もう時間は夜の10時になろうとしていた時で、塾の3階の教室は全部が明かりを消されていました。わたしが忘れ物をした教室はその3階の端っこにあります。暗い廊下をそろそろと進んでいくと、ぼんやりと明かりの着いた教室。たぶんわたしが少し前まで居た教室です。誰かまだ残っているのかもしれない、そう思うと、暗闇に恐怖して狭くなっていた歩幅が少し広くなりました。

ガラガラッ。勢い良く開けたドア、やはりそこには人が2人残っていました。けれど、様子がおかしい。
わたしのテキストが置いてきぼりにされたままの机にまっすぐと向かうはずの足は急停止を余儀なくされ、眼鏡をかけて1.2の視力が難無くその2人を捉えてしまう。教室で、ちゅう。
わたしの入ってきたドアからは遠く離れた窓際でコトに及ぶ2人はわたしが入ってきたことにも気付いていないようで、止まる気配を感じられない。幸いにもわたしが座っていた席はドアのすぐ近くにあったので、急いでテキストを引っ張り出して、廊下を駆け出した。

なんて非常識な人たちなんだろう、帰りの自転車を走らせながらも目に焼け付いたシーンが離れない。女の子の方は後ろ姿しか見えなかったから誰か分からないし、男の子の方も、あんな子は見たことがない。窓枠に座りながら、女の子のふわふわの髪の毛に手をやって後頭部を引き寄せていた。さらりと長い真っ黒な髪の毛は窓の外の景色とすっかり溶け込んでいて、切り揃えられた前髪から覗く目は綺麗な黒色をしていた。ちゅうする時に目を閉じない人なんて居るんだなあ。わずかに眼鏡が曇ってしまうのは自転車を漕いでるから、顔が熱いからじゃ、ない。


今日も、いつものように授業を終えて塾に向かう。ドア近くはストーブが近い人気ポイントだ。わたしは寒がりなせいもあって、学校から直接塾へと向かい、早めに席をとるようにしている。冷たくなってしまった両手をストーブで暖めながら暫くのんびりとした時間を過ごしていると、だんだんと塾生たちが集まり出した。女の子はストーブを囲うようにしてお喋りを始め、男の子たちは宿題を写していたり、昨日のテレビの話で盛り上がっていたり、賑やかな教室はなかなか楽しい。授業開始のベルが鳴るとみんないそいそと席に着き、講師の先生を待つ。

「ねえ、知ってた?今日から数学の先生変わるんだって」
「へえ、そうなんだ〜。」
「前の先生の授業って、眠くなるから好きじゃなかったんだ」
「眠くなる声してたよね」

…よく聞いてみると周りはみんなこの話題で持ち切りのようだった。背が高い男の先生で、黒い髪の毛がさらさらのロング。女の人みたいに美形な先生らしい。そうなんだ〜と適当に相槌を打ちながらも、どくどくと心臓が動きを速める。“そんな”人を、わたしは昨日見たような気がする。

ガラッ。ドアの引かれる音に教室が一瞬静かになって、再びざわめきかけたがその先生の雰囲気が許さなかった。凛と張り詰めた空気を教室の誰もが感じ取ったのだ。教卓に立った先生はゆっくりと口を開く。

「神田ユウ。教科は数学。」

自己紹介未満な二口をにこりともせずに終えた“かんだせんせい”は、数学のテキストを開き、そのまま授業を始めてしまったのだった。


「ちょっと怖かったけど、授業は分かりやすかったな」
「うん、なんか集中して受けれる感じ」

第一印象からは予想出来なかった高評価が周りから聞こえるがそれにはわたしも同意見だ。スラスラと流れていってしまうような単調な説明がとても分かりやすい。一切の無駄を省いたような説明。いつもよりも省スペースに収まったノートなのに今日の授業の理解の方が断然深いと言える。

