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くちづけの好色

「トリックオアトリート」とお菓子を求めるよう手を出せば「悪ぃ、忘れた」と特に悪びれる様子もなく夏也は言った。私の反応を楽しんでる節がある夏也のことだからきっとわざと忘れたに違いない。ということはつまり悪戯をしてもいいということになるのだけど、形式的なものとして言ってみただけだったから肝心の悪戯については何も考えていなかった。別にないならないでいいんだけど「悪戯、何すっか考えとけよ」なんて、される側が妙に楽しそうだったからこれを機に真面目に考えてみようかと思ったのがつい数時間前の話。
ハロウィンはクリスマスやバレンタインに比べたらさほど重要視していないイベントだと思っていたのだけど、夏也に言われてから私は生まれて初めてその重要視していないイベントにかこつけてある思いを胸に秘めていた。
いわゆるキスマークというものを自分からつけたことがない。そもそも女性から男性につけること自体が稀である――かはわからないけれど。普段の私もそれに関してこだわったことがないのだが、悪戯と聞いてふと思い浮かんで私もやってみたいな、と何となく思った。もちろんきっかけは単なる好奇心に突き動かされてのものだけど、それだけではないのだと目の前で眠る夏也を見て改めて思う。好きだから――その気持ちを形に表す方法としてしたいなと。普段は恥ずかしくて滅多に素直な気持ちを口に出すことはないけれど、心の中ではいつも強く想っているのだということを伝えるために。
考えとけよなんて言ったくせに寝落ちするなんて、これはもう自分が言ったことも忘れてるだろう。でもその方が都合がいい。
床で気持ちよさそうに寝息を立てている夏也をそっと覗き込む。普段夏也にからかわれてばかりいるせいか、無防備な寝顔を見ていると何だか優越感のようなものが湧いてくる。心なしか普段よりも幼く見えて、“可愛い”なんて似つかわしくない言葉が出そうになった。
無意識に手が伸び、柔らかな髪に触れてそのまま頬に手を滑らせる。さすが鍛えているだけあって無駄な肉がない。私とは明らかに違う感触に何だかいつも以上にドキドキしているのはきっと、寝込みを襲っているような背徳感とこれからしようとしていることへの緊張からくるものなのかもしれない。
首筋に指を這わせればくすぐったかったのか夏也が少し身動ぎをして慌てて手を引いた。何だかとても悪いことをしているみたいで心臓に悪い。でも目を覚ましたらそれこそ恥ずかしくてどうにかなる。起きないうちにやってしまおうと意を決して首筋に唇を寄せるものの、はたと気付く。もし痕がつけられたとしてどのくらいで消えるのか。何日も消えないとなると競泳をしている人間相手にさすがにそれはまずい。どうしよう何もわからない。慌ててスマホを手に取り、ド直球な単語で検索すればどうやら三日から一週間はかかるとのことらしい。……ダメだやめよう。これは競泳に真剣に向き合っている夏也に対して失礼だ。
急に冷静さを取り戻し、スマホを置いて気持ちを切り替えるように夏也に毛布を掛けてやろうとすれば、眠りから覚めたらしい夏也とばっちり目が合った。

「何だよ、悪戯しねーの?」
「はっ!?お、起きてたの!?」
「そりゃあんな至近距離で息かかったらくすぐったくて目も覚めるっての」

なんだそれ!お酒飲んでるし絶対起きないと思ってたのに!あの時点ですでに意識があったのだと思うと恥ずかしくて顔から火が出そうだ。いやもう出てるかもしれない。だってこれ以上ないほどに頬が熱い。
しどろもどろになりながら言葉を探していれば「寝込みを襲う悪戯ねぇ」とよく見る人をからかうような顔をしていた。

「違う!違うから!!」
「じゃあ何だよ?」

やばい、墓穴を掘ったかもしれない。ここで本来の目的を言うのはあまりにも屈辱だ。こんな恥ずかしいこと自分の口から言えるわけない。

「な、何だっていいでしょ。もう終わり!」
「途中でスマホいじってたし検索履歴見れば一発でわかりそうだけどな」
「っ、ずっと様子窺ってたとかサイテー!もう寝ろ早く寝ろ!」
「痛って!悪かったって」

近くに転がっていたクッションを全力で叩きつけてやれば、言葉とは裏腹に大して痛がる素振りも見せずに片手で受け止めた。そのまま上体を起こして覗き込んでくるからあからさまに顔を逸らしたら「本気で怒ったなら悪い。からかいすぎた」なんて言われたけどそうじゃない。憎まれ口ばかり叩いて素直になれない私自身に嫌気がさしているのだ。
軽く頭を撫でられ、そのまま引き寄せられるように夏也の腕の中に収まる。少し高めの体温が心地よくて、気が付けばぽつりと本心を打ち明けていた。

「……しるしをつけてみたいと思って、」
「なるほどな。悪くない悪戯だな」

くすりと笑う声はどこか楽しそうだ。悪戯を心待ちにしているなんて、まるで期待しているかのように聞こえてしまう。

「でもつけたらなかなか消えないって書いてあったし競泳にも影響出るからやめた」
「確かにな。でも最初から上手くできる奴なんていないだろ?何事も練習あるのみだ」
「どういう意味?」
「俺が手本見せてやっからちゃんと覚えろよってこと。なまえができるようになりたいってんなら手取り足取り教えてやらねーとな?」

