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幸せのようなものばかり降り積もる

その日の彼はいつになく機嫌が良かった。
今朝は休日なのに早めの時間に目が覚めたのだが、起きると甚爾さんの姿はすでになかった。いつもの“仕事”なんだろうと特に気に留めることもなく朝食を摂り、ありとあらゆるものを一気に洗濯して隅々まで掃除した。
甚爾さんが居候してどれくらい経ったかわからないが、彼がこの家に来てから前より部屋を綺麗に保つよう心掛けるようになった。それにただのヒモではなく、その仕事とやらで稼いできた――数ヶ月分の生活費や家賃を合わせても余るほどの大金を当たり前のように差し出してくるから、どんなにだらけていてもいいように顎で使われてもその見返りを思うとどうにも無下にはできなかった。


「今日はデケェ依頼だったから報酬もたんまりだぜ。ほらよ」
「ありがと。……ほんとだ。いつもより多いね」
「オマエに束でやってもまだこんだけあんだぜ。金持ち様様だな」

日が暮れ始めた頃、うたた寝をしていたところに甚爾さんが帰ってきた。服や肌に傷や汚れが付いたままの姿を見るに、どうやらその依頼とやらをこなして来たらしい。テーブルにドサッと置かれた札束は今まで見てきた中でもかなりの額だった。

「嬉しいのはわかるけどとりあえずシャワー浴びてきたら?今日シーツ諸々洗濯したから汚されたくないし」
「つまんねぇ女だな。だが今日は気分がいいから素直に聞いてやるよ」
「はいはい。わかったからさっさと浴びてきてね〜」

促すように背中を押せば「晩メシ決まってねーなら肉食いに行こうぜ」と唐突に誘いの言葉を掛けられる。あまりにも急なそれに思わず目を丸くしていれば、甚爾さんは目だけをこちらに向け「で、メシは決まってんのか?」とさらに続けた。

「いや、決まってないけど……急に何よ?」
「別に理由なんてねぇよ。金が入ったからいい肉食いたくなっただけだ。焼肉奢ってやるっつってんだよ」
「なんかその言い方ムカつくんだけど。ヒモのくせに」
「行くなら俺が出てくるまでに支度しとけ」

自分勝手にも程があるだろ!と思わず言いたくなったが甚爾さんが奢ってくれるなんて初めてのことだ。今まで生活費と称して多めにくれたことはあったけれど、こんな純粋な食事の誘いは今までなかった。それほどいい仕事で気分も良かったということか。何より人の金で食す肉は格別だということを私は知っている。「もうっ!」なんて口では言いつつも甚爾さんからの誘いと焼肉――断る理由なんてどこにもない。



「え、待って焼肉っていうからてっきりその辺のチェーン店でたらふく食えよ的な感じだと思ってたんだけど。臭いつくからと思ってラフな格好で来ちゃったんだけど」
「大金入ったんだから高けぇ肉たらふく食うに決まってんだろ。オマエの服なんて誰も気にしちゃいねぇよ」
「そうかもしれないけど!ねぇ浮いてない?平気?」
「うるせーな。出てくるまで大人しく待ってろ」

そんなこと言われても初めて来る高級焼肉店――雰囲気の良い個室に通されて落ち着いていられるわけがない。だってどう見たって凡人の私なんかが来るような所じゃないし普通に値段が桁違いだ。そもそもこういう所って予約しないと入れないんじゃないの?甚爾さんの行きつけなのかツテがあるのか……。いや、そんなことは今はどうでもいい。せっかくの高級焼肉、存分に味わわないともったいない。緊張をほぐすためにもお酒は必須。お肉はもう片っ端から食べる勢いでいく……!


「うま。え、何これ超美味しい。めちゃくちゃ柔らかい!こんなお肉初めて食べた……!」
「スーパーの安い肉しか食ったことのない舌だしな」
「美味しすぎて怒る気にもならない!やばい止まらない甚爾さんもっと焼いて」
「しれっと俺に焼かせて食ってんじゃねーよ」
「ごめんって。これ食べたら今度は私が焼くから!」

肉を焼き始めて数十分。今までに見たことのない赤さをこれでもかと輝かせた肉たちに私の興奮と箸が止まることを知らない。肉のことをツヤがあるだなんて思ったのは初めてだ。さすが、やはり高いだけのことはある。
緊張していたから甚爾さんが焼いてくれた肉を最初こそ遠慮がちに食していたが、あまりの美味しさにその緊張もあっという間に消え去り今はただひたすら食べ続ける女と化していた。美味しさに頬が落ちるというのはまさにこのことだ。

