midnight



Words Palette@torinaxx

18
大きさの違う手
狡噛慎也(執行官)

縋るように
しっかり
従順に


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by Sicknecks



「ハァー……」

 水面から勢いよく顔を出せば、広いプールに水の跳ねる音が反響する。ちゃぷちゃぷと耳を攫う音色はトレーニング中の癒しのひとつになっていた。
 現代の海水汚染の環境問題などから泳ぐという概念が日常から消えつつある昨今、プールに馴染みのある人間は少ない。
 そう思うと馴染みのないものがこの厚生省に備わっているとはさすがと言うべきか。おかげでトレーニングと称して泳ぎの練習にもなるし意外と重宝している。志恩さん曰く「プールをバカ真面目にトレーニングで使ってるのは慎也くんとなまえちゃんくらいよ」とのことらしいけれど。ちなみになるべく人が来ない時間を狙ってきているから、今のところまだ一度も狡噛さんとも遭遇はしていない。

(今日はこのくらいにしとこう)

 プールから上がりその足でシャワーブースへと向かう。どうせ誰も来ないしもう少しゆっくりしてから帰ってもいいかなとも思ったけれど、今日は何かと現場がハードだったから早めに切り上げることにした。
 それからシャワーブースでお湯を浴び、髪を洗い流そうとヘアゴムを解けば手を滑らせて床へ落としてしまった。
 拾い上げて立ち上がろうとすると突如ふらつきが襲ってきて、傾いた身体がパーテーションへとぶつかる。

(やば……ちょっと無理しすぎたかも)

 現場が多少ハードだったとはいえ、まさかそこまで疲労が溜まっているとは自分でも予想外だった。そういえばあまりお腹も空いてなくて夕飯パスしてたっけ。気分転換のつもりにしろこれは良くない。宜野座さんに知られでもしたら「体調管理も仕事のうちだ。監視官としての自覚が足りないんじゃないのか」なんて正論とともにガミガミ説教されてしまう。

「おい、大丈夫か」

 そんなことを思いながらとりあえずシャワーを止めようと手を彷徨わせていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてくる。それが狡噛さんだと認識するも、思ったよりも頭のふらつきに気を取られて上手く声が出ない。

「あ……だい、じょぶ……」
「……開けるぞ」

 私の異変に気付いたらしい狡噛さんが扉を開けてシャワーを止める。
 振り返ることができずに壁に手を付いて立ち竦んでいると、不意に腰と手に温もりが添えられる。狡噛さんの身体が隙間なく密着するように、支えるようにして私を身体ごと包んだ。

「どうした?急に何かがぶつかる音がしたから来てみたが……具合でも悪くなったか?」
「ちょっと、立ちくらみがしただけです……」

 素直にそう答えるも、今のこの状況に気が気ではなかった。
 普通に考えて服のままでもドキドキするというのに、薄着どころか素肌を晒した水着姿である。おまけに狡噛さんは上半身裸で、鍛え上げられた身体を惜しげもなく晒している。水着だからそれが当たり前だとはいえ、ただの上司と部下という関係性でこんな風に触れるのは如何なものか。きっと男性の中でも狡噛さんくらいだ。
 頭がうまく働かない状態でも、さすがに何とも思わないでいるなんてことは私にとっては到底無理な話だった。いくら不可抗力と言えど、どうしたって意識してしまう。狡噛さんは私を心配してくれているだけで変な下心なんて持ち合わせていないのに。

「歩けるか?」

 その一言にすぐに大丈夫だと即答できない自分は本当にずるい人間だと思う。
 体調不良に託けて歩けないと答えれば、私の打算的な思いなんか知る由もない狡噛さんはきっと手を貸してくれる。彼の善意を利用して己の欲を満たそうとしている自分に心底呆れるばかりだ。
 そう、狡噛さんが断らない人だと知っているから、ずるい私はそうやって邪なことばかり考えてしまう。形はどうあれ、こうして触れられることが純粋に嬉しいから。

「……歩けない、って言ったら手、貸してくれますか……?」

 緊張で呼吸が浅くなるも、それを悟られないようにできるだけ平静を装う。
 おずおずと振り返り窺うように狡噛さんを見るが、しっかりと目が合うだけで否定も肯定の言葉もない。ただひたすら流れる沈黙に心臓が煩いくらいにバクバクと音を立てる。緊張を煽るように髪に滴った水滴がポタポタと音を立てて落ちていく。
 まるで時が止まったかのように長く感じられ、表情を変えずに黙っている狡噛さんについに耐えきれなくなり慌てて口を開いた。

