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マイナスプラスゴール

絵に書いたような失態をまさか自分が犯す日が来るなんて、こんなにも後悔と自己嫌悪に陥ったのはきっと後にも先にもない。

「殺してください……」

朝陽が差し込む早川家のリビングにて、床とキスするのではないかというほどにこれでもかと額を擦り付け土下座をする。キス――その単語に昨夜の失態が鮮明に蘇ってきて、ますます怖くて顔が上げられない。目を閉じて懇願することもままならないせいで、影に覆われた暗闇をただ見つめるだけだ。外から微かに聞こえるすずめの鳴き声が爽やかな朝を主張するも、今の私にとってそれは自己嫌悪を増幅させるものでしかない。時計の針の音が冴えた脳に突き刺さる。

「とりあえず顔上げて水飲んでください」

テーブルにコップの置かれた音がしておっかなびっくり上半身を起こす。アキくんの声はいつも通り落ち着いていて、それでいて心地良くて、それが何よりも怖い。未だ目を合わせることは出来ないが、視界の先に腰を下ろしたアキくんがすでに着替えていることに気付き、この状況下でついさっきまで爆睡をかましていた自分が心底恐ろしくなった。動揺から急に喉が渇いてきて、コップに注がれた無色透明な水面にひたすら視線をやってゴクゴクと音を立てて喉に流し込む。朝からこんなにも心臓をバクバクさせて別の意味で吐きそうだ。
はぁ、と小さく息を吐くのも躊躇われるほどの沈黙が痛い。けれど自分から昨夜の話を切り出す勇気などなく、ただひたすらアキくんからの言葉を待つ。

昨夜の新人歓迎会で酔った勢いでアキくんにキスをしてしまった。
過去に公安のメンバーで飲みに行ったことは何度かあるが、お酒は嗜む程度で済ませていた。しかし昨日は隣のアキくんとマキマさんで飲み比べ対決が始まってしまい、何やかんやで私も流されるようにして飲んでしまった。頭がふわふわする感覚というのは久しぶりで、それがとても楽しくて気持ち良くて、心の奥に潜んでいる欲を引きずり出されるような気分だった。アキくんもマキマさんに潰されてだいぶ出来上がっていて、頬を赤らめてうつろな目をしたその姿に簡単に言ってしまえば情欲を掻き立てられた。そして理性をなくした私は本能のままに彼の唇を奪った。
首に腕を回して啄むように角度を変えては何度も繰り返し、熱くなった呼吸を共有した。周りの盛り上がる声に羞恥心を感じながらも、脳は興奮状態で止められなかった。アキくんも酔っていたからか、力が抜けるようにそれを素直に受け入れたのでますます歯止めが利かなかった。普段の私ならこんなことは絶対にしない。酔った状態で向かいの姫野ちゃんがデンジくんに濃厚なキス(後に吐いたと知る)をかましているのを見て感化されたのだ。
そしてそのまま寝落ちしてしまい――目が覚めたらアキくんのベッドにいたというわけだ。一瞬で酔いも冷めた。ちなみに服はちゃんと着ていて、一切の乱れもなかったのでそれ以上のことは起きていない……はず。

「なまえさんのために言っておくと、俺はデンジの部屋で寝たんで心配するようなことは何も起きてないです」
「よかっ、た……」

心の内を読まれたようで心臓が跳ね上がるも、この部屋では何もなかったということに胸を撫で下ろす。が、肝心なことは何ひとつ解決していない。キス――しかも私からしたという事実は紛れもない現実で、覆ることはない。姫野ちゃんを反面教師に酒は飲んでも飲まれるな、を肝に銘じていたというのにこのザマである。謝罪を通り越して殺してくれと思うのは、相手が一方的に想いを寄せているアキくんだったからということに他ならない。

