喫煙所によく見知った顔があった。足音を殺して後ろから忍び寄り肩を叩いたが、灰皿を前にしたベンチに浅く腰掛け暑さのためかぐったりと背もたれに身体を預けている彼女は、犯人は分かりきっているんですよとでも言わんばかりの気だるさで振り返った。へらへらしているおれの顔を見上げて、彼女は、やっぱりかと呆れたように薄く笑う。

「やっぱりかって、何だよ。つれないな」
「私の反応が薄いことなんて分かりきってたでしょうに」
「まあ、マグロじゃないからこの際多めに見よう」
「脳みそ股間についてんじゃないの? あとばかでしょ」

 言い捨てながら、愛が吸いさしを灰皿に投げ入れる。張られた水に煙草が沈み、じゅっ、と音を立てて煙が掻き消えた。

 おれはベンチに――彼女の隣に腰を下ろす。同じように浅く腰掛け、ポケットからソフトケースを取り出し煙草を口に咥えると、隣からライターが飛んできた。受け取り火を点け、愛に投げ返す。雑な気遣いだなと思い、笑みを噛み殺した。火を差し出してくるような仕草は確かに似合わない。

 「授業は?」と問う。愛はおれと歳こそ同じであるものの、1年の浪人期間を経てついこの春に入学してきたばかり。確かこの時間には必修科目が入っていたはずだ。この時間に喫煙所で鉢合わせたことはまだない。

「さぼった。遅刻する時間に着いたし」
「単位危なくなっても知らねえぞ?」
「太刀川が言うと説得力あるね」
「そう、先達の言うことは聞くもんだ」
「反面教師だわ」けたけたと笑う愛を肘で小突く。耳が痛いのを誤魔化したかったからだ。

「太刀川は次のコマだっけ」
「そう、必修。おまえも取ってただろ」
「残念ながら。でも友達に、行くって言っちゃった」
「じゃあ出るんだな」
「はぁい」

「暇だから、太刀川が来てくれて良かったよ」愛がまた、吸い殻を灰皿に投げた。ついさっきもそうだったが、というよりいつものことなのだけれど、この女は煙草を吸いきってしまわない。フィルターから1センチ、あるいは2センチ弱を残して捨てる。「だってまずいじゃん」といつだかのたまっていたのを覚えているが、だからか、女にしては重い煙草を好んで吸う。オッサン臭いと言ったら「オッサンはこんな勿体無い吸い方なんかしないさ」と返された。確かにそうだと頷いた。偏見であることは否めない。

 そしてとうとう次の煙草に火を点けたが、おれがここへ来てからもう3本目になる。

「吸いすぎじゃねーのそれ。おまえいつもそんなに吸わないだろう」
「太刀川がいるからイライラする」
「さっきと逆のこと言ってんな」
「根本的には嫌いなんだよね」
「好きなくせに」
「言ってろ」
「俺たしかおまえの先輩だったはずなんだけどな」
「歳は一緒だし」
「落とした単位の数が違う」
「胸を張るようなことじゃないわ」

 そりゃそうだ。


 フィルター間際まで灰にしてしまった煙草を灰皿に投げた。昼に近いせいか、水にはもう何本も吸い殻が浮いている。ソフトケースから次の煙草を取り口に咥えたところで、授業の終了の鐘が鳴った。ちらりと隣を一瞥すると、吸いかけの煙草を投げ捨て、愛が立ち上がった。「私、先行くよ」と言って、こちらには目もくれず、喫煙所を立ち去る。思い切りのいい女だ。おれは黙って頷き返し煙草に火を点けた。これを吸い終える頃には授業が始まってしまうだろうが、それはまあいい。夏の始めはだいたいどこも教室に学生はまばらで、遅れたところで席につきはぐることもない。おれは呑気なたちではないけれど、悠長なのは確かだった。

 灰皿に浮かぶ妙に長い吸いさしを見やると、愛に初めて声を掛けたときのことを思い出した。喫煙所にやって来るメンツなんていつも決まりきっているようなものだったから、以前から愛の顔は知っていた。小賢しい顔をした女だと思っていた。点けたばかりの煙草を躊躇いもなく投げる様子を目にして、小賢しいのか阿呆なのかと興味が湧いて声を掛けたのだった。確か「おまえ、それ捨てるんなら俺にくれよ」と、今にしてみれば随分と図々しいことをのたまった。おれもおれだが「乞食じゃないんだから」と言って大笑いした愛も愛だ。だからこそ気が合ったのかもしれない。

