神田さん、って呼んでたのが神田先輩って呼ぶようになって、今度はユウ先輩って呼びたくなった。神田先輩のことを下の名前で呼ぶ人は神田先輩にとって特別な人だけだと、わたしは知っていたからだ。
神田先輩の特別になりたい。そう思ったのは、いつからだったのか。全く分からないけれど、神田先輩はわたしの気付かない内にじわじわとわたしの中に染み入って、遂には先輩で頭をいっぱいにしてしまった。先輩に会える週に2回のサークル活動には毎回顔を出したし、先輩とたくさん話をしようとした。緊張のせいで上手く話せなかったりして落ち込むと、先輩は口の端を少しだけ上げて笑ってくれた。逃げねえからゆっくり話せよ、って。顔が熱くなって余計にあたふたしているのを見て先輩は更に笑うのだ。先輩は確信犯に違いない。わたしがこんなにも先輩を想っていることを知っている。
わたしが顔を赤くして先輩を見る。先輩もこっちを見ている。どうしようか、言ってしまおうか。そう思った時にはいつも、先輩はふいっと視線を逸らしてしまう。だから、わたしは伝えることが出来ない。きっとこの想いを伝えられることは先輩にとって迷惑なのだ。溶けきってとろとろとこぼれ落ちていくこの気持ちの行き先が無いことに、わたしはいつも悲しくて、視線を逸らす。



「夏祭り行こーさ!」

突然部室のドアが大きく開かれたかと思うと、幽霊部員であるラビ先輩が立っていた。部室に早めに集まっていた部員たちはみな唖然としていた。ラビ先輩を、わたしは新入生歓迎のお花見と飲み会でしか見たことがない。

「8月22日にあるやつ!夏休みだし、みんな予定空けとけよ!」

じゃっ!って言って、風のように先輩は走っていってしまった。残された部員たちの間にはほんの少しの静寂の後すぐにざわめきが起こった。

ざわめきの内容は主にふたつ。
まずひとつに、夏祭りほんとに行くのか?というもの。気まぐれな先輩のことだ、冗談かもしれない。だいたい22日に開催されるお祭りなんて本当にあるのか、みんな知らなかった。
その次に、あの人誰だ?というもの。わたしと同じ1回生で少し入部が遅かった子の中には、まだラビ先輩に会ったことが無かった子もちらほら居たようだった。
嵐のようにやってきたラビ先輩は一瞬でわたしの心も掻き乱していった。神田先輩も、来るのかな。



***


「みんなテストにレポートお疲れー!」

8月22日、本当にわたし達はお祭りが開かれている河川敷に居た。1週間前にラビ先輩から届いたメールにあった「全員浴衣着用」の文字に、急いで浴衣を新調した。バイト代のほとんどを使ってしまったけれど、紺地に赤色の金魚柄、白のふわふわした帯を巻いた姿を鏡で見ると、なんだかいつもより上手に笑えた。

ラビ先輩はあんなオレンジの髪に眼帯までしているのに、意外と浴衣が似合っていて驚く。真っ黒の浴衣が楽しそうにきらきらする横顔を引き立てていた。


神田先輩、
なるべく自然に辺りを見回すと、居た。他の部員と話しながら屋台の前に立っている。藍色っぽいような黒っぽいような色をした浴衣はなんとなく先輩に似ていた。そこに居るはずなのにいざ向き直ると闇に紛れてしまっていそうなのだ。掴もうとすると居ない、見たいのに見れない。逸らしたくないのに逸らしてしまう。


少しすると部員が列を作って並び始めた。列の先頭にはラビ先輩が立っている。なにをするのか分からないまま列に並んでみた。並んでいる間にわたしの前に並んでいた先輩にこの列の趣旨を尋ねてみると、どうやら2人1組のペアを作るらしい。ぞろぞろと大人数で移動すると動きにくいからなんだとか。

わたしの順が回ってくるとラビ先輩はにこにこした笑みをいっそう強くした。にたにたと笑うラビ先輩が抱える箱に手を入れようとすると、箱をひょいっと下に下げられる。

「え、なにするんですか」
「こっち!こーれ」

ラビ先輩は自分の手に忍ばせていたクジをわたしの手に握らせると、「このクジのペア、誰だと思う?」と聞いてきた。
何も考えず正直に、分からないですよと答えると、にやにやとした笑みをそのままに、先輩は耳元でこっそりと呟いた。


