とも親交があり、昔からよくしてもらっていたが、愛の成績に関しては、教育ママとまではいかないものの、維持を徹底させているのはよく知っている。ボーダーに入るときにもひと悶着あったはずだ。確かあのときは、俺が面倒見ますからとか、そんな虫のいいことを言った覚えがある。

 愛はううん、と唸った。否定するような調子ではない。「気にしてないって言ったら嘘になるけどさ。本当のところは、そうじゃない……と思う」
「と思う、って何だよ」歯切れの悪い愛に、語気が荒くなった。
「迷ってるんだよね」

 何を、とは言わなかった。俺もそれを問いただす気にはならない。愛の言葉を待つ間の沈黙が痛いが、こういう時に問い詰めたところで、つぐんだ口が開かないことは知っている。代わりの言葉見つけあぐねた。

「……じゃあ、俺のとこでもいいじゃねえか」

 ようやく絞り出したのは、どこか未練がましくもある一言だった。それを受け止める愛の横顔は、予想がついていたとでもいうのか、やけに穏やかに凪いでいる。珍しい表情だった。俺はその、遠くを見つめるような愛の横顔を注視する。目が離せなかった。幼馴染が、そんな大人びた顔をするのを、初めて目撃したからだ。

 いくらかの沈黙の後、愛が口を開いて言うからには「うん。ありがとう。どうしようもなくなったらそうするよ」ということだった。

「他にアテでもあるのか?」
「アテって訳じゃないよ。でも、入れた嬉しいところならある」愛がそう言ってはにかんだ。その様子を見て、ひとつの可能性に思い至った。

「影浦隊か」

 俺がそう指摘すると、ぱっと顔を上げて、愛が俺の顔を見遣る。驚いたように目を丸くしていた。照れるような苦笑浮かべている。「どうしてそう思う?」と、問い返された。お前がカゲに惚れてるからだろ、とは言えない。さすがにそこまでの無粋さは持ち合わせていない。

「何となく。でも、カゲのとこならやりやすいだろうと思う」
「まあ、荒船ならそう言うだろうなとは、私も思ってたよ」
「じゃあお前の入りたいとこってのは違うのか」
「うん。……まあ、荒船ならいいか」
「何がだ」
「絶対に誘われることなんてないし、いいよ。でも秘密にしといて」

 そう前置きしてから、ゆっくりと愛が口にした名前に、俺は目を見開いた。

「鈴鳴第一」

 まるで慈しむような響きに、俺は自分の勘違いを知った。



*



 鋼から『今日はランク戦やるのか』とメッセージが届いていたから、丁度いいタイミングだと、むしろ舌打ちしたい気分になった。『愛は行かないらしい』と返すと、既読がついてからしばらくした後『じゃあ今日来るのはカゲだけか』と返信が届いた。

「何でそうなるんだ」思わず掛けた電話の、第一声がそれだった。
『お前今日防衛任務も合同訓練も入ってないだろ。愛が来ないなら、着いてくる必要もないし』
「いや、行く」
『珍しいな』
「言っとくけど、俺はあいつの引率じゃねえからな」
『そうだったか』

 電話の向こうで、穏やかに鋼が笑う。昼休みが終わるぎりぎりの時間だからか、電話のこちら側も、向こうでも、ざわざわと人の声が騒がしかった。

 俺は顔をしかめながら、声色だけは努めて平時通りに「あいつ色んな隊に誘われてるらしいから、そろそろ休み時だろ」と言う。

『色んな隊に?』鋼が意外そうに声を上げた。『てっきりしばらくはソロでいるもんだと思ってたよ』
「俺も。今日犬飼から聞いた」
『まああいつくらいの実力があるなら、どこでもやって行けるだろ』
「そう思うなら鈴鳴で引き取ってやれよ」

 皮肉めいた響きにならないよう心がけてはいたが、棘のようなものは隠し切れなかった。しかしながら、鋼は俺の努力を知ってか知らずか、けらけらと愉快そうに笑う。『あいつが入りたいのは影浦隊じゃないのか』

「そう思うよな。違うらしいけど」
『他にどこがあるんだよ。荒船隊にいれるか?』
「そのうちな」
『ウチには入りたがらないだろうな』
「そうか」言わんとするところは分かる。良くも悪くも、鈴鳴第一は来馬さんありきのチームだ。そこに入りたいと思う愛の思うところは、おそらく、その輪の中に入りたいのだとか、そんなところだろう。ままならないものだ、と思う。