得意げな夏也と目があったのも束の間、ゆっくりと首の後ろに手を添えられそのまま口を塞がれた。
何度も角度を変え、骨の髄まで溶かされるような濃厚なそれに頭がぼーっとして何も考えられなくなる。口内を蹂躙され、熱くなった吐息と互いの唾液が深く絡み合った時には心身ともにとろけてしまっていた。

「どこにして欲しい?」
「……見えるところはだめ」
「おまえはその見えるところにつけようとしてたくせに。ま、水着着たらどこもアウトだけどな」

すっと首筋をなぞりながら不敵な笑みを浮かべる。夏也に触れられるだけで変な声が出そうになるから無闇に触らないで欲しいのに、知ってか知らずかこの男は本当に……!

「あれはっ……未遂だし。キスもしてないし。なんなら触れてもいないし」
「そんなに必死になって否定しなくてもいいだろ。……今の季節だと別に見えねぇと思うが……鎖骨下辺りにでもしとくか」

抜けきらない恍惚とした表情で夏也を見つめていれば、襟首を下げられ晒された素肌を刺激するように濡れた舌が触れた。興奮と恥ずかしさで体が震え、そんな私の漏れ出る吐息をさらに煽るように夏也は小さく音を立てながら何度もキスを落とした。

「服伸びちゃう……」
「今日くらい我慢しろ。ワガママばっか言ってっと脱がすぞ?」
「やだ……寒い」
「だったら大人しくしてろ」
「いっ……!?」

肌を強く吸われて痛みで体が強ばる。初めての感覚に荒くなる呼吸を抑えられずにいれば「痛かったか?」と夏也が心配そうに覗き込んできた。無意識に夏也の肩に乗せていた手に力が入りすぎていたみたいだ。

「っは……大丈夫、」
「ん、じゃあ次はおまえの番だ。できるか?」

そう言われるもあらゆるものを吸い取られた気がしてもう体に力が入らない。肩口にもたれかかって無理だと伝えれば「見るからに骨抜きにされたって顔してるもんな?」とまたからかわれた。事実だから言い返すことすらできないけど認めるのは何だか悔しい。

「……やるだけやってみる」
「おう、やってみろ」

悔しいからあえてやることにした。私も夏也も煽り煽られていることを自覚していながらそれに乗るから、もはやお決まりの展開のようなものだった。
丁寧に首を傾けて待ち構える夏也は何だか楽しそうで、惜しげもなく晒された素肌にごくりと息を飲む。普段は競泳で上半身なんて見慣れたものなのに、こうして服で隠されているせいで首元がいつもより色っぽく見える。隠すほうがそそられるというのはこういうことを言うんだなとぼんやりと感心していた。

「本当にいいの?」
「そういう心配は痕をつけてからだ」

ゆっくりと深呼吸をした後、意を決して夏也がしたように舐めて、キスして、それから吸い付くように唇を押し当てる。鍛えているせいか首元とはいえ少しだけ皮膚が硬い。気持ち強めに吸い上げれば音が耳元に響いて、それが自分から発しているものだと思ったら急に耐えられなくなりすぐに離してしまった。なんだこれ、想像以上に恥ずかしいし教えを丁寧に実践しているというのが新手のプレイみたいで言いようのない羞恥に駆られる。今更ながら私はとんでもないことを口にしてしまったんじゃないかと思わされた。

「これ以上は無理っ」
「何だよもう終わりか?ま、今日はこの辺にしといてやる。一生懸命になってるなまえ、すげー可愛かったぞ?」
「うるさいっ、いちいち口に出すなバカ!」

背を向けてテーブルにあるお茶を一気流し込む。とっくに冷めてしまっていたけれどその冷たさが熱を落ち着かせるにはちょうど良かった。

「おい、まだハロウィンは終わってねーぞ」
「あと15分しかないんだから終わったも同然でしょ」

背を向けたまま壁に掛かった時計に目をやれば長針は9を指している。そもそも時間きっちりに考えている人のほうが珍しい気もするけど。

「俺はまだだってこと忘れてるだろ」
「お菓子ならあるよ」

小腹が空いた時に食べて置きっぱなしになっていたチョコ菓子を取ろうと手を伸ばしたら、後ろから腰を掴まれて引き寄せられた。

「“Trick yet Treat.”」
「え?トリック……なに?トリックオアトリート以外の意味知らない……」

視線だけを夏也のほうに向ければふと耳元に口を寄せてきた。

「“お菓子はいいから悪戯させろ”――こっから先はお手本じゃなくてお楽しみの時間だぜなまえ」

吐息混じりに囁かれたその言葉とどこか弾んだ声。それだけでこれから何をされるか容易に想像できてしまうのはわかりやすい夏也のせいか、それとも私がどこか期待していたからなのか。
どちらにせよ夏也が仕掛けた悪戯からは逃れることはできないのだ。


2021/11/03
title:金星

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