 それからしばらく、喫煙所で顔を合わせては会話を交わした。話といっても詮無い世間話程度でしかなかった。おれは自分がボーダーに所属していることも明かさなかったし、その必要性もないだろうと思っていた。彼女は彼女で自分の内面や近しい身内のことは積極的に話そうとしていなかったから、まあ、トントンといったところ。とあるきっかけからおれがボーダーの隊員であることを知ってもさして驚かなかったし、気にも留めていなかったから、もしかすると最初からおれに興味がなかったのかもしれない。ボーダーと言えばあれやこれやと口やかましく尋ねられるのが常で、おまけにおれはどうやら人目を引くタイプであるようなので、逆に彼女のそういった無関心が気に入った

 そんな、彼女が、一度だけ尋ねてきたことがあったが、それも「なんかすごいらしいじゃん?」と、ばかみたいにざっくりとした質問だったから、落胆するよりもむしろ拍子抜けした。思わず「何が?」と問い返してしまった。愛はいつものとぼけた表情で「ボーダーで」と答え、そして「友達が騒いでた」と付け加えた。

 おれは確か、嵐山を引き合いに出して、あいつはもっと騒がれるらしいぜとか、そんなことを言った気がする。愛は興味なさげな様子で、へぇとただ一度、生返事のような相槌を打った。要するに言いたいのは、おれがボーダーでやり手でスゲーってことではなく、友達がおれがどうこうと騒いでいたことの方らしい。「何、ヤキモチでも焼いてんの」と問えば隠しだてすることなく嫌悪感を露わにしたから、たぶんそっちでアタリだったはず。「どうでもいいじゃんね、そんなこと。ここで煙草スパスパしながら喋ってんのは、ボーダーの太刀川じゃなくてただのヒゲモジャなんだしさ」と呟いていたから、おれはより一層彼女を気に入ったのだった。


 おれのことを、愛がどう思っているのかは知らないが、特に嫌いでもなければ執着するほど好きという訳はないだろうと踏んでいる。もともと気さくで、来るもの拒まずのところがあったのではなかろうか。おれが彼女に初めて声を掛けてからさして長い時間を経てもいないけれど、一人暮らしの彼女の家にアポなしで訪問しても嫌な顔をされることはなかったし、入り浸っていたら合鍵も渡された。

 おれにしてみれば気が楽な奴と雑談ができて、大学も近くて、寛いでいても文句をつけられることはないし、たまにセックスもできて文句なし。戦うのが大好きでボーダーにいるけれど、ボーダーのことを考えなくていいここも気に入っていて、愛がいて、口やかましい恋人付き合いからも解放されてむしろ万々歳。

 愛はなんでもないような顔をしていて「男のパンツがベランダにぶら下がってた方が安全じゃんか」と言っていた。冬の売れ残りの雪見だいふくを大量に購入してきて「買いすぎた。太刀川モチ好きなんでしょ? 片付けるの手伝ってよ」とも言っていた。愛は彼女なりにおれを受け入れているのだろうと思うし、そう思いたい。あまりにも居心地が良すぎた。

 風間さんあたりはこういうグダグダしたのが嫌いそうだから打ち明けてはいないけれど、同じ部隊の出水や、三輪のところの米屋なんかにこの話をしたところ「あーなんかそれっぽい。大学生っぽい」とアホみたいな褒め方をした。たぶん褒められたことじゃないので、のちのち痛い目を見たらきちんと奴らに話して、経験者の知恵として忠告しておきたいなと、そう思っている。どうせこんな楽チンで素晴らしく怠惰な状況は長続きしない。そんなもんだ。


 そうやって色々なものを、状況をだぶつかせていたツケは、思っていたよりもずっと早くやって来た。

 基地での防衛任務と、訓練と、個人的なランク戦とをこなし、疲労に反して昂ぶったままの精神を抱えて愛の家へと向かった。彼女が在宅か否かは知らない。連絡もせず訪ねることも多々あったし、合鍵を使って入り込むこともあった。家にいるなら相手をしてもらえばいい。不在ならば帰ってくるまでに夕食でも拵えて待っている。既に生活費は折半していたから、困るとすれば――万に一つという可能性であるけれども、彼女が男を連れ込んでいる場面に遭遇することくらい。

 今日くらいは連絡を入れてやるかと、気まぐれに「今から行くわ」とメールを送り、直後にドアを叩いた。全く意味のない連絡だなと自分でも思い至った。が、まあ、この際形が大事なのだ。