「……鋼、やっぱ俺今日行くのやめるわ」
『ああ。それならカゲにも伝えとく』
「悪い」

 いいよ、と電話口の向こうで、鋼が笑った。なんのしがらみもない声だった。

 俺の幼馴染は山猿みたいな女で、昔から言葉足らずだった。俺や、近所のガキどもを束ねてでかい顔をする一方で、悪戯小僧には鉄槌を下し、悪ガキがいれば地の果てまで追いかけてぶん殴るような奴で、そのくせ口下手だった。

「哲次はバカじゃないから楽でいいなあ」と、擦り傷まみれの顔で笑っていたこともあった。そんなだから、裏表のないところがカゲにとっても心地が良いだろうと思っていたし、誤解を恐れなくていいのだから、愛にとっても間違いじゃないと、そう考えていた。

 蓋を開けてみればそう上手くもいかないのだから、やきもきしていた俺は徒労終わり、今ではただただそれが悔しい。何だかんだ、愛の一番に理解者であると自負していたっていうのに、とんだ恥さらしだった。

 当の愛自身が「まあ、荒船なら私が雅人のこと好きだ思うんじゃないかって、想像はしてた」と笑っていたのだから始末に負えない。

 いつに間にか、俺が知っている愛ではなくなってしまったような、そんな気さえした。頭を乱暴に掻き毟る。早く昼休みなんて終わってしまえばいい。ついでに俺も幼馴染離れをする時間だ。

 先ほどしまい込んだばかりの携帯電話再度取り出し、愛へメッセージを送る。『お前今日暇だろ。課題付き合え』

 放課後になって、図書室でテキストを広げていると、背後から肩を叩く人影があった。振り返ると、愛がのっそりと顔を出す。「珍しいね、荒船からお誘いなんて」と笑っている。

「まあな。いいだろ、たまには」
「私への気遣いなわけ?」
「だったらどうする」自分口元がへの字を描いている自覚はあった。
「そりゃ嬉しいよ」そう言って愛がくすぐったそうに笑う。

 俺の隣に腰を下ろし、愛も同様にテキストを広げた。まだ真っ白のままのノートが眩しい。「まあでも、最近はちょっと疲れてたし、ちょうどいいよ」

「犬飼から聞いた」
「ああ、部隊に入れってやつ? 忍田さんがね、やかましいのよ」
「だろうな。マスタークラスも目前だってのに、いつまでもプラプラさせておく訳にもいかねえだろ」
「昔は当真もいたのになあ」
「アレと一緒にすんな。一人じゃポイント取れねえ癖に」
「耳が痛い」ため息のように愛が笑った。

 こうして小声で会話をしていてもお咎めがないのはただありがたかった。俺達以外の生徒がいないせいで、司書の職員に咎められることもない。教室という空間ではあまりにもプライベートの空気が強く、ともすれば愛を糾弾したくなったときに堪え切れる自信がなかった。

「フリーも結構楽しかったんだけどなあ」と、やけにのんびりとした口調で愛が言った。

「ボーダー辞めるとか言わないだろうな」
「ん? ああ、それはないよ」
「入るアテは?」
「生駒さんとこに行ってもいいかなって思ってるよ」
「あっちに行くくらいならウチに来いよ」
「それも楽しそう」そこで愛が、数式を埋める手を止めた。「でもそろそろ私も独り立ちしなきゃって、そうも思うんだよね」
「関係ねえよ」
「そりゃ私達にはね。でもお母さんがさ、きっと言うよ。『アンタいつまで哲次くんにお世話になるのよ』とかなんとか」
「想像はつくけど。だから何だってんだ。やりたいようにやりゃいいだろ」
「そうだね……」

 そこで愛が言葉を切った。逡巡するように天井を仰ぎ見ている。「もしかして私、荒船にそう言ってもらいたかったのかも」

 その様子を横目で伺い見ていた俺は、存外に穏やかな口調に拍子抜けすることとなった。愛はそんな俺には目もくれず「おんなじこと、澄晴にも言われたんだけどね。あと鋼くんにも」と、そう続けた。

「鋼が?」
「うん。今日の昼かな。電話が掛かってきてね」昼、と言った。俺との会話の後だろうか。そうか、とただ相槌を打つしかない。「でも、やっぱり言えなかったなあ。鈴鳴には入れないや」

「それはどういう意味でだ」
「私が意気地なしって話」
「昔からそうだろ」
「そうだね。荒船しか知らないけど」
「お前はそういう奴だよ」

 参ったなあ、と愛が呟いた。再びノートに向かい、ペンを取ったが、しばらくその手が動くことはなかった。そりゃそうだ。こんなとき、愛はいつも泣いている。お節介を焼くこともできたし、いつもならきっとそうしていただろうとは思ったけれど、どうしてもそんな気は起きなかった。愛が洟をすするまで、俺は右手を持て余したままでいた。



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