「ユウと、ペア」

予想しなかった答えにラビ先輩の顔を振り返ると、いたずらする子供みたいに楽しそうに笑っていて、頑張れ、とだけ言われた。神田先輩だけじゃなくてみんな気付いてたのか。恥ずかしい気持ちになることもなく妙に冷静な自分がおかしい。ゆっくりと歩いて、みんなのところに戻っていった。


クジ引きのペアを探すと当たり前のようにわたしのペアは神田先輩で、分かっていたことなのに恥ずかしくて嬉しくて笑ってしまう。

「どこ行きましょうか」
「腹が減った」
「たこ焼き食べます?」
「ん」

先輩が歩き始めたあとをついて歩くと、はぐれるだろ、とだけ言って隣まで引き寄せられた。一瞬捕まれただけのはずの手首はずっと熱くて、先輩と歩いてるんだということをよりリアルに感じさせた。


「お蕎麦以外も食べるんですね」
「お前、馬鹿じゃねーの」
「えっ」
「…天ぷらも好きだ」
「…へっ」

いつもより会話が弾む。きらきらと忙しなさげに輝く提灯やお店のライトも、わたしたちの間に流れる雰囲気を明るく特別なものにしてくれていた。綿飴も食べたし焼きそばも食べた、金魚も掬ったお面も買った。ずんずん人混みの間をすり抜けて行くと、いつの間にか屋台は無くなっていて、人気のあまり無い土手に出た。

少し疲れた、と言って神田先輩が芝生に寝転がったので、わたしはその隣に腰を落ち着けて最後に買った林檎飴を食べようとした、その時だ。




「日本を発つ」


神田先輩の、あまりにも普段と同じ調子で出される声に、わたしはすぐにはその意味を理解出来なかった。

「留学、とかですか?」
「やらなきゃならねえことが出来た」

「どれくらいで戻ってこれるんですか?」
「…分からない」

普段と同じ調子のはずなのに。なんでこんなにも空気は重く、じっとりと背中に纏わり付くようなのか。そこでふと気付く、先輩の声はいつだってこんな風だ。芯が通っていて、凛としていて、いつだって前を見ている神田先輩にしか出せない声。どこかの屋台にぶら下がっているのだろう、風鈴の音が響いた。


どれくらい経ったのだろうか。やはりわたしには分からない。5分だったのかもしれないし1時間だったのかもしれないが、わたしは声を押し堪えながら泣いていた。嗚咽まじりの呼吸が繰り返される度に苦しくなった。神田先輩はあの会話以来は何もせず何も言わずただそこに居た。居るはずだけれど、もうわたしには分からない。ただ苦しい。


「 もう、泣くな」

降ってきた神田先輩の声にも顔を上げることが出来ず、なんとなく頭が熱い、薄い浴衣越しに熱い体温を感じた。
ぎゅっと、ぶっきらぼうに、でも強く抱き締められていた。先輩の体温は意外なほどに高く、肩にかかる吐息までもが熱かった。


「戻って、くるから」

だから泣くな、と呟かれた言葉には、強くて凛としているだけの神田先輩じゃなくて、何か大きなものに心を押し潰されてしまいそうな、不安に怯える神田先輩を感じた。先輩もわたしと同じ、不安なんだ。でもわたしと先輩の違うところは、自分の心が弱ってしまっている時に他の人の支えであろうとするか。わたしは、神田先輩のこういう所を好きになったのだ。わたしもこうありたいと、強く憧れた。

「待ってます」
「神田先輩が帰ってくるの、待ってますから」


わたしはこれで彼の支えになれるのだろうか。いっそう強く抱き締められる。異国の地でひとり見えない何かと戦う彼を想うと、やはり涙が止まらなかった。
両の頬に、大きくて熱い手の平の温度を感じると、ふっと温かな感触が降った。何度も何度も、言葉にすることが苦手な先輩らしい。とろとろになって零れ落ちていくこの気持ちは、涙になってやっと先輩に掬い取られていく。止まらない涙がそろそろおかしくなって、ふたりして小さく笑った。暗闇の中で、遠くにラビ先輩の声が聞こえる。


背中合わせの逆
t.氷上
120619かける


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