「ちなみにパワーが俺らを家まで連れ帰って、先輩が強引に押しかけたとかでもないんで安心してください」
「本当に、ほんっとうに申し訳ございませんでした!」

この大失態を死ぬほど悔いている私を気遣ってか、アキくんは昨夜の記憶がない間の出来事を丁寧に説明してくれた。
しかしアキくんはそんなことが起きた翌日だというのに態度が何も変わらない。新人の頃に姫野ちゃんにキスされているし、さすが大人の対応と言うべきか。むしろ私が気にしすぎなだけで、体の関係がなかっただけ良かったのかもしれない。残念な気持ちがないと言ったら嘘になるが、アキくんが気にしないなら今後に支障をきたさないためにもあくまで私は普段通りにすべきか。とはいえ、忘れて欲しいに越したことはない。

「それで、その、烏滸がましいのは承知の上で、居酒屋での、その……失態は忘れてくれると、ありがたいかなーと……」
「何言ってんですか、忘れるわけないでしょ」

私のささやかな願いはまるでゴミ箱に投げ捨てるみたいにあっさりと却下されてしまった。あろうことかアキくんが近付いてきて、そのままゆっくりと床へと押し倒された。あまりに唐突な展開に思考が追いつかない。もしかして本当は怒ってる?と内心ハラハラするも、押し倒した時に頭に手を添えた気遣いや瞳からはどうにもそのようには感じられなかった。

「俺はアンタよりもしっかり記憶残ってるんですよ。あんな風に煽られて、相手が他の男だったら食われてますよ」
「それはもう、返す言葉もないです……」
「だから素面の今、聞きたいんですよ。あの時の言葉が本心なのかどうか」
「あの時……?」

アキくんの言葉に曖昧な記憶を必死で思い返すも、思い当たる節はない。居酒屋でのキスまでしか覚えていないから、その後に起こったことなら私は何も覚えていない。もしかしてとんでもないこと――酔った勢いで一番口にしてはいけないあの言葉を口にしてしまったのだろうか。

「ベッドに運んだ時にうわ言のように呟いたんですよ。俺のことが好きだって」
「っ!そ、それは……」
「本心なら昨日のキスは失態にならない。眠りこけるアンタに、俺がどんな気でいたか知らないだろ」

アキくんの言葉の意味を理解するには正直処理が追いつかない。けれどここは誤魔化すことなく素直に自分の気持ちを伝えるべきだと本能的にそう思った。そうすれば今この瞬間から変化が起きる、と。きっとお酒の勢いでキスしたのは、仕事仲間という関係を打破したいと心の奥底で強く望んでいたからだ。

「……本心だよ。アキくんのことが好きだから触れたくて、キスしたいって思ったの」

ここで絶対に瞳を逸らしてはいけないという強い意志でアキくんを見つめる。酔った勢いとはいえ、あの行動は紛れもなく本心からくるものだ。好きな人とじゃなきゃ、アキくんじゃなきゃキスしたいなんて思わないんだから。

「じゃあもう我慢しませんよ。俺もなまえさんと同じなんで」

そう言って唇を塞いだ。何かを言う隙さえ与えられなかった。まるで昨日私がした時と同じように、啄むように角度を変えて何度も。一度離れたかと思えばすぐにまた柔らかい熱に侵されていく。
求めるように自然と絡まった指を、私は素直に握り返した。アキくんに触れているだけで満たされていく。幸せな気持ちでいっぱいになる。自業自得とはいえ、こんな形で気持ちを伝えることになるとはさすがに予想外だったけれど。

絵に書いたような失態をまさか自分が犯す日が来るなんて、こんなにも後悔と自己嫌悪に陥ったのはきっと後にも先にもない。けれどそれがなければ、こんな風に触れ合って充足感に満ちた思いを知るのはずっと先――もしかしたら知らずにいたかもしれない。
だからほんの少しだけ昨夜の自分に感謝しているんだ。この期に及んでアルコールのおかげだなんて言ったら、さすがに呆れられてしまうだろうか。


2022/11/28
title:まばたき

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