「すみません、今のは忘れてくださ――」
「……いや、」

 しかしだいぶ間が空いたものの、拒否を意味する方ではない制止の一言が耳に届いてそっと胸を撫で下ろした。

「手でもなんでも貸すさ。無理はするな。むしろあんたは我儘を言うくらいがちょうどいい」
「……ありがとう、ございま――ひゃっ!?」

 耳元で吐息が触れる羞恥に耐えながら俯いて何とかお礼を述べた時、重ね合わせていた狡噛さんの手にきゅっと力が入る。指が絡まる感覚に気を取られていると、不意に耳元に寄せていた唇が小さく音を立てて私の首筋に触れた。濡れた肌に柔らかいそれが当たる感覚にびくりと肩が震える。

「こ、狡噛さん……?」
「……これは俺の我儘だ」

 それだけ言って背中を覆っていた体温が離れていく。
 そのまま何事もなかったかのようにゆっくりと手を引かれ、後ろをついて行くようにしてシャワーブースを後にした。
 狡噛さんの突然の行動で一気に頭がいっぱいになって余計に思考が働かない。今のが何を意味しているのかなんて、直接本人に問いただせるほどの勇気は私にはなかった。
――なかったのに。無意識のうちに掴まれていた手を引いて足を止めていた。
 目が眩む感覚が消えないのはきっと立ちくらんだせいだけじゃない。狡噛さんの存在自体が、その真意の読めない優しさに、私はずっと前から惑わされている。

「……私もわがまま、言ってもいいですか……?」
「なんだ?」

 低く蕩けそうな声に生唾を飲む。
 こんな状況で意味を持って触れたら色々と勘違いされてしまいそうだけど、ここまで来たらもうこの気持ちを閉じ込めておくことはできなかった。
 そっと手を伸ばして、縋るようにその素肌に身体を預けた。

「少しの間だけ、こうさせてください……」

 引き締まった身体は一切の無駄がなく掴めそうな柔らかさすらない。自分とは違うしっかりとした身体の造りに、それだけで胸が高鳴っていた。
 ハァ、と狡噛さんが小さく息を吐く音が頭上で響く。どうしよう、引かれたかもしれない。

「っ、ごめんなさい」

 慌てて距離を取って謝罪を述べる。今すぐにでも逃げ出したかったけれど、そうする前に狡噛さんに腕を掴まれて叶わなかった。

「我儘を言っていいとは言ったが、まさかこんなことをされるとはな」

「あんた意外と大胆なんだな」なんて言われて、恥ずかしさのあまり口を噤む。狡噛さんだって似たようなことしたのに。
 必死に顔を俯かせていれば、掴んでいた腕を引かれてあれよあれよと近くのシャワーブースへと連れ戻される。

「!ちょっ……!?」

 気付けばそのまま壁に追い込まれ、退路を塞がれていた。

「志恩も言っていたが、ここには俺たち以外滅多に人は来ない」

 確かめるように呟かれたそれに、何か別の意図が含まれていることを直感した。
 濡れた髪に触れる手が妙に熱っぽいのはきっと気のせいなんかじゃない。ああ、鼓動が忙しない。ドクドクと脈打つ裏でだめ、だめ、と心の中で声を上げる。

「あんたのその目は何かを期待してる目だ」

 そういう狡噛さんだって、今はもうさっきまでとはまるで違う眼差しをしている。触れる指先に、見つめる瞳に、体温とは別の熱が孕んでいるのが伝わってくる。

「……狡噛さんだって、」
「ああ、そうだよ。あんたに手を貸してくれるかと訊ねられた時からな」
「んっ……」

 そう言って一度口づけた首筋に再び顔を埋めた。
 濡れた肌に何度も唇を押し当てては、その艶めかしい音に耳を刺激される。
 ここまで来てしまったらもう後戻りはできない。するつもりもない。狡噛さんの肩に手を伸ばしたのは私なりの意思表示だった。

「……真面目な監視官が従順になるさまは見ていてとても気分がいいよ」

 吐息が触れ合うほどの距離で愉しげな笑みを浮かべる狡噛さんにただただ心を乱される。
 その言葉に反論をする気はない。けれどこのまま首に腕を回して私からキスでもしたら、狡噛さんはどんな反応をするのかな。そんな好奇心が芽生えたのは、きっと水に触れて開放的な気分になっているせいだ。


2023/08/04



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