drama
君という有機物について考えてみる
「先生!事件です!」

帝都大学理工学部物理学科第十三研究室の扉を勢いよく開ける。薄暗い入口からでは中の様子が確認出来ず人の気配も感じられないが、扉の横のプレートには在室の札が掛かっていたから彼がこの研究室にいることは確かだった。

「先生〜?」

実験で使用するであろう色々な装置や道具にぶつからないように、けれども足早に研究室の奥へと歩みを進める。しかし中央の作業台、机、コンロとひと通り見渡すもその姿はなかった。

「また君か」

頭上から声がして反射的にそちらを振り向けば、白衣に身を包み無表情でありながらも呆れた様子で返事をする変人物理学者准教授――湯川先生がバインダーを片手に階段を降りてくる。例の如く視線は私ではなくそれに向いたままだ。

「入る時はノックをしてくれと言っているだろう。その前に事件がある度に当然のようにここに来ることをやめてもらいたいが」
「昨日起こった事件、ご存知ですか?男性が死亡した事件で――」

バインダーに目をやったままPCに向かう湯川先生の姿を追いながら事件の概要を話す。最初の頃は真面目に返事をしていたが、こうして何度か関わっていくうちに湯川先生の人となりを何となく理解し――あるいはその逆か。この性格を理解しようとするだけ無駄だと察してからは、私もこうして湯川先生の返答に関わらず話を続けるようになった。

「話を聞いた限り不自然な点は何もないが。物理学者の僕が出るまでもない」

相も変わらず視線はPCとバインダーの資料を往復し、何やらぶつぶつと独り言を言っている。そんな先生の姿を見ながら小さく息を吐く。先生の背後にある黒板の数式は、文系の私からしたらいつ見ても何が書いてあるかさっぱりだ。もはや呪文にしか見えない。
このまま押し進めても良いのだが、昨夜から出ずっぱりで捜査会議や聞き込みをして疲れていた。続けることは止めにして早々に休憩へと切り替え、作業台の端にあった椅子を手に腰を下ろした。そこで初めて湯川先生が物言いたげに私のほうへと視線を寄越したが気付かないふりをする。

「そうだったらいいんですけどね。やっぱり刑事としてのプライドもありますし、天才物理学者に事件解決の手助けをいただくのは正直ちょっと悔しいですからね」
「そう思うのなら金輪際僕に関わらないでくれないか」
「でも草薙さんに言われちゃあねぇ?」

湯川先生の同級生かつ親友であり、私の尊敬する先輩でもある草薙さんに言われてしまったら断る選択肢などない。与えられない、とも言えるけれど。
草薙さんの名前を出せば湯川先生は少しばつが悪い様子でコンロのほうへと移動した。火を点け沸騰を待っている間に先生はカップを取り出し準備をしている。その様子をぼんやりと眺めながら、視界の端に映ったものに思わず頬が緩んだ。
カップが二つ、用意されていた。それは先生なりの優しさだと私は勝手に解釈している。訪れる度に「警察は暇なのか?」「早く帰れ」「ここは休憩所じゃない」などなど耳にタコが出来るほど聞かされているがそれを私は毎回軽く受け流していた。彼もまた本気で拒絶しないということは、少なからず全てを拒否しているわけではないのだと勝手に自惚れている。蔑むような視線や冷めた発言は日常茶飯事……というかそれが湯川先生だから、些か判断材料としては決定打に欠ける。

「飲み終わるまでの時間なら話を聞いてもいい」

カップが差し出され、お礼を述べながらゆっくりと口をつける。ふぅ、と声が漏れた。湯川先生の淹れるコーヒーは美味しい。誰が淹れても美味しいのがインスタントの魅力だと先生は以前話していたが、淹れる人によって味が変わる気がするのは飲む側のさじ加減なのだろうか。手にした赤色のカップにまたも頬が緩む。私のお気に入りのマイカップだ。

「先生がその気になったのに申し訳ないんですけど今日はもうやめにします。飲み終わったらすぐに出ていくので私のことはお気になさらず続けてください」
「君は一体何をしにここへ来たんだ。休みに来ただけか?やはり論理的思考が欠けている人間の考えていることはさっぱりだ」