「ふーっ、じゃあ一旦休憩するから今度は甚爾さんが存分にお食べよ」
「何エラそうにしてんだ。俺の金だろうが」
「ほら、言ってる間に焼けたよ」

耳触りの良い音と煙を燻らせたそれを食べるよう促せば、何か言いたそうにしながらも素直にタレをつけて甚爾さんは肉を頬張った。そのやり取りを何度かくり返してもペースが落ちる気配がない。そんなにお腹が空いていたのか胃袋がブラックホール並みなのか。肉とご飯を口いっぱいに詰め込んだ姿は何だか不思議と幼く見えてちょっと可愛かった。

そんなこんなで色々と小言を言われたりしながらも充実したひとときを過ごして、お腹も心を目一杯満たされた状態でお店を後にした。いや、満たされすぎてしまったかもしれない。

「うぷ……テンション上がって食べすぎたもう歩けない……」
「オマエ人の金だからって酒もたらふく飲んだろ」
「だってお酒も超美味しかったんだもん。止まらなかったんだもん」

店内と身体の熱気を一気に逃がすように静かな風が頬を掠める。幾分思考がクリアになるかと思いきや、調子に乗ってアルコールを摂りすぎたせいでむしろ頭がふわふわしていてもうこのまま地面に寝転がってしまいたい気分だった。

「てか私より飲んでたのになんでそんなピンピンしてるの」
「いくら飲んでも酔わねぇんだよ。別に好きでもねぇし。強いかどうかはまた別の話だが」
「なんかよくわかんないけど酔ってないならおぶって欲しい〜何でもするからあ〜おねが〜い」

駄々をこねる子供のように甚爾さんの裾をぐいぐいと引っ張ってみれば、急に体が宙に浮く感覚に情けない声とともに腹の底から何かが逆流してくる感覚。

「まっ……!それはまじで無理食べた物全部出る!!」

俵担ぎ状態で必死に甚爾さんの背中をこれでもかとバシバシと叩けば、不機嫌丸出しの舌打ちとともにゆっくりと体が降ろされた。

「ったく注文の多い女だな」

何とか戻さずに済んだけどよろけそうになりながら甚爾さんに体重を預ける。う……だめだ、本当に気持ち悪くなってきた。
人の金で肉を食べ、その上お酒まで飲んで挙句の果てにワガママばかり言ってさすがに調子に乗りすぎたかもしれない。謝罪の言葉を口にしようとした矢先、私の前で急にしゃがみこんだ甚爾さんに思わず疑問符を浮かべる。

「え?なに?」

酔いも相まって状況が上手く飲み込めずにいれば「さっさとしろ」と促された。あれ、もしかしなくてもおぶってくれるってこと?傍から見たらヤンキー座りで柄の悪いことこの上ないが、その言動には甚爾さんなりの優しさが表れていた。

「じゃあお言葉に甘えて……」

ゆっくりと甚爾さんの肩に手を置いて上半身を背中に預ければ、ももの裏に手が回り視線が一気に高くなる。体格の良さは普段から実感していたけれど、こうして実際に近くで直接触れるとまた少し感じ方が変わる。肩幅すごいし首めっちゃ太いし耳は薄いんだなぁとか。髪も暗くてよく見えないけど至近距離で見たら癖がなくて綺麗だなぁとか。

「いつもなら対価を求めるところだが……今日はそういう気分じゃねぇ」
「ほんとにどうしたの。そこまで気分がいい甚爾さん逆に不気味だよ」
「あぁ?やっぱり割り勘にしたいだって?」
「冗談だってば!……いや本心だけど」

だってこんな風に優しい甚爾さんは珍しすぎるからつい口をついて出てしまった。おぶってくれることにだってまだびっくりしてるくらいなのに。
理由が何であれ食事に誘ってくれたのが素直に嬉しかったんだ。恋人でもなければ男女の関係を持っているわけでもない。私たちの関係はシンプルだけど難しくて遠いけど近い。少なくとも私にとって甚爾さんの存在は一言で言い表せるような簡単なものではない。
だから彼にとってはただの食事でも、その相手に私を選んでくれたことに少しでも意味があったらいいなって。

「たまには悪くねぇだろ」
「まぁね。人の金で食う肉は美味いからね!あ、帰りコンビニ寄ってアイス買っていかない?」
「さっきシメで食ったろ。つーか吐きそうな顔してたくせにまだ食うのかよ」
「甚爾さんがおぶってくれたからちょっと治った!ね、パピコ半分こしようよ。私の奢りだぞ」
「安い奢りだな」

なんて甚爾さんは文句を垂れるが、静かな夜道に溶けるその声は優しくて温かくてそれが何だかとても嬉しくて、無意識のうちに甚爾さんの首にぎゅっと腕を回していた。……ああこれは本格的に酔いが回ってきたかなぁ。


2021/12/04(2023/04/13)
title:ジャベリン

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