 案の定ドアを開けた愛はどんぐりまなこで「来ると思ってなかった」とのたまった。髪が濡れている。しずくは垂れておらず、生乾きのようにも見えた。シャワーでも浴びていたってんならメールに気がつかなくても当然であるし、そもそも彼女は筆不精で、送ったメールに返信がつくことが稀だった。

 おれを玄関へと通しながら、愛はちらりと室内を伺い見た。「夕飯は?」と問いかけてくる。おれは首を振り「まだ。キッチン借りてもいいか?」と答え、尋ね返す。ガチャリとドアがやけに重苦しい音を立てて閉じた。

 部屋の中へと一足先に引っ込んだ愛の、髪を上げた襟足にタオルが引っ掛けられている。嗅ぎ慣れたシャンプーとボディソープの香りがした。それがあったから気づいたのかもしれない。よく知った部屋はいつもと違う匂いがした。初めて嗅ぐ匂いだった。おそらくは、おれのものでもなければ愛のものでもない煙草。メンソールの匂い。

 「誰か友達でも来てたのか」と尋ねる。おれはいつものようにベッドに腰を下ろすことはせず――なぜか躊躇われたから――立ち尽くしたまま。愛は気に留めることなく、ベッドに身を投げおれを見上げている。「なんで分かったの」と微笑んだ。「煙草の匂い。メンソールは俺もおまえも吸わない」そう答えると、犬みたいと言っていっそう笑った。身を起こした愛は、様子を伺うようにじっとおれの顔を見つめているが、おれは彼女と目を合わせない。つま先を眺めるのは性に合わない。フローリングの杢目に目を落としていた。

「犬かもな。家には帰らないけど」
「ここには居着いてるじゃない」
「野良犬みたいに言うな」
「捨て犬を拾ったんだから褒めてよ」
「俺は多分、新顔と喧嘩するタイプだな」

 腰を――床に、下ろして、煙草を取り出した。灰皿にはやはり、ここで見ることのない銘柄の吸いさしが転がっていた。文句をつける訳じゃない。文句を言えるような立場ではない。おれはただの、ここに立ち寄り居着いているだけの野良犬に過ぎない。

 おれは煙草をふかしてばかりいて、愛は口をつぐみ、ざらざらとした沈黙が流れた。この家の居心地がこんなに悪いのは初めてだった。楽だから、心地が良いからこそ、ここにいたっていうのに。


 次に愛が口を開いたのはおれが吸っていた煙草をすっかり灰にしてしまって二本目に火をつけたときだった。「私ら、ずっとこうしてるけどさ。なんなんだろね」なんでもないようないつものような調子ではあったけれど、声色は曇り感情が読めない。おれは煙草の火をじっと見つめている。愛の顔色は伺わなかった。彼女が何を考えているのかを自分の感情の考慮に入れたくなかったからだ。散々悩んでどれほど時間が経ったかは分からないが、とにかくおれは「俺はここにいたいからいるんだ」とだけ答えた。どうしようもない、場つなぎのような返答だった。

 結局おれは夕食を作り愛と共に平らげて、一緒に眠り、いつものように家を出た。いつの間にか増えていたおれの私物を引き払う気にはなれなかったが、おれは足が向かなくなって、それからしばらく彼女と顔を合わせることはなかった。



 愛と会わない時間のうちに、おれには彼女が出来たり、別れたり、あるいはふられたりを何度か繰り返した。退屈だった。ボーダーの仕事は楽しかったし、遠征へと出れば日常は任務の中にすっかり埋没して愛のことを思い出すこともなかった。その程度といえばそうなのだろう。おれは愛がいなくても戦える。授業にも出る。夜もしっかりと眠りに就く。全て上手くいくことにおれはむしろ落胆したほどだった。おれの中で、愛は既にかけがえのないパーツになっていると、心の底では期待していた。現実は無情だった。おれはおれだけで完結し、歯車は回る。一寸の狂いもなく。

 だからこれはあくまでもおれの中の、ただの余興のようなものであったのだとあらかじめ言い置いておく。

 おれが愛と会わなくなってからもう随分と経った頃、授業もないオフの日であるにも関わらず気まぐれに大学に赴いた。向かったのは喫煙所。おれと、愛が会った、あの場所である。

 愛がいないはずの時間を見計らって、ベンチに浅く腰をかけ、一服した。フィルターから2センチといったところで吸いさしを灰皿へと投げ捨てた。自分の周りから煙が晴れては掻き消える。馴染んだ煙草の香りが遠ざかった。