「 おい」

不思議な感じでノートを眺めていると頭の斜め上から声がした。かんだせんせい、だ。

「教室に残っとけ」

わたしの答えも聞かずに先生は教室から出ていってしまった。答えを聞くも何も、わたしの答えなんて求めていなかったようだ。
またもや鼓動が速く聞こえてくる。やだな。昨日「男の子」と形容した人は本当は「男の人」であって、昨日の人とはあの先生だ。やだな。みんなはどんどん教室から居なくなっていき、最後のひとり。やだな。


コツコツと、靴音が聞こえてきた。嫌でも耳を澄ませてしまう。どくどくと心臓は鳴り続けている。

ガラッ。
もしかしたら、別の教室に向かう誰かなのかもしれないとごまかしていたが、やはり開かれたのはこの教室のドアなわけで。


「お前、昨日この教室に来たよな?」
30分間わたしをひとりにして何も言わないのも、進めにくい話をいきなり始めてしまうのも、なんだか分かるような気がしな
いでも、ない。黒い瞳で射抜くようにしてわたしを見詰める先生の目を見返すことが出来ずに、何も悪くないわたしが俯いてしまった。
(首から下がっている講師証に書かれている名前、神田ユウという文字をこの時初めて見た。)

「…やっぱりな」

先生はわたしの答えを待たずに話を進めていく。

「顔赤くして固まってたのが見えた。それに、」

廊下ぐらい閉めて行けよ。
言うと同時にドアを閉めた先生は再びわたしに近付き、俯いたままのわたしに言葉を続ける。

「30分も黙って待ってるようなやつが、こんなこと他に話すわけないな」

なんだか馬鹿にされた気がして顔がかあっと熱くなった。何か言い返そうと顔を上げると、思っていた以上に先生の顔が近い距離にあった。


「まあ、口止めだな」

え、あっ、 え…。

もともと距離の近いところにあった先生の顔はあっという間にわたしの目の前に。目を大きく開けたままのわたしの、正しく「目の前」にあるもんだから、先生の黒い目とか長い睫毛とか、どれだけ血液を送り出しても酸素が足りない。どきどきどきどきし足りてない。

「マヌケな顔」

はっ、と。少し口角を上げて人のことを鼻で笑う、せんせい。口止め?ちゅうが?わたしの、

「は、初めて、なのに…」

じわっと込み上げてきた涙を隠そうとして袖で顔を隠すけれど、嗚咽が情けなく漏れていた。子どもみたいにしゃくり上げてしまう、止まってくれない。恥ずかしいし悲しいし恥ずかしいし、なんでこんなのことになったんだろう。テキスト忘れて取りに戻っただけなのに…。

なんで泣いてるのかもこんがらがってきたし、先生、いっそのこと早々に退室してひとりにしてくれないかな。恥ずかしい恥ずかしい悲しい。また馬鹿にして笑ってるんだろうかと指の隙間から見た先生は、ポカンとしていた。ひ、引いてる…人のファーストキス奪って、引いてる!

「ひっ、酷い…」
「……」

ふわりと、せっけんの匂いか柔軟剤の匂いなのか、とても落ち着く匂いがして、気付いたら先生の腕の中に収まっていた。びっくりすると同時に精一杯の抵抗を試みたが、どう足掻いても抜け出すことが出来ない。


「…悪かったな」


え、先生いま、謝った…?あまりにも言い慣れてなさそうな風に呟かれた言葉だった。なんとなく、凄くばつの悪そうな顔をしている気がした。声色や態度ぜんぶで「ごめんなさい」をされているみたいで、これ以上は何も言えなかったし、言葉も浮かんでこない。ていうか、押さえ過ぎで痛い。頭ゆっくり胸板を押し返すとぱっと腕が離れて、先生はやっぱり思っていたような顔をしていた。その顔に、なんていうか、今までとは違う感じの鼓動を感じた。ゆっくりと速くなっていく、浸蝕されていくみたいにじわじわと。自然と唇が言葉を形作っていくが、止めようとは思わなくて、人事のようだけど、感じているのは紛れも無いわたし自身。


「 す、すき?」
「 は?」


beating
111211かける


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