やれやれと先生は肩を竦めた。
私が『湯川担当』としてこの研究室に足を運び始めてからいくらか経った頃だったか。研究室で差し出されたカップが薄汚れていて素直に顔が引きつったのを覚えている。なんと言うか良くも悪くも実験をする部屋に馴染んでいるなと思ったものだ。一度だけの関わりだったならまだしも、気付けば『湯川担当』と肩書きがつくくらいには縁が出来てしまった。先生からしたらさぞかし不本意ではあるかもしれないけれど。
そういう経緯があって三ヶ月が過ぎた頃に自宅で愛用していたマイカップをこっそり置いていったのだ。
湯川先生に知恵を借りるのは刑事としてやはり悔しくないと言ったら嘘になるが、変人と呼ばれていようと学者として尊敬、信頼していることは事実だった。同時に会える口実にもなるという思いが一ミリもなくはないのだけど。
結局のところ、口では何だかんだ言っても無理やり追い出さず、カップも捨てずにこうして当たり前のように差し出してくれる。それが湯川先生なりの優しさであり、そんな些細なことが私にとってはどこか心地の良いものであった。

「そんなことばかり考えて疲れません?たまには非論理的な実のない会話をするのも大事ですよ。今日のお昼は何を食べたとか昨日見たテレビがどうとか、そういうとりとめのない話」
「仮に僕と君がわざわざそんな会話をしてそれで何になるんだ。僕にとって何か有意義なことにでもなるのか?」
「いいですか先生、例えば先生は納豆やインスタントコーヒーがお好きですよね?それは先生にとっては栄養面や効率面を重視した上で嗜んでいるだけで好みとはまた別かもしれないですけど、少なくとも私にとって先生の趣味嗜好を知ることは先生自身を理解する重要な要素でもあるんです」
「君はなぜ僕を理解したいと思うんだ?いつも僕の説明を右から左に受け流しているだろう」
「確かに専門的なことは頭が痛くなるだけなのでそもそも理解しようとはしてませんけど、それ以外では先生のことを少しでも理解したいと思ってますよ。まあ簡単に言えば単純に知りたいんですよ、先生のこと」

その知りたいという好奇心は一体何なのか。凡人による変人――もとい天才への到底理解出来ない思考に対するある種の興味か、異性としての恋愛感情によるものなのか。その両方を持ち合わせている気がしているが、今の私にははっきりとした答えは出ていない。
冷めきっていないコーヒーが浅くなったところで一気に飲み干して立ち上がる。蛇口をひねり、カップを軽くゆすいで流しの端に置く。

「事件のほう、もう少しまとめてから来るのでその時はご意見聞かせてください。お邪魔しました」
「みょうじくん」

鞄を手に取り、軽く会釈をして研究室を出ようとすればしばらく黙っていた先生に不意に名前を呼ばれて振り返る。

「はい」
「次来る時にインスタントコーヒーを買ってきてくれないか」
「いいですけど……銘柄はなんですか?」
「いや、君が好きで飲みたいと思ったものでいい」

「みょうじ君を理解するにはちょうどいい。そうだろう?」そう言って先生は真顔だった表情をほんのわずかではあるが緩やかにほぐした。そんな先生に目をぱちくりさせつつも、内心どこか嬉しくもあった。

「わかりました。それではまた後日」

再度会釈をして今度こそ研究室をあとにする。先生に背を向けた瞬間から口元がだらしなく緩むのが自分でもわかった。傍から見ればそれはニヤニヤと形容するような、言わば気持ちの悪い笑みだっただろう。事実、扉を閉めて大学を出ようとしたところで栗林さんと出くわし、「何ニヤけてるんだよ気持ち悪い!まさか湯川先生に何かあったんじゃ……!?」と一人で慌てて研究室に戻っていったのを見送ったあとも治まらなかった。それほどまでに、私自身も驚くほどに、湯川先生の一言は私の中の何かを確実に刺激した。

「紅茶持って行ったらどんな反応するかな……」

リアクションのパターンを何通りか想像してみる。
茶葉ではなくティーパックタイプのもので良さを力説したら、少しは紅茶にも興味をもってくれるだろうか。


2022/09/23
title:箱庭
( BACK )
- ナノ -