 そこでふと、隣から香る煙草の匂いに気がつく。そこにいるのはおれの知り合いでもなければ顔見知りですらなかったけれども、その香りは知っていた。嗅いだのは、おそらく愛の家で。メンソールの残り香を思い出した。

 ちらりと見やると男と目が合った。すぐに視線は外れていったが、彼の口元から吸いさしの灰が落ち手の中の携帯電話に降りかかる。あーあ、と思ったのは、きっとあちらも同じだっただろう。乱雑な手つきで灰を払い、彼は携帯電話に目を落とし俯いた。それを見てふと思い立ち自分の携帯電話をポケットから取り出した。

 メールの画面を開き愛に向けてメッセージを送る。 「今どこ?」という、簡潔にも程がある文面だった。けど、きっと愛なら分かってくれるだろう。おれはそう思っていたし、実際にその予想は当たった。ほどなくして「喫煙所に行くから待ってて」と返信が届いた。思わず息をつき安堵したけれど、賭けは本当のところ、ここからが本番だった。

 例えば、隣でメンソールの煙草を吸っている男があの日愛の家に匂いを染み付かせていったのと同じ人間だったら、とか。そして隣の男が愛と“付き合って”いたら、とか。ここへやってきた愛が、おれとの挨拶もそこそこに、隣の男と合流したら、とか。色々なことが頭を過った。どれも全て、一切の例外もなく女々しかった。自信がないからじゃない。ただただ、おれと愛との間には名前のない関係性が横臥していて、おそらくそれは砂の城のようなものだと、そう理解していたせいだ。自覚した。おれは名前のある関係を欲している。


 愛はすぐにやってきて、いつもの、あの慣れ親しんだ、何を考えてるのか何も考えていないのかまるでつかめない飄々とした表情で、久しぶりと言ってへらへらと笑った。視線はつつと隣に滑りやあと声を掛け、どうやら親しげな様子ではあるものの、物言いたげな顔をする男を置き去りにして愛はおれの隣――男とは、逆の側に腰を下ろした。

 鞄の中から彼女が取り出したのは、いつも見ていた銘柄ではなかった。ボックスの――おれと同じもの。おれの視線に気づいたらしい愛は、唇を尖らせながら「匂いがね、落ち着かないのよ」と弁明した。「ばかみたいなんだよ、ほんとに。嘘でしょって自分でも思うわけ。何にもうまくいかない」そう、早口で捲し立てている。やがて諦めたように口をつぐみ、その代わりに煙草に火をつけた。

「煙草、二箱ずつ買ってんの」煙と一緒に吐き出した言葉は、おそらくあの男には聞こえていまい。「重症だな、おまえ。気味がいい」おれが笑ったから、愛も笑った。


「太刀川がいないから、アイスが減らないんだよ。冷凍庫空けたいんだけど」
「雪見だいふくくらい食えるだろ。分け合う友達もいないのか」
「いないから減らないんじゃん」
「そりゃ大変だな」

 そんなあほみたいなやりとりがあって、愛の住む、おれのいた家へともつれ込んだ。午後の講義はすっぽかした。こんなことを言えば、きっと色んな人から怒られるんだろうが、つまるところそれどころじゃなかったのだ。

 玄関のドアを開けた愛を押し込めるようにして室内に入った。息を吸い込めばよくよく知った香りがする。匂いの強さで、ここに居た人間がどんな煙草を、どれだけ吸っていたかがよく分かる。

 靴を脱ぎ散らかして、ベッドに愛を放り投げ押し付けて、噛み付くようにキスをした。というか実際に噛み付いた。犬みたいと言って愛が、微笑むように表情を崩した。唇はスパイシーとフォローもできない程に辛い。灰皿を見やれば、フィルターぎりぎりの長さの吸い殻が、2種類、積み重なって山になっていた。「おまえ煙草吸いすぎ」と言うと、顰めっ面がそっぽを向いた。誰のせいでと文句をつける唇をまた塞いで、舐めて、舌を滑り込ませて、かき上げた髪から覗いた耳朶をくすぐって、ようやく愛の身体から強張るような力が抜けていった。決定打を放つなら今だ。

 本当はずっとおまえのことが好きだったよ、と言ったおれに、私もと返した愛の声がやけに震えていた。泣きたいのか泣いているのか、どちらなのかは分からなかった。目を閉じて、またキスをしたから。



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